読みましたー。
まぁ、男がどうだとか女がどうだとかはめんどくさいので捨て置きますけど、武器屋をウロウロしている覆面の男に話しかけたら「男がどうだとか女がどうだとか画一的な物言いをしないよう気をつけろよ、あと武器はそうびしないと意味がないぞ」って教えてくれたんで捨て置きますけど、感情的な思考と、論理的な思考を、いつだってそれぞれ両の手にそうびしていたい俺こと僕です。
今は昔、ズイショさんの家では皿いつ洗うねん問題というものがありました。僕は料理をしない人なので、食後の皿は僕が洗いますよってことで日頃やっているわけですけれども、割とのんびり屋で端的に言って腰が重い僕は、そのまま放っておけば食事を終えてから皿を洗い始めるまでの時間がずいぶん長くかかるタイプの人間でありました。そうすると嫁さんの方がヤキモキしまして、何なら僕が腰を上げるのを待たず勝手に皿を洗い出したりするのでたびたび我が家ではそれが生っちろい押し問答になるのでした。使った皿をさっさと洗いたい彼女はすぐに皿を洗うべき利点を列挙しますし、皿はそのうち洗えばいい僕は皿を後になって洗っても結果は変わらない根拠を列挙します。お互いあーだこーだ言っておりますが、結局嫁さんは感覚的に皿はすぐ洗いたいし、僕は感覚的に皿なんていつ洗ってもいいと思っているのです。このエントリの本題は、感情的だとか論理的だとか様々な観点から自分の正当性とか相手との妥協点とかを見出す僕たちが如何にいいかげんに仲睦まじく妥協点を探していくべきか、というところになりますので、実のところ皿はいつ洗うのが適切なのか科学的な検証はさしたる問題ではありません。ともあれ、我が家にはそういう皿いつ洗うねん問題が存在したのです。
我が家の結論から言えば、今は極力、汚れた皿が出た段階で時間をおくことなく僕が洗うように現状なっております。なぜ僕がそうなったかというと、「彼女は汚れた皿をそのままに置いていくことを感情的に好ましく思わないから」です。理由はこの一点です。これ以外の理由はありません。例えば、「汚れた皿をそのままにして置いておくことが総合的に論理的に考えた時不衛生だから」という理由で僕は皿をなるだけ早く洗っているわけではありません。僕はそうは考えていないからです。彼女はきっとそう思っているけれど。これは、心の話なので、実のところ皿はいつ洗うのが適切なのかはさしたる問題ではないのですが、僕は論理的には皿をすぐさま洗う必要性はないと思いつつ、彼女の感情的な「皿をすぐさま洗いたい」気分を論理的に考えた結果、すぐさま皿を洗うことを選択したのでしょう。と考えることで、僕は感情的な「皿はすぐに洗わなくてもいい」気分を棄てるに至ったのです。
日頃生きていて、嫌だなと思うタイプとして、自分の中での感情的な結論と論理的な結論が一致した時に気が大きくなる人間というやつを僕は思いつく。この二つが一致する時というのはハッキリ言って、たまたまだ。当事者の望むままに故意に解釈したと言って差し支えないパターンだってあるかもしれない。そんな時に「正しさ」を見出すことは主観では簡単ではあるけれども、客観的に見て正しいかどうかはどうにも怪しい。例えばずっと抱きたかったアノ娘が目の前にいるとして、彼女も俺に抱かれたいんだと確信して抱き寄せようとしたその瞬間に福澤朗がやってきて「ソノ娘は本当にあなたに抱かれたいでしょうか?」と言われた時、僕はどれだけ力強いYESが言えるだろうか恐らく何も言えない。それを言われた瞬間目の前のアノ娘は僕の知らない女ノ子になって、僕はどうにも気まずい笑みを投げかけるほかないだろう。僕の抱きたさと、彼女の抱かれたさを頭の中で勝手に溶かして混同していた自分を恥じるだろう。僕の抱きたさは僕の感情の話で、彼女の抱かれたさを推し量るのは僕の論理の話だ。僕の感情的だとか論理的だとか、主観的だとか客観的だとか、そういうものは結局その程度の精度だと僕は思っている。
めちゃめちゃ極端な例になってしまったし、福澤朗まで登場してしまったので僕は今新幹線に乗り込まんとする福澤朗にうなぎ弁当を差し出しているけれど、すいません名前の横にジャストミートって書いてもらっていいですか? 書かないってなんだよ失礼なやつだな、お前の誠意って言ったらジャストミートじゃねえのかそうだろうがこの野郎!
自分の中での「これはどういうことなんだろう」と考えた結果と、自分の中での「こうあって欲しい」がピッタリ重なった時の高揚感、ありゃすごい。とは思うんだけど、それってどんだけ確かなのかしらん。その高揚感に素直に鼻息を荒げても、いいものなのかしらん。言って良いことと悪いことがあるとは教わったけれど。言って良いことはどんな言い方をしても良いものなのかしらん。
結局、「私にはそうとしか思えないんだから絶対にそうなんだ」と言う人も、「私はいたって冷静で論理的に考えた結果そうなのだから間違いないのだ」と言う人も、傍から見れば同じような人で、「感情的」という私の心と「論理的」という私の心が、同じ結論を出したことに舞い上がってしまっている。論理的に自分は間違ってはいないということを確信した時に、感情的になってもいいという免罪符を獲得した気になってしまう。それは、私が私に甘えてしまう瞬間なのかもしれない、徒に論理を振りかざして構わず思ったことをそのままに言っていい関係性を相手との間に獲得してしまう瞬間なのかもしれない、勝手にそんな気になった瞬間なのかもしれない。ともあれ僕は、そういう瞬間が大嫌いなのだ。
と、まぁ、つらつらと語ってきた「感情的」だとか「論理的」なのだけれども、ここまでどうにも読みにくかったとおり、これ自体随分不親切で主観的でどうにも定義ができていない言い方なのかもしれない。それでもどうにもそういう言葉がある以上、僕らは少なくとも自分の中では、感情的とか論理的とか、そんな言葉遊びで言い換えてああならこうとかどうならそうとか、たった一つの頭で身体で色んな思いを馳せることができる。自分をどう言い表したもんか選ぶことができる。感情が論理を縛ったり、論理が感情を縛ったり、まぁめんどくさいことは色々あるんだろうけれども、その二つを同時に抱え込んでいることで色々なことを一手に考え、その手で何をするべきか考えられれば。一つの脳に、二つの心があれば。以上です。