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オタクは推しを「産んでる」のかもしれん

某お笑い芸人に一目惚れして推しになった人が色々やりすぎて推しに嫌われてしまったみたいな話が話題になってたので読んだ。

被害者側(の相方)の対応も含めてすべてが感情がゴリゴリに前のめりに先走ってる話なのでここの部分がおかしいとかここの部分は同情できるとかここでこうしてたらもう少し違ったんじゃないのかみたいな話をしたって仕方ないのでまるっと割愛するが、これだけは思ったこと書き残しておこうと筆を取ったのが掲題の感覚だった。

 

こういうファンばっかりだとは思わないが、まあこれに近い感覚で推しを推すファンって一定数いるんだろうとは認識している。俺にはそういう感覚がビタイチわからないので「そういう人もいるんだな」くらいに考えていたのだが、今回のnoteで言語化されてる当人の思考を見て、この人たちもしかして「産んでる」んじゃないのかなと思ったのである。これはもちろん比喩で「産んだ気になってる」とかの方が割と正確なのだが、あえて「産んでる」と呼ぶ。

ここまでどっぷりいってるファンの話はしばしば見かけるが、だいたい一目ぼれの瞬間はその当人が人生の中でものすごく苦しい時期にやってくる。自分がものすごく苦しい時にその推しに出会って、パァッと自分の人生から見える景色が色彩を帯びて多幸感に包まれてる。それってなんかもう、自分の人生の苦しみを産みの苦しみと誤認して、推しを産んだ気になっていないか?

我が子はかわいい、大変な思いをして授かった我が子、そりゃかわいいだろう。幸せになってほしいだろう。そして推しが幸せになるために売れるために有名になるためにもっと多くの人に好きになってもらえるために足りないものがあったらそりゃあ気になるだろう。推しの幸せや大成を願えばこそ一言忠告せずにはいられないだろう。心情としてはわかる、俺にはビタイチ持ち合わせていない考え方だが心情としてはわかる。なぜなら、そういう風に愛してるからこそ子どもをコントロールしようとする親を過去に見かけた経験を数えれば枚挙にいとまがないからだ。

つまり彼らは人生の苦しい瞬間に推しと出会った一目惚れを通して、ほとんど「産んでる」のだ。

子は選ばれて親の元にやってくるわけではない。しかし、それでも唯一無二の我が子だ。愛おしくて愛おしくて仕方がない。幸せになってほしい。幸せになってもらうためには幸せになって然るべきルートを歩んでもらわなくてはならない。成功する見込みがあるからと吟味したわけではなくほとんど産んだみたいな一目惚れであればこそ、推しの大成を願ってあーだこーだ言いたくなるのかもしれない。

そういう親、めっちゃおる。

その推しが才能を見込んで見染めた生身の人間であれば本人の置かれている環境たとえば事務所や芸能界のありかたに文句を言えるだろう、その推しがソシャゲのキャラであればそのキャラを冷遇して解釈違いの使い方をする運営に文句を言えるだろう、その推しが漫画のキャラであれば作者に文句を言えるであろう、しかしその推しが特に才能にほだされたでもないほとんど産んだみたいな一目惚れであれば文句を言う先はどこに向かうであろうか、そりゃ本人に行くのだろう。だってもう感覚的には親なのだから。我が子が幸せになることを誰よりも願い、そのためになら誰よりも厳しく律する、世界の誰もが見放しても自分だけは見放すことなく、その子が世界に受け入れられるように徹底的に心配して指導して面倒を見て、何より推しの行動のひとつひとつに誰よりも深く一喜一憂する。そういう親、なんぼでもおる。

 

なので、そういうふうに考えて解釈してみたら「なるほどそういうことなのか」と思った。

 

これを書いている俺も一児の親をやってるんだが、じゃあ親だからその感覚がわかるんかお前の中にあるんかと言われたらまったくわからん、まったくない。推しだろうが我が子だろうが所詮は他人だ、俺にどうこうできることはないし、なるようにしかならん、育つようにしか育たん。だからどのみちわからんのだが俺にとってのそういう当たり前が全く通用しない、愛ゆえに我が子をなんとかしてあげたくて仕方ない親、我が子のあるべき姿を調停してあげなくてはならんと考える親、そういうやつは割と普遍的に見かける機会があって、ネットでたまに見かける推しを推しすぎてしまうやつよりは見かける機会があって、でも本質は同じなんかなと思ったら俺の中で腑に落ちた。腑に落ちただけでそれ以上は何もない。

 

他人は思い通りにならない、孤独を愛して、隣の孤独を何も言わずに愛したい。

 

以上です。