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松本人志の一連の文春報道についてのサンジャポ太田の言葉雑感

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一連の報道のこれまでの経緯や、それを取り巻くネット世論の整理などは割愛する。

 

テレビやネットやでの一連の報道に関する芸人やタレントのコメントは忖度が過ぎると眉を顰めたくなるものも多い。「文春側が言ってるだけだから」「本当のところはわからない」「裁判を見守るしか」等等。

これらのコメントがなぜ訝しく感じられるかというと、偏に誰もが「週刊文春の報道に対してのコメント」に留めていながら明らかに誰もが松本人志により親しい人間であることに依るだろう。明らかに松本人志と強い利害関係を持ちながら報道に対しての中立を装うのであれば、最早それは中立とは言い難い。その姿勢を「逃げている」と揶揄されるのはやむを得ない。

一方で今回の太田光は「報道に対するコメント」ではなく「報道の渦中にある双方の当事者に向けた言葉」である点が大きく異なるように感じた。また、双方に対するそれぞれのコメントに強く感じたのは現在の状況に対してのエールや寄り添いであるのと同時に、未来に対してのエールや寄り添いでもあるという点だ。

文春を通して告発した女性ら(あるいはその背後にいるさらに多くの性被害経験のある人々)へは、過激松本擁護派のネットバッシングを念頭において、告発をすること訴えることの困難さ、困難さゆえに躊躇してしまう自身への自責心について触れながら、理不尽と感じたことを理不尽だと思うことは悪いことではない、自分の感じた思いを他人から否定されてもあなたは間違ってないから自分を責めないでというような内容に受け止めた。そしてこれは、現在の状況を受けての言葉でありながら、この騒動がどのような形で決着を見せるにせよ、それが当人にとって納得し難い形になったとしても何も変わらない、どんな形になったとしてもあなたは悪くないし自分を責めないでという未来に対するメッセージであるようにも感じた。

一方で松本人志に対しても同様の視点から現在と未来への言葉を投げかけていたように感じられた。まず現在については、松本人志はどうあれ告発された時点でどうしたって窮地に追い込まれている。恐らく苦しい心境だろうという前提から話を切り出す。(自業自得だとか、いや人を舐め腐って大して慌ててもないだろうとか、色々な意見はあるだろうが割愛)今回の報道が世に出たことを「賽の目は投げられた」と形容するのはあんまりよくないのかもしれない(なぜなら当事者双にとっての事実はそれぞれにとって既に存在している)があえてそう形容するならば松本の側は賽の目が確定するまでもなく圧倒的に負けている(自業自得という声以下割愛)。その既に負けている現状への松本人志への太田なりのエールはああなるのだろうという印象を受けた。では、太田が松本人志の未来へ向けた言葉とはなにか、それはとても切実で真摯で厳しいエールだと感じた。

この騒動はなんらくの決着を得るだろう。しかし、それがどのような結果であれ賽の目が投げられた時点でどんな賽の目が出ようとも一度転がり落ちるしかないのだ。示談が成立しようと、文春から勝訴を勝ち取ろうとも、それを勝った許されたと勘違いしてはならない。結果そのものへの不服の声は当然上がるだろうし、そもそも世論の争点は加害性の有無にもともと留まってもいない、そこでどんな決着が出ようとも全ては以前とは変わってしまったのだ。一方でテレビでは「よかったよかった松本さんおかえり」とみんなが歓迎するだろう。前者の声に耳を塞ぎ、後者の声だけを頼りにもう一度玉座に座った時に松本人志は真の裸の王様となるだろう。そうはなってくれるな、お笑いでいるのなら間違えずに一度ちゃんと転がり落ちてくれ。そんな風に俺には聞こえた。

以上です。