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Netflix『浅草キッド』面白かったね感想文

劇団ひとりの監督作品『浅草キッド』面白かったね〜。なんかいわゆるマジックみたいな奇抜な展開はなくて、割と淡々と進んでて、でも見終わってみると要らないシーンは一つもなかったねと思えるようなしっとりとした質感があって、「スクリーンで観たかった」みたいな感じではないけどこれは確かに映画だった良い映画だったみたいな、すごく不思議な鑑賞後感だった。もちろんそれはラストの演出ありきなんだけども。みんな面白いからアレまじで観た方がいいよ、俺はみんな観た方がいいよ、と思った。一応、まだ観てない人への配慮はしつつ、既に観た人にアレ良かったよねと伝えたい気持ちと半々で、だらだらーっと感想を書いていきたいと思う。

しかしそれでも、例えばダビデ像という彫刻を作ったミケランジェロというおっさんが言ってたとおり「魂の形を彫り起こしただけです」みたいな、そういうタイプの映画だから、いくら喋ろうとしたところで、既に監督や出演者がどこそこのインタビューで語った内容とか、既に各種メディアで書かれているような批評の内容と多くの部分で重複しそうで、オリジナリティのない内容になりそうで何だか恥ずかしいのだけれども、作り手の届けたいものと観た俺が受け取るものが一致するように作られてる映画なんだからもうそれは仕方ない。仕方ないんじゃないかなと思う。

なんと言っても柳楽優弥が良い。ビートたけしの若い頃をそれでは演じてみましょうというクソ高いハードルをきっちり数cm越えていててすごい。ビートたけし独特の癖のある動きを要所で見せながら、そのままありのまま立っているのがすごい。それを成立させてるのは、松村邦洋の演技指導も勿論なんだが、やっぱり一番頼もしいのは、照れ臭そうで自信なさげで真っ直ぐなあの黒く澄んだ黒目だ。あの目の瞬き、表情を見るだけで監督が柳楽優弥にあの役をオファーしたのが何故かがよく分かる。この映画が何より素晴らしいのは、この映画がビートたけしの成長譚であることが一目瞭然である点にある。この映画にケチをつける点があるとすれば、時間軸が若干無闇に複雑だよなぁというところが初見見始めて気になった。世界のキタノとなった現代から始まって、師匠のもとを飛び出たどさ回りの時代へと回想が始まり、そこからグワッと師匠のいるフランス座にタケシが飛び込むその数年前に巻き戻る。そこから若き日のタケシの青春を描いて師匠と訣別するシーンをやって回想前のどさ回りの時代へ戻る。そこからまた時間軸は真っ直ぐに進んで行きつつ合間に現代のキタノのシーンを挟みながら、こんなん泣かないの無理でしょの終盤に突き進んでゆく。

この時系列、ちょっと無理があるでしょと思うんだけど、それを成立させてるのが柳楽優弥。逆に言えば柳楽優弥がいたからこそ「この構成で、俺の1番やりたい構成でいけるっしょ」という劇団ひとりの強気を感じる。

時代は1970年代の浅草だ。俺が何より物語を見ていて痛感するのは、「この時代の『冗談を言う』って、どれくらい特異で大変なことだったんだろう」ということだ。時代はまさにテレビが出始めた時代で、そんな時代だからこそ師匠とタケシは道を違えることになる。今からして見れば何てことないシーンではあるが、あの一旦の訣別のシーンとそこに至るまでのタケシと師匠との日々というのは俺にはなんだか途轍もなくグッとくるものなのであった。

テレビもあるし何ならテレビも時代遅れで、YouTubeもあればNetflixもある現代。みなさん、冗談を言うことに何の憚りがあろうか?お手本は日常生活に溢れるほどに溢れすぎている。それらを真似すれば学校の教室でも、職場の休憩時間でも、いくらでも人気者になれる。むしろそんな指針が無かったら何をどうすればいいか何やらわからない。それくらいにお笑いの文法とか文脈みたいなものが目を背けることもできずに溢れかえる現代を我々を生きている。

1970年代は果たしてそうであったか、ということに俺は思いを馳せてしまった。

それらの下品な文脈を作って作って作り倒したビートたけしが、そんなこともよくわからず、フリを振られておどおどしてしまうそんな時代が確かにあったんだと、俺はあの若き日のタケシを演じた柳楽優弥に思ってしまったのだ。

クラスのちょっと面白いやつらがこぞって芸人を目指す現代とはまるで違う、芸人として生きることを選んだ奴らだけがそのように嘯いて生きるその当時のお笑いの下賤さと尊さを俺は感じずにはいられなかった。

冗談を言うとは踏み込むこと、人と仲違いしてでも我が道を行くこと。

そんな当たり前のことが当たり前に馬鹿にされて、そんなこと誰にでもできることじゃなかったから腐されて、それでもそれに命を賭けるんだと決めた人たちを見て、俺はなんだか泣いてしまったのだ。

ここらへんの事情は、今の時代も実際には変わらない。お笑いに一生を賭けるなんてのは、学んだ蓄積はいくらかあったとしても馬鹿げた人生の使い方であることには変わらない。お笑い芸人を目指す奴らがみんな、クラスの人気者だとはまるで思わない。そういう意味では柳楽優弥の演じたタケシと誰も変わらない。そういうふうに世界は巡っている。

だから、柳楽優弥の演じたタケシはグッと来た。自分が何になれるかはわからないけど何者かになりたくて飛び出して、冗談の一つも言えないくせに飛び出して、おっかねえ師匠に冗談を投げ込もうとする柳楽優弥はかっこよかったし、タケシもかっこよかった。

大泉洋ももちろんかっこよかった。こっちの役についてはあまり想像もつかない。けど、むしろこっちの方がリアリティがあるかもしれない。彼の鬼籍までの道を辿ってみれば、むしろそっちの方がリアリティのある人生だ。俺はこうして生きていくんだ、だけどそうは生きれなかった、そしてそのまま死んでいく。実にわかりやすい、ありがちな人生じゃないか。なぜ死んでしまうのか?問うまでもなく、死ぬべくして死んでいく。生きながらえる理由はどこにもなかった。タケシという弟子がいるだけまだ幸せだっただろう。

ノスタルジーたっぷりに描かれる本作だが、本質にはそんなところはないような気がしていてて、今だ今をどう生きるかだが全面に出ていて、生き残ってしまったところでその時には何もなくって、虚無とか喪失とかしかないのかもしれない。それでも生きていくしかないとしか思えなかったのは、見てるこっちが泣いて笑ってるからなのだろう。

良い映画を見れば、もう少しだけ生きようと思える。そんな映画だった。とても良い映画だった。

以上です。