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松井優征の作劇のクセを知ってると『逃げ上手の若君』怖いよー

あのー、松井優征のやり方ってすごくシンプルで、根っこは死ぬほどシンプルにテーゼvsアンチテーゼなんですよ。

もちろんその後にはジンテーゼで締め括る。これが松井優征が見つけた勝ちパターン。

 

魔神探偵脳噛ネウロは、「欲vs悪意」の物語でした。謎を食べたい魔神・ネウロと食欲旺盛な女子高生・弥子がタッグを組んで様々な殺人事件に立ち向かう作品で、中途に出てくる犯罪者たちはお前どうなのよという奴らもたくさんいましたけどネウロはその全てを「その人間がどうしても成し遂げたいと願って成し遂げる欲が一番うまい」と歓迎して、弥子はそれにわかんねーけどわかる部分もある、と悩む。最終的にはそういう弥子にとってもわかることはひとつもなくて、ネウロにとっても超つまんねぇ純然たる悪意・シックスと戦うことになって終幕を迎える。自分のことしか考えてなかったはずのネウロが、数多の人間の欲望に触れて、守るべき欲望と単なる悪意としか言えない欲望とを区別して、戦う相手を決めて、「人間の可能性」を守るために悪意相手に立ち塞がる。結果、「人間の可能性」は守られる。良くも悪くも欲望とは可能性だというジンテーゼのもとにフィナーレが訪れる。

 

暗殺教室も構図は同じなんだよね。「殺すぞ」という強い欲望、強い意欲、それ自体を否定しないところからスタートする。「殺す」という意欲自体はそんなことでは殺されない超生物からすると、意欲を引き出しているに過ぎない。その意欲を何に使うかはその人次第だし教える側次第殺される側次第。まず「意欲」がなければ何も始まらない。それが「殺す」であろうとなんだろうと、まず「意欲」を引き出すことで「可能性」は生まれる。

ネウロ暗殺教室って全く同じ構造から生まれてるんだろうなーと思う。

ジンテーゼとしての「教育」「殺意も受け止める」から逆出発したのが、暗殺教室だったんでしょうね。

「ここからが本当の暗殺教室です」と松井先生が巻末コメントに残したのはカエデが「死んで」と言った回だったでしょうか。それまでは「殺意」を「やる気」に矮小化する話ばかりで押し倒していたので、「本当に死んで欲しい」を持ち出して、「本当に死んで欲しい」と「殺したいほどやる気にさせてくれてありがおう」を対比にして、「本当に死んで欲しい」を「教育の失敗」に落とし込んで殺先生に反省までちゃんとさせるんですよね。作劇うまい。

まとめてみると、暗殺教室においても構図は馬鹿ほどわかりやすくて「殺す殺されの関係でも、可能性を開ける関係性であればよし」vs「殺すことに取り憑かれて人生を棒にしてもかまわない」の2択になってて、ネウロの時から何も変わらないんですよね。

ほんで、先日始まった『逃げ上手の若君』なんですけど、ここでも「殺す英雄vs逃げる英雄」というわかりやすすぎる提示を1話からぶちかましてて、これからどうするんだろうなーこれからどうするんだろうと、すんごく楽しみになってるわけです。

南北朝時代自体がすごく扱いにくい題材で、天皇制がアレだからアンタッチャブルみたいなところがあるんですけど、

繰り返すにテーゼとアンチテーゼをぶつけてカタルシスを産み出すのが芸風の松井先生ですから。すごく大変なんじゃないかなー、今まで以上に変なことやるんじゃないかなーと心配しちゃうんですけどめちゃめちゃ楽しみ。

楽しみー。

以上です。