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街中で見かける「親子」という密室と部外者であるところの僕

子育てに関する話題なんですけど何せこれ書いてる奴が育児未経験者なので自分が子供だった頃の記憶なんかも頼りに想像で書いてる部分が多分にあります。童心に帰るために今となっては全く食べたくない完全序盤先行型最初の1分だけ引くほど味が濃いでお馴染みバブリシャスガムを噛みながら今、キーボードを叩いています。ばぶー

そういえば僕は田舎の出なもんで、そして当時の時代の空気というのも今とは随分違ったものですから、割と道端ですれ違う人の好意というのは素直に受け取るもんだと思って育ったし自分の好意もそのように受け取られるもんだと当たり前田のクラッカーくらいの調子で信じて生きてたんですけど地元を離れて一人都会で暮らし始めた時分、僕はその日厚い雲が空を覆い陽の光ひとつ届かぬ猛吹雪の中友人の家に遊びに行こうとてくてく道を歩いていたんですけど、今これを読んでた人は「いや、吹雪いとるやないか、田舎やないか」と思ったと思うんですけどそこは「いや、札幌は都会だ。なぜなら地下鉄があるから。地下鉄がある限りは『大雪が降る夜は除雪車がうるさくて寝れない』というあるあるネタがあったとしても断固都会だ」とそこは声を大にして主張していきたい僕こと俺なわけですけども、僕の少し前を一人のおばあさんが大きなキャリーバッグを引き摺りながらとぼとぼと歩いておりまして僕はそれを見て大変そうだなぁと思い、歩いてる進行方向もどうやら同じだったようですからおばあさんに声をかけまして「良ければ荷物お持ちしましょうか」って言ったんですけどすんごい顔で拒否されまして、ドッグカフェと聞いて入ってみたら犬みんなガリッガリで異臭もドギツくて、犬との楽しい触れ合いの一時みたいなものを期待して来たのに「うわ、ここの犬めっちゃ不幸感がすごい」ってなった時みたいなドン引き顔で圧倒的固辞をされてそれで僕もそんなに全力で嫌がられるとは思ってなかったのでシュンとしちゃって「それはどうも差し出がましいことを言ってしまいすいません」ってな調子でそのままおばあちゃんと一緒になって歩くのも気まずいので無駄に横断歩道を渡って反対側の歩道をてくてくと歩いてその後また横断歩道を渡り戻って無事友人宅まで辿り着いたんですけど、その時に僕は初めて「そうか、僕は好意のつもりでも相手からしたら声をかけてきた赤の他人のそれが好意なのか悪意なのかなんて判別できないもんな、もしかしたらあのおばあちゃんが過去にひったくり被害にあったことがある可能性だってあるわけで」と世の世知辛さを知ったわけですけど、或いはあのおばあさんのキャリーバッグの中身が二億か死体だったらそれはそれで辻褄はすごい合う。

こういう話題を見かけまして件の置き去りなんたらは今まだ何も終わってないしよくわかってない段階なのでただ無事を祈るばかりでそれ以上コメントしたいことはないんですけど、一般的な街中なんかで時たま見かけるような「もう知らないよ!置いてくかんね!」みたいなシーンについてむんずかしーよねーと思ってそこについてなんか書こうかなと思ったんですけど、まず原則的にはそういうのやらずに済めばそれが一番いいよねってのは本当大原則ね。まずなんつったって危ないから。僕もたまに街でそういうシーン見かけて遠くから親に「本当に置いてくよ!」って言われても断固地べたに座り込んでるストの構えの子供のすぐ横を通り抜けることとかありますけどそれは俺がたまたまマトモな人だからそのまま通り過ぎるだけで、これ僕が近距離パワー型の頭おかしいスタンド使いなら間違いなく一瞬で仕留められる距離じゃんと思って、もし親の能力がキラークイーンで既に子供を爆弾に変えているんならいいですけど、それだと僕と子供が相打ちになっちゃうのでダメなんですけど、今回は僕がたまたま実際のところ近距離パワー型の頭おかしいスタンド使いじゃなかったからいいんですけど、そういうことを考えると危ないなぁとかは思うんですよ。悪意は杜王町に限らずどこに潜んでいるかわからんもんですからね。

周りに人がいるいないを置いて、そういうしつけが虐待で絶対ダメなのかはごめんなさい僕にはちょっとわかりません。

僕も外出先ではやられた記憶ないけど家で駄々こねてたらベランダから外に締め出されたくらいの経験はいくらでもあるもんで。しかも庭には雪が積もっててクッションになるのをいいことに結構な放物線を描いてめちゃめちゃ山なりに放られてましたから。ソーラン節の投網の振り付けかくらいの勢いで記録出したら何かもらえんのかみたいな飛距離稼ぐ投げ方されてましたけど、まぁ今の時代なら虐待なんだろうねぇとは思うし、ベランダから子供がポーンと投げ出される瞬間を狙う悪人が潜んでないとも限らないのでダメだろって話なんですけど結果的にそれで大事なかったし特に僕は今それで親を恨んでるとかもないんで、ここはまぁ個人差というか「その後どうなったか」みたいな運の要素でしか語れない部分も大きいと思うので難しい(或いはだからこそダメだろという話にしかならない)んですけど、僕はすくすくと立派な可愛げのない大人に育ちました。でもまぁ、最初やられた時はヤバイと思ったし俺ここでこのまま凍え死ぬとか思って、シャイニングのジャック・ニコルソンみたいになって死ぬと思ってギャン泣きしましたけど、そういうの2,3回あると「あ、なんやかや家には入れてもらえるな」って気づいてきますよね。そしたらもういちいち本気で泣くのもアホらしくなってくるし、むしろ親の方もこっちが泣かない方がちょっとあせるなみたいな、「あれ、泣き声聴こえないぞ」ってなることも勘付いてきてアホなスタンドバトルみたいな駆け引きが発生してくるわけですよ。ベランダで開けてもらうの待つの寒いから、こっちはパジャマに裸足ですから玄関の方に行けば雪の上よりはいくらか温かい木の簀子があるからその上で待とう、みたいな。で、無駄に泣いても仕方ないから大人しくしといてトイレは玄関のすぐ横だからトイレの戸がバタンって言うた時だけギャン泣きしようみたいなインディアンポーカーばりの駆け引きが生じてきますから、そういうこと覚えてくうちにそもそも外に出されないラインを見つけるのが一番ラクだってことに気付いてきて、みたいな我が家はそんな感じだったんで、そういうのがあっても別にいいんじゃない?とか僕は思っちゃうんですけど、それは我が家がたまたまそんな感じで落ち着いたからよかっただけで、そうはならずにエスカレートしていって……みたいなことも世の中たくさんあるんだろうから勿論一概には言えない。あと書いてて気づいたけどこれ、「それ虐待ですよ」って言われたら僕の正しい返答は「せやねん」ですね。

で、一概には言えないという前提のうえで外野第三者はそういう他所の子育てのやり方を目にした時どう接すればいいのだろうみたいな話になってくるわけですけど、これはまた微妙でデリケートな話ですよね。冒頭で紹介したエントリの中に出てくる「捨てられたのか!!」言うて抱きかかえる人はその後で

とも言っており、「ずっと駄々コネてるなら置いてっちゃうからね!」に対して「子供置いてくなら警察連れてっちゃうからね!」という意趣返しを思いついた通りすがりのとんちの利いたおじさんだと思われるのでそのとんちが将軍様には通用するかもしれないけど現代のポリスメンにどう解釈されるかはちょっとわかんねえなとしか言えないので、まぁ置いておくとしても、ここまで極端じゃないにしてもそういう場面に遭遇して実際に何かアクションを起こしたりアクションを起こした方がいいんじゃないかと考える人というのは少なからずいるのかなとは思うんですね。

で、実際そういう第三者の介入が悪いことなのかっていうと煮え切らなくて悪いんですがやっぱ一概に悪いとも言えないとは思うんですね。むしろとりあえずその場は何らか収まることの方が多いんじゃないかなと僕は根拠なく想像する。というのも、親と子供の駆け引きの話に戻るんですけど、親がいるからこそ、親が相手だからこそ、全力で駄々をこねれるみたいな部分も子供にはあると思うんですよね。子供からしたら直接見知らぬおっさんに話しかけられでもしない限り世界中どこにいてもそこは自分と親しかいない密室ですから、いつでもどこでも全力内弁慶ですよ。そこに見知らぬ第三者が新たに登場した時に振る舞いを切り替えるってのはある意味で自然なことだと思う。これは良いことでも悪いことでもなく自然なことだと思う。だからもちろん相手の親にも配慮してだけど、そういう他所の子供には徹底して関与しないみたいなのを是にすることもないと思うんだ。

でもその前提で絶対に忘れちゃにゃらんのは、そこで自分が介入したことで事態が好転したとしても、それはその親より自分の方が子供の扱いが上手だからとか、その親が愛情をもって子供に接してないのに対して自分の方が愛情をもって接することができてるからだとかではなく、ただただ自分が部外者だからに過ぎないってことですよね。あの、3年生が引退して1年2年だけの新体制になった時に1年が3年いないことでちょっと調子こいて2年とは今まで友達感覚だったから2年の言うことはあんまちゃんと聞かないとするじゃん。それで久しぶりに推薦決まった3年が部活に顔出した日は1年わりと2年の言うこと聞くと思うのね、大体アレと同じ感じ。この話を以って「やっぱ3年は偉い」って話にはならないじゃん、それはもういつもいない奴がいればいつもと違う感じになるってだけの話じゃん。むろんそれだから「いてくれると助かる」とか「どうすればいいか相談したい」みたいな側面あるかもしれないけど、そこで「やっぱ俺がいると締まるけどお前らだけじゃダメだな」みたいな話にはならないし、しちゃダメでしょ。むしろお前らが毎日来てた時はお前ら3年が嫌われてて1,2年が結託してたじゃん、みたいな。そういうたまにしかいないから良いみたいな、部外者だから丸く収まるみたいなところって何でもあると思うんだよね。

だからこの話題も広義のそれに含まれるのかもしれないですけど、よく電車なんかで見知らぬ親と子供が喧嘩しててそれを私がなだめすかしてやってみたいな話ありますけど、それ自体はありがたいことだと思うんですけどそこから「最近の親はダメだ」みたいな話にするのおかしいでしょ、いわばお前は部外者でその親子視点「その場しのぎ」をするのにうってつけの人材だっただけで、親としての能力の有無だとか優劣なんて部外者のお前に簡単に判断できるわけねえだろって話なんですよね。年に数回しか会わずにこっそり千円握らせて「好き好き大好き」って言わせてりゃいいだけの祖父母が「ちょっと、こんなかわいい孫に対してあなたがた厳しすぎるんじゃない?」って言うやつじゃねえんだから。実際世の中には親失格みたいな親がいないことないらしいってのは僕も家にテレビがあるので(しかも液晶型ですごく薄い)預かり知るところですけど、目の前にいるこの瞬間うまくいってないように見える親子がそうなのかどうかはそれこそ部外者には簡単には分かりかねるところじゃないですか。愛情が足りないのか知恵が足りないのか余裕が足りないのか足りないのは今この瞬間だけなのかこっちからはわかるわけないですよ、そこで偉そうにジャッジしにかかるなんざもってのほかですけど、どうしても何もせずにはいられないって言うんなら、とりあえずずっと一緒にいるわけじゃない一期一会の部外者だからこそ簡単に提供できる「その場しのぎ」でその瞬間だけ収めてやって、親にはお疲れ様って思っとくのが一番なんじゃねえの。まぁそれも余計なお世話だって感じる人もいるんだろうけど。だから俺も介入しないことってゼロではないですけど、まぁ相当に慎重にはなりますけども。そこらへんは最初の死体運ぶおばあちゃんの話に戻る(死体は運んでない)。あと、変に外野がフォローしたらあとで子供が親にもっと怒られるんじゃないかみたいな話は今日は割愛します。

それで長々とくっちゃべってお前は結局何が言いたいんだと自分で思って考えたんですが、結局子供は親の言うことを一番聞かねえんだよなぁみたいなことで、そりゃだって一番長い時間、一番誰よりも目をかけて、自分の面倒見てきてくれたっていう信頼と実績があるんだから。俺も親相手にはさんざん駄々こねたけど、他の大人相手だとわりかし聞き分けよかったもん。だって他の大人は信用ならねえもん。その場だけよくしてくれる人はその場限りだからそうしてくれるだけの相手だし、あんま知らん相手は駄々こねたら向こうがどう出てくるかよくわかんねえし。だから、他所のガキが俺に懐いてもそれは別に俺が子供の面倒見るのうまいって話じゃないし、親に対して聞き分けが悪い子供が親のこと嫌ってて他の大人と一緒にいたいと思ってるってわけでもないし、だからまぁ、世の中の子を持つ大人のみなさん、色々言われたりもして大変でしょうけど、えーと、お疲れ様です。

では、手が疲れてきたのでここらで味のなくなったバブリシャスを飲み込んで筆を置きたいと思います。以上です。