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「メリットがあるならデメリットがあろうともやる価値がある」という価値観

今朝、ツイッター見てたら「組み体操を全否定する人は、なぜそんな危険があるにも関わらずずっと組み体操が続いてきたのか理由を考えてみよう」みたいなことを言ってる人がいたのね。

うん、そうだね、何かしら理由があるんだろうね、一体感とか協調性とか? じゃあ生徒を危険に晒さない形で一体感とか協調性とかを高める方法考えようね。

で、俺はいいと思うんだけど、こうは考えない人もいるのね。

「組み体操が続いてきた理由はすべて教師の自己満足で生徒の身体なんて知ったこっちゃないと思ってるから、それだけだ。他に理由なんてない」って言いたい人もなんかいるんすよ。

俺はその認識は間違ってると素直に思うんだ。現実を直視してないと思う。それなりに組み体操で得られるメリットはある。けどそれ以上にそこまでしてやる必要がないほどのデメリットがある。だから廃止でいいだろ。俺はそれが実態に近いんじゃないかなぁと思ってる。むしろ本音としては、どのみち廃止になるならメリットがあろうとなかろうと俺ぶっちゃけどっちでもいいんだ。頑なに「メリットなぞない!」って主張する理由が俺にはわからなかったんだ。

むしろ「メリットが全くない」を理由に批判すると、「メリットはある」って反論を許しちゃうわけじゃん。それが冒頭に挙げたツイートなわけで。それなら「メリットの有無に関わらず、仮にメリットがめちゃんこあったとしてもそれ以上にデメリットがとんでもない」って批判をした方が早ぇじゃんと思う。

そういえば俺はこういう考え方で味方してるつもりの側からも撃たれるみたいなことが稀によくある。俺はいじめも体罰も「まあやってる側からすると主観的なメリットはあるんだろうね。だからみんな手を出すんだろうけど。メリットはあるとして、でもメリットあるのがそれをやっていい理由にはならないよね。デメリットがあるんだから。だからダメだよね」って話だと思ってるんですけど。そういうことを書いてると「メリットなんかない。メリットの存在を主張するとはお前はいじめを体罰を容認する立場なんだな」みたいな難癖をつけられるわけです。

で、ずっと「なんでだろ~な~、不思議じゃのう」と思ってたんですけど、そうか、要するにだ、それが世界のスタンダードなのか日本に限ったスタンダードなのかは知らないが「メリットがあるならやってみる価値があるんじゃないか」って価値観が世の中にまかり通ってるんだな。それはいじめや体罰を「少しくらいなら」と是にする立場の人たちの中にはもちろんあるし、それより厄介なのはいじめや体罰は良くないと思ってる人の中にも存在してたりするんだな。「メリットがあるならやってもいい」という価値観を内面化しているからこそ、何かを否定する時には「それには一切のメリットがない」という無茶な批判をしなくてはならない。メリットを一部でも認めることは「やってもいい」と容認することになってしまうから。

そう考えてみると色んな話題でそういう思考で過度な否定文を使いたがる人たちというのは身に覚えがある。

そういう考え方が当たり前みたいに受け入れられてる原因が多少の犠牲を払おうとも成長し続けなくてはならない資本主義経済にあるのか、しばしば利己主義とごっちゃにしながら推奨される個人主義社会にあるのか、そこらへんの事情は僕にはよくわかりませんが、メリットとデメリットを天秤に掛けてアリだねナシだねって判断すりゃいいだけの話で、「メリットの存在を意地でも否定したい」みたいな批判の仕方はする必要はないし不毛だよ、と思います。どんな理由があろうと悪いもんは悪い、と言えないくらい「理由」が幅を利かす時代なんでしょうか。生きてて別にそんなふうにも感じないけどなぁ。以上です。