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【読み物】左足首に犬

 がらーんとしてるとはまさにこのことだ。

 仕事終えて家路についてガチャっとドアを開けたら気配がする。誰もいない気配がする。本来であれば妻がいるはずのそういう感覚がまったくない気配がする。案の定、誰もいない。こんな時に昨日までと比べて部屋がずいぶん広く思えるみたいな比喩を時たま見かけるけどありゃあ嘘だな。一人分減っただけだ。この家は、昨日と同じとおりでただ妻だけがいない。人っこ一人分、広々としていやがる。

 それだけだ。

 そう言ってしまえばこの家は、ずっと俺とあいつがいるだけの空間だった。家庭とかそういう感じ全然なかったままだった。いずれ家庭になるだろうなと思っていた、お互いに。ここに俺と妻に続く三人目さえやってきてくれれば、それでうまく回るだろうとお互いに楽観視していたところは多分にある。そして三人目は遂にやってこなかった。遂に、と言うのは、つまり俺たちがいつのまにか諦めてしまったということだ。方法はもっといくらでもあったのかもしれない。二人はそれを探さなかった。怖かったのだと思う。怖かったから何もせずにいたら、こうなった。どちらかがどちらかにもっともっとアクセスを試みていれば、三人目の家族がやってくるかはさておきもっと他の道だってあったのかもしれない。

 それを怠った。その結果がこれだ。

 俺は今もなお、俺以外誰もいない、あいつがいないこの家に立ち入ることを億劫がって、ただ玄関で靴も脱がず立ちすくんでいる。ただ白ブチのフレンチブルドックが、俺の左足首にガブリと噛み付いている。

 はて、この家はこんな犬なんぞ飼っていただろうか。てんで記憶にない。何度か犬でも飼おうかという話を妻としていたことはぼんやりと覚えている。しかしそこで本当に飼おうとなった記憶はまるでない。俺が嫌がったんだ、ここで犬を飼ってしまえば諦めてしまったようで、癪だった。妻はそれはそれ、犬は犬と言っていたが俺にはどうしてもそうは思えなかった。

 という風に記憶しているはずなのだが、現に今おれの左足首に、名前もわからぬこの犬がガッツリと噛みついている。唸り声をあげている。腹でも空かしているのだろうか。そりゃそうだ、繰り返すに俺はこの犬を飼っていた記憶がないがもしこの犬がこの家で飼われている犬であるとするならばきっと世話をしていたのは俺ではなく妻であろう。その妻がいない。妻がいなければ食事にありつく術もこの犬は持たない。だからこの犬は腹を空かせて俺の左足首に噛みついているのだ。そう考えてみると何だか俺が覚えていないだけでずっとこの犬を飼っていたような気がしてきた。何より妻がもう、この家にはいないのだ。

 虎は死して皮を残し人は死して名を残すなんて言葉があるが、死なずに消えてしまったら人はどうなるのだろう。消えても死んだ時と同じように名を残すのだろうか。今この瞬間において俺はこのことに全く自信がない。妻が消えた。手紙の一つも残さずに消えた。それを理解した瞬間から砂のように妻との記憶が頭から零れ落ちていっているような気がする。感傷的に妻のいないこの家を俺とあいつがいるだけの空間だったなんて言ってみたものの果たして本当にそうだったろうか。ここにはもっと俺とあいつの色々がもっとあったはずなんじゃないのか。確信はない、じゃあ何があったんだと言われれば何も答えられない、けれど確かにあったはずの何かがポロポロと自分の外へ逃げていってしまったような、ガランドウな気持ちだけは実感できた。あと左足首が痛い。ガランドウな気持ちと、あと犬。それ以外のことは今の俺にはよくわからない。

 ならばまずはわかるところから始めよう。腹を空かせているこのこいつの腹を満たしてやるところから始めよう。俺がここでどんな会話をして食事をして、どんな顔で風呂に入ると言い、風呂から上がって寝るまでの間、どんな顔をして妻と何を話していたのかてんで思い出せやしないが、ここが俺の帰る場所であったことはまだわかる。どこに何があるか分かる。この犬に食わせる餌がどこにあるのかは分からないが、ここが俺が昨日まで住んでいたあの家であるのなら、ドッグフードはきっとこの家のどこにあるか、きっとあたりを付けてやれるはずだ。俺は左足首にがっぷり噛み付き口の端から泡立ったよだれも気にせずじとりと俺を眺めるフレンチブルドッグを引きずったまま靴を脱ぎ、脱衣場へと向かった。洗面台の下、きっとあそこだ。この家でドッグフードを置くならばきっとあそこにする。俺ならそうする。あいつでもきっとそうするだろう。

 洗面台の下の扉を開けると石畳の地下廊が奥深くへと続いていた。両際の壁に等間隔に並ぶ蝋燭が、いかにもわざとらしかった。そうら、読みどおりだ。きっとこの先にドッグフードがある。妻は消えた。最早、妻と交わした最後の言葉も思い出せない。俺に残されたのはこの犬だけだ。この犬だけなのだろうか。そもそもこいつは本当に俺が飼っていた犬なのか、わからない、わからないがともあれこの調子でいけばドッグフードは手に入る。俺はお前がいなくてもこの犬の空腹を満たしてやることができるぞ。顔も思い出せないあいつを思い出しながら、俺は地下廊を進んで行った。

 まさか俺の家にこんな地下廊があるとは思いもしなかった。つい先ほどにそうら、読みどおりだとのたまったことを後悔している。もうどれだけこの地下廊を歩いているだろうか、優に三十分は過ぎている。何度か階段を下ることもあった。左足首に犬が喰らいついている。俺はそれを引きずって歩き続けた。この犬がどこから来たのかはまるで思い出せなかった。ただ、妻がこの犬のために用意した、犬のための犬の餌が、この先にある、ということにして、俺は足を前へ出してそしてもう片方の足をまた前に出して、を優に三十分やっている。

 虎は死して皮を残し人は死して名を残すなんて言葉があるが、不意に消えてしまった彼女は俺の名を今もどこかで覚えているのだろうか。俺の名前を忘れてしまったから彼女は俺の前から消えたのだろうか。歩く。

 思い出せない。彼女と過ごした日々が歩を進めるたびに薄れていくような気がする。彼女がなぜ消えたのか、わからない。わかろうと思えばわかる。想像することならばできる。ただしそれは俺の想像で、想像に過ぎず、実際のところ彼女がなぜ消えたのかは俺にはわからない。彼女が消えた理由を作るために、俺は彼女との日々を忘れ、いつ彼女が消えてもおかしくなかった日々を、ありもしない空虚な日々を、無理矢理に思い出しているのではないのかとすら思う。左足首が重い。犬がかぶりついている。彼女がなぜ消えたのかはわからない。左足首が重い。引きずりながら歩く。彼女との日々を思い出しながら歩く。思い出せない自分を疑いながら歩く。

 モグラがいた。どれだけ歩いていたのかもうまるで分からないが、グラサンかけたモグラに俺と犬は出くわした。鋭角なグラサンだった。俺の顔を見るなりモグラが矢継ぎ早に言う。

「あの、お前の奥さん捕まっちゃって、お前世界を救う勇者なもんだから世界を滅ぼす人たちが躍起になっちゃってそれでお前の奥さんさらわれちゃってでもここ来てくれてよかったわそこの剣抜いてそいつらと闘って倒してくれれば奥さんも取り返せるから、そんな感じでよろしく頼むわとりあえずそこの剣抜いてみて。」

 一先ずは言われるがままに石畳の隙間に突き刺さっていた剣を抜いた。すんなりと抜けた。抜く時にめっちゃ光ったりとかそういうのはなかった。モグラは言う。

「抜けたね抜けたね。じゃあそういうことだから、よろしく。」

 俺は、俺の考えていることに自信がない。あの洗面台の下の扉をくぐったその時から、その思いは一層強い。妻は、何も言わずにこの家を出て行った。俺と犬だけが残った。妻がなぜこの家を去ったのかはわからない。正確にわかることはないかもしれないが、なんとなくはわかる。なんとなくの部分だけが俺の中に残っている。彼女が、彼女が黙って消えるはずがないと思えるところは、ここに辿りつくまでの間に根こそぎ、どこかに置いてきてしまった。置いてきてしまったという自分がただここにあり、置いてきたものが確かにかつてあったという実感もまた、置いてきてしまった。それが本当にあったのかどうかは最早疑わしくもあり、そもそものすべてが俺の思い込みに過ぎず、俺はずっと一人だったのではないかとすら、今の俺はそれを俺に思わせるだけのガランドウなのだ。モグラの言うことは俺の右から左を抜けた。耳の。

 モグラに、そんなことはどうでもいいのでドッグフードの在り処を教えてくれと訪ねると、靴箱だと言われたので俺はすっかり一番負担がかからない噛み付き方を覚えたフレンチブルドッグを引き連れて、足早に地下廊を上った。そしてやがて俺以外誰もいない我が家へと舞い戻った。帰りはずいぶんと早かったように感じた。靴箱を開けてみると、そこにはドッグフードがあった。なんだあいつ、こんなところに置いていたのか、と思った俺は、「あいつ」が誰のことなのか既に分からなくなっていた。何となく持って帰ってきた剣を玄関に置いてあった傘立てに何となく納めると、俺はキッチンへと向かい底の深い皿を一つ戸棚から取り出すと、そこにドッグフードを流し込んでやり床にそっと置いた。俺の左足首がようやく軽くなった。

 食卓テーブルに肘をつきながら、ドッグフードをがっつく犬を、俺はただ見ていた。別に犬に愛着が湧いたということもなく、ほかにすることがなかったからだ。これから何をすればいいのか俺には全くわからなかった。しばらくして皿に盛ったドッグフードをもれなく平らげた犬が、顔をあげ俺の目をきっと見て、言った。言った。

「やっぱ二人じゃ飯食ってもつまんねえな、とっとと二人で母ちゃんのこと、助けに行こうぜ。」

 言った。確かに言った。

 俺は、お前喋れるのかよ、なんで今まで喋らなかったんだよ、と思ったままの疑問を捲くし立てた。

「いや、今喋れるようになった。今。」

 犬は俺の目を露骨に見ないで露骨に目を逸らしてそう言ったので、絶対それは嘘だと思いながら、俺は小さく笑うと妻を取り戻すために必須である剣を目指して、玄関の傘立てへと向かって走っていた。