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【再掲】言語の持つ機能って二つあるけど混同されがち(引用元のよぅしさん全然関係ない)

ナンパの失敗学っていうブログが面白かって面白く読んでるんですけど、なんかその中のエントリのひとつをテキトーに紹介すればそれを呼び水にして僕がきっと何かを書くでしょう。雪はやがて溶けるとせせらぎとなり、小川の近くにきれいな花が咲くでしょう。一食でお米一合食べてたあの頃がもうまるで御伽噺みたいに遠く感じられるね。もう3月だね。

非言語をモノにするには http://yo4ei1-np.hatenadiary.jp/entry/2013/03/06/080018

なぜかナンパ師界隈にちょい噛みするようになって久しいんですが、彼らナンパ師という人種は基本的に躁かあるいは鬱かのどっちかをガソリンにしながら僕と貴方のなぜなにどうしてをすべからく焼き尽くすべくナンパをしているように僕からは見えるのですが、上記のブログを執筆されているよぅしさんという方は何というか他の人がやっておりますそういう自分の情操を相手にしたシャドーボクシングとは一線を画したところでとっても客観的に「コミュニケーションとは」というお題目にアプローチしていて、世の中には賢い癖にそんなしょーもないことに興味を持つ変わり者もいるんだなぁと感心しきりです。はい、たぶん絡んだことない相手なので僕なりに丁寧に記述してみたのですが初めてブログ読んだざっくばらんな本音の第一印象は「サイコパスが裏返った人」でした。「善玉サイコパス」でもいいかもしれません。褒めてます。

そういうわけで一つテキトーにピックアップしたのが「非言語をモノにするには」というこちらのエントリなわけですが、もうちょっとサイコパスっぽい解釈が際立ってるやつはたくさんあったはずなのに。とは言え、あんま具体的なナンパ論なんかについては、愛妻家が高じて普段は浮気をしませんよという意思表示に男性器を取り外して家で陰干しして外出してるような男が取り上げるのもおこがましい限りだったので、やっぱり「面白く読んでます!」とラブコールを飛ばした後、いつものように自分が思ったことをテキトーに書く感じにシフトしたいと思います。更新いつも楽しみにしてます! ちなみに僕の男性器は奥に深く押しながらカチッと音がするまで回すと取り外せます。金具で出来てるのでたぶん頑丈だし大丈夫だとは思うのですがもし万が一爪が折れると二度と装着できなくなります。

さて、非言語コミュニケーションとはなんぞやという話なんですがよぅしさんがなるへそトランポリンの上でくるくるとすげぇ華麗に解説してますので、そっちを読んでください。特に付け足すことない。しかしながら、この解説するという作業そのものが「言語化」という作業にカテゴライズされてしまうわけで、人はこれを読んでなるへそと思ってそこで得たなるへそ感を「自分の体験」と錯覚した瞬間に死んでいくので、僕は「もう全部よぅしさんが言うたやん」という内容を含もうとも、僕は僕の言葉で僕の言葉で貴方に貴方だけに僕の僕だけの言葉で、伝えようと思うわけですよ。いろはす。

これは、「非言語コミュニケーション」ではなくそれを考える時に使う「言語」、のお話になってしまうのですがそもそも言語ってなんじゃらほいと考えた時、今この瞬間の僕はとりあえず暫定的に、言語はもう究極に媒介以上でも以下でもないものと捉えております。なんか陳腐なん来たーってとこですが、どれくらい媒介以上でも以下でもないのかと言うと、例えば猫がタイプライターの上で毛づくろいをしてる間に偶然にもシェイクスピアの小説を完成させたとしても、そこがタイプライターと猫以外には何も無い無人島であればその猫によって便宜上完成させたと言われた何かは猫の糞ほどの価値も持ち合わせていないということです。つまり媒介であるとはそれ単体では成立しえないということです。

言語は媒介である以上、何かと何かをつないだ時に初めて「言語」としての価値と実体を備えるわけですが、これにも二種類あって、一つが自分と他人をつないだ時、もう一つが自分と世界をつないだ時になります。「二種類あって」と言った手前なるべくスリムに言ってやろうと思ったらいかにもかっ飛びました。頑張って言い換えましょう。前者については「コミュニケーションツールとしての言語」というところで特に問題はないと思います。後者なんですけれども、これは「明らかに言語化できる自分」と「非言語の領域の自分」ということを俺は言いたいんじゃないのとお釈迦様が申しております。後者をつなぐ言葉というやつは「何か・あるいは全てについて自分が腑に落ちるための言葉」と言ってもいいかもしれません。これで全然伝わってないなら諦めてそのまま次にいきますけど(いくんかい)、ここで気をつけなければならないことは、この「言語」の持つ二つの機能というのは基本的に全く個別のものであり「相手にうまく伝わる言葉」と「自分自身が腑に落ちる言葉」というものは全くイコールであるとは限らないしそんな必要も必然もまるっきりない、ということです。イコールになることももちろんありますがそれは偶然かラッキー命題だっただけだ、と僕は思っています。

何が言いたいのか忘れたというかそもそも書き始めた時から言いたいことあんまなかったような気がするんですけど、ここで思い出し警鐘を鳴らします。

世の中は大変便利になりまして、主にインターネットなんかのおかげで言葉を紡ぐことや紡がれた言葉に触れることのハードルが僕が小さい頃に比べてぐぐーっと下がったような印象は僕も若貴ブーム以降常々感じております。そしてそれによる恩恵は僕自身も受けており、これが僕生まれるのが10年早かったらこの人の紡いだ言葉に触れることなんて・この人が言葉を紡ぐことなんて無かったんだろうな~とか思うことがしばしばあり嬉しくなります。極端な話、昔だったらラブレターか日記くらいしか一般人が書く文章なんかないはずで書き手との友好度がよっぽど高くない限りその言葉を読むことはできなかったわけです。そんな奴らの言葉がお手軽に読めるようになったのは本当にすばらしいことで、僕はこれをもって「言葉の持つ価値が軽くなってしまったよね」などとは全く思いません。アクセスする難易度がその言葉の価値に直結するなんてそんなブランド思考みたいなものは糞です。

また、言葉を紡ぐことのハードルが下がることで誰もが言葉を紡ぎ、その中で言葉を紡ぐことで自分自身と向き合う、みたいないわゆる「腑に落ちるための言葉」という言葉の効能についてみんな意識的なり無意識的なり考えてそうな雰囲気も高まってきてるような、観測できるようになったから察知できるようになっただけで昔から高まってたような、そんな感じも大変にすばらしいことだなと思います。

ただ、そこでなんか大丈夫かなー、と思うのが、前述したような言葉の二つの機能がなんかごっちゃになって捉えられてるような傾向があるよね~という問題です。

言葉を紡ぐハードルは下がり、それによって人は言葉を紡ぐことで自分自身と世界のあり様への答え合わせを試みることが容易になりました。しかし「なぜハードルが下がったか」という要因を考えるに、それは「他者に言葉を投げる」ことが容易になったからに他なりません。ここに両立は不可能とまでは言い切れないにしろ、若干の矛盾なり齟齬なりが発生してしまいます。言葉はあくまで「他者への言葉」として紡ぎやすくなったに過ぎないのですが、そうして紡がれた言葉はそのまま自分自身と「世界」との関係へアプローチする言葉である、と紡いだ本人が認識(誤解)する危険性が生まれてしまったわけです。もちろん他人の目に触れる前提で紡がれた言葉が自分と世界の距離感をひとつ明らかにしてくれて自分の糧になるってことは全然あると思います。けど、スッキリ言って相手にうまく伝わる言葉を、そのまま自分と自分の瞼持ち上げた時に見える世界を変えてくれる言葉と捉えて勘違いしてる奴ってなんか最近多くない?って思った次第です。それって結構危険だよね、て。

もちろんそれでもみんながそれぞれおのおのの世界と腑に落ちる言葉はもっともっと読みたいから、他人への言葉と世界への言葉をごっちゃにして失敗したところで代わりはあと68億くらいいるからみんなどんどん喋って喋って、て感じだけど。「郡盲、象を撫でる」とか言うけど、みんなで象の表面積を100%余すところ撫で回してそいつら全員に事情聴取して感想をまとめたら、きっと俺がこの二つのマナコで捉えた象なんかメじゃないくらいの超かっけー象が僕と貴方たちの世界に出現するに違げーねーんだ。オラ、ワクワクしてきたぞ。

まーそんな感じで、無学な素人がぷすぷすと拙い言葉でこんなこと言っちゃって、「いわゆるカントのあれね」とか知らんけど言われちゃって二秒で片付けられたり、そもそもこの言語が内外どっち向いてますかって話もどうせ1600年くらいからあるんだろ糞が、とかで、長らくこういうの書くのは惨めで抵抗があったんだけど、まぁ今年は色々書くってことでいっか、て感じで書きました。そのキッカケとなったよぅしさんやっぱりありがとう、みたいな。ありがとう言うてみたものの書き終えて改めてやっぱ全然関係なかったな。いろはす。