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20131122

さっき昼飯食って帰ってくる途中に黄色く色づいた街路樹がなんかすげぇ綺麗に輝いてて。11月の太陽ってすごく高くて遠いじゃないですか。そして音もなくいや365日太陽は音とかしないんですけど、本当音もなく地面をさっと照らしてそのまま地中深くまで透き通っていってるんじゃないかというくらい薄く淡い日差しが11月の太陽じゃないですか。それを受けて黄色い街路樹がほんといい感じに輝いてて僕はなんだか泣きそうになりました。物の美しさがわからぬ僕にとって超珍しい経験でした。

この前宗教の話とかしてましたけど、人生の大事なこととか世界の根本的な構造を教えてくれる経典という意味でいうと僕は甲本ヒロトの歌詞世界を採用している節が多分にあります。僕が生まれた年にTHE BLUE HEARTSとしてデビューを飾った彼は当時たしか20歳とかですかね。遠目にぼんやりうっすら背中が見えるくらいの距離をもって常に僕の人生の先を往くヒロト兄やんの歌に14歳で出会って以降、彼は僕の人生の大事な一部になっているわけです。聴いてて日ごろエネルギーをもらってはいるのですが、実は彼が歌詞で言っている内容が確かな実感を伴って僕の中で腑に落ちるのは初めに聴いてからずっと後のことがしょっちゅうで、年をとるごとに何気ない日常のある瞬間に「ああ、ヒロトが言ってたあの歌詞はこういうことだったのか」という本当なら言語化すら不要な実感バリバリに体感されて相変わらず先を行ってるなぁと感心するのが僕の数少ない趣味なのでこの趣味はたぶん死ぬまで遊べるぜという圧倒的なコストパフォーマンスを発揮しているんですけれども、その中でもうだいぶ初期で今の俺よりとっくに年下のヒロトが作ってた曲なのにいまいち未だに腑に落ちてないやつがあったんですけど今日をもってそれが腑に落ちましたのでご報告いたします。

なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せ

なるべくいっぱい集めよう そんな気持ち分かるでしょう

---情熱の薔薇

今日になって突然にわかった経緯としては昨日の夜中に読んでたシロクマ先生の仏教の話が影響していたような気がします。

私のなかでは、科学と仏教はあまり喧嘩してません

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20131121/p1

シロクマ先生は「自分バイアス」という言葉を用いて話してましたけど、僕もなんか似たような感覚はうまく言えないものの抱えて生きるよう生きれていたのかなという部分があったんですが、それが実に明解にスルスルと頂けて御馳走さんって感じだったのですがたぶんこの「自分バイアス」という概念を取り入れたお蔭で俺は今こんなに興奮しているような予感がします。

つまりは幸せあるいは不幸せを感じるということは自分バイアスを通して何かを感じた時にのみ発生する感覚なんだなと思いました。本文ではこの自分バイアスというものを主に厄介なやつというニュアンスで使われていることが多いわけですが甲本ヒロトをお慕いする僕としては自分バイアスというやつは厄介なやつであるとともにかけがえのないやつで、ぶっちゃけ自分バイアスを通ること無しに「良い」とされているものは自分バイアスを死ぬまで背負ってよろよろと生きる僕にとっては何の価値もなくて、自分バイアスを通した結果最高なものこそが最高なわけです。

ただしシロクマ先生がさんざ言ってる通り自分バイアスというやつはとっても厄介なやつで僕らの感情や思い込みを誘発してぶん回しやがりますので油断すると忽ちに僕らの心はパッと見愚かな仕上がりです。自分バイアスに振り回された結果、僕と世界のつながりが捻じれてしまえば、そんな時僕はきっと傍から見たら幸せでも何でもない変な大きさの幸せを勝手に感じていたり、逆にどうでもいいことで過剰に不幸せな気分になっている可能性が高いのです。そういうバイアスに酔っぱらった結果生じる身に余るまやかしの幸不幸に溺れることなく、分相応で現実的な小さな幸せや小さな不幸せを集めましょう。そして自分バイアスを通して触れた価値観だけが僕にとって真実たるのはそれはそれで大前提なので、なるだけたくさん自分バイアスを通して実感込み込みの借り物じゃない多くの価値に触れていきたいですね。

という書くと糞陳腐でつまらないありきたりな結論が電光石火のゼロコンマ3秒で僕の頭を突き抜けて僕は今大変いい気分なので書き殴っております次第です。乱文乱筆失礼いたしますお付き合い頂き誠にありがとうございました。以上です。