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埋葬一直線!! 『サウルの息子』感想文

あのー、掲題の通り、『サウルの息子』っていう映画を観たんでその感想文を書こうかなと思うんですけど、いつもだったらまずあらすじから入るんですよ、僕なりの言葉でストーリーのあらすじを語るところから始める。この映画だと舞台が1940年代のポーランドアウシュビッツ収容所になるんですけど。例えば、僕が大阪が舞台の映画についてあらすじを語るとするじゃないですか、まぁだいたい途中でありのままの話をするのに飽きてテキトーなこと言い出しますよね。当時の大阪シティーを牛耳ってたのは茶髪を売りにしていた弁護士で、7つのたこ焼きを集めて紳竜(紳助・竜助)を復活させようとしてるんだ、みたいなことを言い出すわけじゃないですか、ふつうの間違ってないこと言うのかったるいから。そんな僕なので、『サウルの息子』のあらすじなどはしません、危ないから。迂闊に事実と異なる馬鹿を言うとあかんやつになるから。このドイツのユダヤにやったことはマジで茶化しちゃいけないんだなってことなんで、僕は危ないんでここではあらすじませんので、各自wikiとか見て。欅坂ダメだぞあんなことしちゃ、この野郎!!

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はい、そういうわけでね、ネタバレとかの配慮はないんで、まだ観てなくって、ずっと観ようかなと思ってたなーんて人は、これを機会に今すぐ回れ右して本編を観て、その後このブログエントリに帰ってきてね。とても良い映画だと僕は思いましたよ。

僕、そもそも戦争映画に対してすごくノリが悪いんですよ、けっこう好んで観るんですけど、そんな開襟して楽しむタイプではないんですよね、観るけど。我々現代に生きる日本人からすると信じられないような凄惨な悲喜こもごもを一手に引き受けてくれる「戦争」という設定なわけですけど、いや、「わしゃごめんじゃー!!戦争は嫌じゃー!!!!」って駆け出したい感じはわかるんですけど、駆け出して下駄が宙を浮く感じは全然分かるんですけど、紙一重なんですよ。「に、人間がこんなひどいことをやっていただなんて……!!」って部分と「まんまやないか」って部分、これが紙一重の半々なんですよ。人間はなんてえげつないんだ……、ちょっと血とか種とかが自分と違うってだけでこんな惨たらしいことができるのかって気持ちももちろんあるんだけど、「まぁ、聞いてる通りやな」っ感じで行こうとする自分もあったりする。「事実だからなぁ、オリジナリティがないなぁ、そのまんまやないか」って思う部分もどっかであって、「あれ?この話ってストーリー自体はフィクションで実話じゃなくって、そのうえで戦争の設定だけ実際に過去にあった史実から持ってきたってだけなら実はエルフとドワーフの戦争の話とかに置き換えた方が面白くない?」みたいなことってあると思うんですけど、この感覚、どれくらいの人が共感してくれるものなのかあんまわかんないんですけど、映画でも小説でもだけど「本当にあったんですよ、これは!!」という一点で恐縮しろみたいな感じでこられるとちょっとヤダなみたいなのが僕にあって、それでなんか下駄を履かそうとしてくる感じ、「この悲惨な戦争は本当にあったんだぞ!そんな中でも輝きを失わない家族愛!さぁ、泣け!」みたいなのちょっと苦手で、それこそ本当の戦争を山車にしてないかみたいな、戦争という名のポン酢を掛けたら大体何でもうまいやろ的な気配が僕はどうにも苦手なんですけど、でも「戦争の悲惨さを忘れないために」って大義名分の前にはこんなん言うてる僕がくっそ性格悪いってだけの話にしかならないのでなんだかなぁってなることがあったりするわけですけど、しかし、今回観ました『サウルの息子』は、それでもなお、この僕と、貴方とが、共に生きるこの世界の、今より少し前の、たった少しだけ前の、僕らのすぐ隣の世界を、舞台にすることが必要だったと思ったし、たかだか100年経たないちょっと前の出来事であることが大事な映画であるように思われました。

なんか、この映画、舞台から設定から主人公の職業っていうと変なのかな、置かれた立場?などなど、どこからどう切り取ってもTHE・戦争映画なんですけど、ある意味で全然戦争なんか関係ない「さぁ、八方塞がりで希望も何もありゃしない、そんな時あなたはどうする?」っていうめちゃめちゃ普遍的な話のような気もするんですね、日常の対極の非日常として戦争という舞台装置が採用されているわけでなはくて、日常とか、普遍的な人生のままならなさの象徴として戦争が採用されていて、ただただ異常なまでに何の希望もない日常としてそこに戦争があるんですよ。ほんで、主人公のサウルがね、こいつがまたよくわかんないの。いわゆる先述したような、なーんか僕が斜に構えちゃう戦争映画っていうのは「ほら!お前ら!こんな美しい、尊い人間の営みを、通い合う心と心を、そのすべてを奪うのか戦争よ!!」みたいなテンションの高さがあるのね、そういうわかりやすいのもない。もちろんまぁ映像から察するサウルの生活ぶりっていうのは色んなものが奪われて奪われて奪われつくされた状況そのものであることは疑う余地はないのだけれど、そういうなんか客の同情を誘うようなキャラクターでは全然ないんですよ、無口で何考えてるかわからない薄気味悪い男でね。ゾンダーコマンダーっていう、同胞殺して死体片付ける仕事を与えられてるユダヤ人のサウルがですね、ガス室でくたばりきれなくて息も絶え絶えのユダヤ人少年の死に生で立ち会うんですけど、「死」の後に「生」って出てきて図らずもややこしくなりましたけど生と書いてナマ、LIVEって意味なんですけど、そこでサウルは何を思ったかこの少年を「俺の息子だ」って言い出して、なんか彼らの宗教では火葬はあかんくって土葬で弔ってやらないといかんらしいのね、それまでさんざ同胞の死体を焼却しまくってきたサウルはここで突然「こいつを埋葬したいんじゃ!」って思い立って、で、この後がもうみんなに迷惑かけまくりで、もう埋葬したいんじゃっていう一念でサウルの頭の中がいっぱいだから、それで作業中無駄口聞いてたらドイツ人に殺されるっていうのにいわゆる神父さんみたいな役割なのかな、弔いのお祈りをできるらしいって噂の人に業務中に話しかけたりしてね、そのせいでその人、ドイツ人に殺されちゃうんですよ結局。その後もレジスタンス的なサウルの面倒も見てやるよって言ってくれてる人たちに頼まれたお遣いも息子の埋葬のことで頭いっぱいになっちゃって全然お遣いできてなかったりね、自分のことばっか考えて迷惑かけまくりで「サウルあんたそりゃないよ!!」って思うんですけど、それでいうと一番「そりゃないよ」なのはどう考えてもナチスなわけじゃないですか。そこらへんがもう、ちょっと見てて分からなくなってくるところなんですね。サウルの置かれている状況は異常なんですよ、狂ってるのはサウルじゃなくてナチスなんです、いや、でもただじゃあサウルが狂ってないかというとそれはどうなの?っていうのがわからなくなる感じが超楽しくて、一回目はなんだかんだ終始真顔でサウルの背中とサウルの顔を終始真顔で観てたけど(特殊なカメラワークの関係でマジで2時間たっぷりサウルの顔ばっか観ることになります)、そんな機会があるかはわからないけど二回目観る機会があったとしたらたぶんまぁまぁ終始笑えると思う。ほとんど邦題は『埋葬一直線!!』ですから、極限状況下でのコメディっちゃコメディなんですよこれ、足でピアノ弾くなんて目じゃないくらい破天荒ですから。あの時代、世界は狂ってた。そしてサウルも狂ってた。だからサウルは人に迷惑もいっぱいかける。でも、それはもう、ナチスが悪いのと同じようにサウルなんかを当てにしたお前らが悪いよ、サウルは今忙しいんだからそんなやつにお遣い頼んだお前らが悪い。サウルは悪くない。けどサウル、サウルお前、ええかげんにせえよっ!!って感じがね、これは何の映画なんだって感じになるんですよね。

息子の死体を勝手に持ち出しちゃって数が合わなくなってるわけですから、それどうすんねん身代わりに誰か同じ背格好の少年を調達してこいやって話をしてる時にサウルが「お前死んだやつのために、生きてるやつ犠牲にするっておかしいだろ」ってすごく正論で同胞に窘められるんですけど、まぁそれは正論だけど、それを言い出したらナチスの方がおかしいだろって話で、そっちには文句言えずにサウルには文句言えるから言うってのも筋が通らないとまでは言えないけど、歪な話だよなーとかは思って、ただ件の戦争におけるユダヤの人らっていうのはめちゃめちゃその究極みたいな環境だったことは間違いないんだけど、理不尽まみれの世界に晒されてるって意味では、これって本当、俺だって誰だってみんなそうだよなってことをそのシーン観てて思ったんですよね。もともとがめちゃめちゃな理屈で世の中が回っていて、その時点でもう既に全然納得いってないし筋が通ってるとも思えないし、そんな状況下で自分が何をしたいか何を大事にしたいかって、そんな理屈で決める必要あるんだろうか、みたいな。サウルが言われたように「生命が一番大事だ、死んだやつなんて放っとけ」ってのは全然間違ってないですよ。まだ生きてる側の人間の理屈として大変もっともだ。けど、事実として彼らの生命って死ぬほど軽いわけですよ、ナチスのふざせた論理によって。その状況下で、自分はそれでも生きていたいから、死んだやつより生きてるやつの方が大事なんだって自分で言うのは勝手ですけど、そこで「いいや、どうせ吹けば飛ぶ生命だ、俺は自分の生命より他人の生命よりこの息子の死体を大事にして生きるぞ」ってサウルが言ったとしてそれを誰が責められるだろうかみたいなことは思うわけですよね。なんか書いちゃったらそれなりにポエミーないわゆる修辞でそれっぽく見える理屈みたいになっちゃいましたけど、本当はそんなものすら必要ないんですよ。どうせ世の中わけわかんないんだから、やりたいようにやるしかないよね、っていうそういう話なのかと思った。わかりやすくナチスを否定したり、同胞と共に声を挙げて立ち上がったり、何かを問うたり説いたり、そういうことはサウルはしなかったですけど、あれで十分、彼は彼自身の尊厳を貫いて彼自身の人生を生きたんだなーみたいなことを思って、それがまた別に美談でもなんでもなくて、いや本当良い迷惑なんですよ、やりたいことやったもんがち青春ならって感じでめちゃめちゃなんですけどサウル、いやでもなんか最後まで見届けたら最後の二日間は完全燃焼って感じでやり遂げたみたいな顔してたから、こいつにとってはこれで良かったのかなーと思って。明日にわずかな望みをかけて最後まで生きようとしていた他のレジスタンスなんかよりはよっぽど後悔なく死んだんだろうなーサウルは、みたいなことを思って、どっちが幸せだったんだろうっていうと陳腐な問いだけど、それは別に生きるのがもうやってられない状況だったら良い死に方を探しなさいって話ではもちろんないんだけど、変な話、秋葉原の加藤とか、オウムのこととか、あそこらへんのことはちょっと思い出してる俺がいたんだよね。理不尽に対する理不尽とか、カルトに対するカルトとか、どんな世の中だったとしても社会と個人の関係ってそういうのと紙一重だと思うし、そこで個人としてどう生きるかって、考えるのめんどくさいけどやっぱすごい難しいな、みたいな。狂ってるなら狂い返してやる!ってそこでそれこそ加藤みたいにやけになっちゃ駄目だけど、どっかで狂わなきゃ駄目なんだ、みたいな。そうだな、僕はこの話を、戦争の話とか民族の話とかではなく、社会とか世界とかに対する個人、の話だと思ってるっぽい。

とりあえず書き出したらなんとかなるかなーと思ったけど、自分でも思ってた以上に自分でも消化しきれてなかったっぽいなー、また一年後とかに観直そうかなー。いや、みなさん是非観てください、なかなかパンチが利いた映画でした。

では最後に、本編鑑賞後のおもしろエピソードを紹介してお別れです。

たるみが消えるどころかめちゃめちゃ落ち窪んでるがな。以上です。