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欠損女子の記事を読んで感じた僕の「うしろめたさ」

 この記事を読んで、障害を持つ人が前向きに楽しそうに笑ってるので素直に良いことだと思った。しかし、一方で、なんかこう、なんかこうね、記事へのみんなの好意的なリアクションなんかを見てて、なんかこう、モヤッとしたんだ。

 で、なんでかなーって考えてたんだけど要するに僕が考えたことはこうだ。

 欠損女子という生き方は「障害者が自身の障害とどう向き合うか」という問題に対する一つのアンサーだと思う。ただ、これを安易に「私たちが障害者をどう考え、障害者とどう接するか」という問題に対するアンサーでもあると考えるのはちょっと怖いと思ったのだ。ここで言う「私たち」とか以後本文に登場するであろう「みんな」とかその手の主語は「非当事者」みたいな意味で読んでもらいたい。

 若造なのでよくわかんないんだけどきっと、なんだかんだ昔よりみんな優しくなってるんだとは思うよね。「俺は関係ねえから知ったこっちゃねえ」って自分と違う属性・立場の人を足蹴にするのは良くないんだって昔よりみんな考えるようになったんだと思う。それはきっと良いことだ。

 けど、みんながそう考えるようになった結果、今度は「うしろめたさ」がついて回るようになった。例えば僕は関西に住んでいるが、件の震災について「うしろめたさ」を感じている。そういう性質の「うしろめたさ」を僕は様々な時に感じるし、みんなもどこかそう感じながら生きてるんじゃないかと思ってる。

 この「うしろめたさ」を感じること自体、全く悪いことではない。他に言い方を思いつかなかったので良い言い方じゃないなと思いながら書くが、それは恐らく善の心から生じる感情なのだと思う。そして「うしろめたさ」と向き合うことは苦しい。早くラクになりたいと思う。これもそれ自体は自然なことだと思う。けど、グッと我慢しなくちゃならないところだとも思うのだ。

 つまり僕が懸念するのは、件の記事を「私たちが障害者をどう考え、障害者とどう接するか」という問題についての記事として読んでしまうと、ちょっと提案が私たちにとって魅力的すぎやしないかということだ。障害者が自身の障害を個性としてポジティブに捉えていて、私たちはそれをそのままに受け止めてそれもひとつの魅力だと好ましく感じておけばよい。明快に双方ハッピーで「うしろめたさ」はどこにもない。こっちからしても、そんな風に障害者と接することができればこんなにラクなことはない。けれど、それが成立するのはあくまで向こうがそういう接し方を望んだ場合に限る。

 障害者が前向きにポジティブに生きるというのは素直に喜ばしいことだ。僕も今後どんどんますますそうなっていくといいなと望む。しかし、その望みはそんな風な障害者ばかりだったらこっちもありがたいのにという手前勝手な自分の「うしろめたさ」からくる望みと紙一重なのではないか。あの記事に賛意を示す時にそういう気持ちが自分の中のどこかにないか、というのが僕にはどうしても気にかかったのだ。

 というわけで結論、あの記事は「障害者の生き方」についてのひとつの提案としてはとても良い記事だと思う。しかし「障害者との接し方」「障害者の捉え方」についてのひとつの提案としてはとても慎重に考えたい。そう考えないと思わず飛びつきたくなるほどに、こっち側に都合が良すぎる提案だからだ。自分の「うしろめたさ」からラクになりたい気持ちが前に出すぎた時、何かを押しつけたり何かから目を背けることになってしまいやしないか。そういうことを考えた時、この提案はやっぱり俺にはちょっと怖い。以上です。