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「友達」の話

そういえば今週ブログを書いていないなと気付きテキストエディタを開き、何か他愛もない話をしたいところだったので何か他愛もない話はないかなと思い考えると、そういえば誰かがこの前ブログで「友達」の話をしていてそれは如何にも他愛がなかったので僕もその話をしようと思った。

「友達」という言葉を考えるに、「友達」という言葉が僕の生活にどのように登場するか考えるに、矛盾だらけの自分が思い起こされ如何にも他愛がないのだけれど例えば僕は「僕は友達がいない」と言うことをよく言う。人前で言う。その人前と呼ばれる僕の前に立つ人々の中には、僕のことを友達だと思っていたのに、そう思う人もいるのかもしれない。悪いかなと思う時は、ない。ないない。その一方で、僕はとてもお気軽に何の気なしに「友達だもんな」と言う。これははっきり言ってギャグだと思って言っている。「きっといつか二人で空を飛ぼう」と「友達だもんな」はきっとほとんど同じ意味だ。僕にとって「友達」ってやつはどうもそういうものらしい。だからウケるかなと思って「友達だもんな」なんて言ったりする。まぁまぁウケる。やっぱり僕に限らず翼の一つも持たない僕らにとって「友達」なんてやつは随分馬鹿馬鹿しいらしい。僕の口から「友達」という言葉が飛び出るのはまぁ大体そんな時ではあるのだけれども、他人の口から「お前は友達だ」と飛び出るぶんには別にそれはそれで構わないし好きに呼んでくれと思う。

つまり好きにすればいいと思っている。真偽だとか定義とかと無関係に「あいつは友達だ」とみんな言いたいように言えばいいじゃないかと思う。そして言った言わないの話はつまらないな、とも思う。言ったとか言わないとかの話を始めてしまうと、言うなとか言ってくれって話になるので、それはとてもつまらないなと思う。言った言わない言うな言ってくれの話が始まってしまうのは、つまりはそこに意味を見出して求めてしまうからなのだろう。そういうのは良くない。そういうのは御免だ。そういう意味で僕にはやっぱ友達はいない。そう言いながら僕は完全にサムアップ感覚で「友達だぜ」と言う。サムアップ感覚でいいのだと思う。無意味で良い。むしろそれを真に受けて何かを求めてくる奴がいればそいつはサムアップしてきた奴に親指を切り落として俺に寄越せと懇願している気違い同然だ。サムアップはサムアップを示し合わせた時点で完結してそれ以上もそれ以下もないのだ。

ここまで書いて、どうやら僕の中での「友達」っていうのはそんな感じなんだなとようやくわかってきて、やっと頭の中に見知った顔がちらほらと浮かび始めた。

その浮かんできた面々とは全然関係ない話だけどこの寸法でいけば思うぶんには勝手なので色んな人を勝手に「恋人」と呼んでもいいような気がしてきた。僕は気が違ってしまったのかもしれない。以上です。