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「○○論」との距離の取り方

さっきこんなツイートを見かけてとてもモヤッとしたので何か書きます。

言わんとしていることはわかるんですよ。とある「○○論」を盲信した挙句わけわからん方向にわけわからん角度で突入してもうそのまま燃え尽きちゃえよみたいな話ってよくあるじゃないですか。特に育児なんてのはそのまんま十人十色なわけで、「こうすれば絶対うまくいきますよ」なんてのはありえない。それでもいざ困った時に自信満々に書かれてた論に頼りたい、信じたい、アテにしたい、「こうすればいいんだな!」となるへそアドレナリンを分泌して早くラクになってしまいたいって思っちゃうのも人間で、そうならないためにも知識には頼らない、○○論は読まない、っていう理屈はわかるんですけど。それは結局○○論をどの程度理解してどの程度信用してどの程度参考にするかっていう話をすればそれで良い話なわけで、もちろんまじで十人中十人が相手にする価値のない糞みたいな○○論もありますし、十人中十人に当てはまる○○論は存在しないんでしょうけど、なので「読まない・頼らない」が結論っていうのはバランス的にどうなんだろうみたいな。

例えば、例えばですけど、「僕はボタンを見るととりあえずめちゃめちゃ連打しちゃうんで機械はなるべく使わないようにしてるんです」って言ってる人がいたら、そっかまぁ機械があった方がラクなこともあるだろうけど頑張ってね、でいいんですけど。やっぱ「いや、連打すんなよ」ともちょっと思うじゃないですか。「何言ってんだてめぇ機械を最大限活用しまくれよこの野郎」とまでは全然思わないんですけど、「いや、連打すんなよ」とはちょっと思うじゃないですか。それに似た感じ。

別に「なるべく」とも書いてるし、これつぶやいてる人がそこまで○○論を極端に毛嫌いしてるわけでもないんで(ブログエントリの方は知らないけど)、こっちとしてもなんかウダウダごめんね、とも思ってるんですけど。バック駐車別にいけてるけど、もっかいだけ切り返そ、もっかいだけ切り返そ気持ち斜め気持ち斜めやねん、くらいの感じなんですけど。まー分かりやすくうさんくさい○○論を遠ざけたところで何にしたって連打願望というものは人間に付き纏うもので、要は執着や依存の対象は何にでもなりうるよねっていう当たり前の話なんですけど、「連打しちゃうんで」って理由でボタンから遠ざかった人は結局何か別のボタンに接近してるだけなんじゃねぇのかなとも思ったりして。結局自分の内にいる高橋名人とどう向き合っていけばいいのか、みたいなそういう根っこの話になってくるんだろうなぁとか。なんか、そんな感じです。

どうでもいいけど、小学生の時にキャンプで火を扱うのに軍手忘れてきた横山くんが先生が軍手貸してやるつってんのに「前に軍手を失くしたことがあるからイヤだ」というよくわからない理由で頑なに拒否し続けて「失くしてもいいから」って言われてるのに頑なに断り続けて最終的に先生も業を煮やしてぶちぎれてたのめちゃめちゃ面白かったな。全然関係ないけどなんか思い出した。あ、関係なくないわ。なくないか? ないか。以上です。

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