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共感力に乏しい人間は意識的に相手の不自由に寄り添うほかない

あらすじ。

学生の頃当時同棲していた彼女(現嫁)が風邪ひいて寝込んでる時にコンビニで買ったご飯を届けるやいなや「よし、じゃあ俺にできることはもうこれくらいだから飲みに行くわ!」と言って部屋を後にしていたクズこと俺こと僕も見捨てられることなくそのままゴールインして今もなんとかかんとか結婚生活を営んでいます。

あらすじ終わり。

男性がなかなかできない妻への寄り添い方 | パパラボ

これ読んだんですけど。まぁ、結局夫婦論とか結婚論とかってコミュニケーション論であって、そういうのって詰まるところは程度問題で良い塩梅の匙加減を各々パートナー同士で探していければそれでいいよねってだけの話のはずなのに言語化するとなぜか極論に針が振れてしまいヌーの群れが殺到するみたいなありがちパターンですよね。ヌー! ヌー! って鳴きながらすごい土煙あげてやってくるヌー。たぶんヌー、ヌー! って鳴かないけど。

さて、人間だれしもが他人への欲求を抱えていてそれを適度に満たしてもらえないと辛いですし過剰に求めてしまうと関係がこじれてしまうのでなんとかコントロールしながら生きていくしかないなと今日喫煙所で一緒になった知らないおっちゃんも言ってたんですけど、その欲求を言い表すポピュラーな定型文のひとつとして「私がこれだけやったんだから、お前もこれだけしろ」というフレーズがあります。この欲求をベースにして生きてる人は、もちろん平常時は面倒見が良くて人に施すことができる素晴らしい人のように見えるのですが、欲求が満たされずに人に施すばかりになってこじらせてしまうと想像するにたやすいめんどくさい人になりがちです。記事のブコメで奥さんを批判的に捉えている人は恐らくそういうこじらせきった人物像を想定しているものと思われます。実際のところこの奥さんがどれくらいこじらせてるのか或いはこじらせてないのかは分かりませんが、ここで油断ならないのは他人からのこういう欲求を煙たく思っている側も実はまったく同じ構造の欲求を他人に抱いているということです。それは「俺はお前のことをこれだけ許容しているのだから、お前も俺のことを許容しろ」です。結局お互い自分の得意ジャンルに持ち込もうとしてるだけなんですね。一方は自分が相手のことを慮って気遣うことが得意なので他人にも気遣いを求めるし、もう一方はまぁ人それぞれだよねと割り切ることが得意なので他人にも割り切って許容することを求めるだけで、言ってることはお互い実はそんなに変わらないのです。もちろんこの二つの欲求は一人の中に同居可能ですし、どっちの欲求も全開にしたら駄目に決まってるしバランスだよねーって話になるのは当然なんですけれども、ここでは便宜上前者の傾向が強い人を「共感力が高い人」、後者の傾向が強い人を「共感力が低い人」と呼びたいと思います。そして俺が圧倒的に共感力が低い人間であることは自身にとっては今さら言わずもがなです。お前もそう思うよな、犬!

犬「わん!!」

僕どうもこの共感力の欠如が甚だしいようで、ほぼほぼ「折れた足をいじられると彼は痛いがわしは痛まない」と言い放ったカイジの兵藤を地で行く勢いで共感力が足りないんですよ。嫁が体調悪そうだとするじゃないですか。早く良くなって欲しいなぁとは思うんですよ。普通に。ただ、そのために今できることは然るべき対応をした後とにかく彼女が安静にしてることじゃないですか、彼女のために俺ができることは特にない、俺が心配して気を揉む揉まないは彼女の今後の体調に何の影響も及ぼさないと根っこの部分では今でも本気でそう思ってるわけです。

ただこの考え方だけじゃ良くないってことはわかってるんですよ。まず、もう書いてて自分で落ち込んでくるほど優しくないじゃないですか、嫌なやつじゃないですか。自分の考え方を分かりやすく説明したい時にカイジの兵藤の台詞を引用するって自分でやっててこれ意外とキツいですよ。俺ダメじゃん、みたいな。ナチュラルボーン共感力マシマシ人間には「冷たいやつだ」「人でなしめ」と罵られることもありますが、俺だって優しくなれるならなりたいよ。でも共感力が無いんだからしょうがないじゃん。こっちの体感的にはチビを槍玉に突き上げられるのとあんま変わんないんですよ。もう努力ではどうにもならんのですよ。感じないもんは感じない。

しかしそうは言っても人間ってやつは配られた手札で遣り繰りするほかないのです。共感力センサーが馬鹿になってるんです。これはもう揺るぎない事実です。そしてそれをそのまま放っておいて人と共同生活をしていると親密度ゲージがぐんぐん下がることは過去既に証明済みです。泣き言ばかり言っていても仕方がありません。なんとかこの無駄な親密度下がるイベントを回避するほかないのです(その無駄とか言ってるとこが駄目なんだけど)。つまり共感力センサーが正常に機能してないなら「運用でカバー」です。

要するにこの「運用でカバー」を実践して言語化した一例が元記事で使われていた「不自由に寄り添う」というフレーズだったのだろうな。と僕は思ってます。

僕なんかも見ての通りのザマなので、かなり意識的に不自由に寄り添う必要があるわけですね。例えばここまでで例にあげてる「嫁さんが体調悪かった時」ですけど、さすがに飲みに行くのはやめたよね。で、一応隣の部屋待機で何かしてて苦しそうにしてる気配とか起きた気配を感じたら声かけに行くくらいにしてるんだけど、この機会に元記事の話をちょっとしてみたら「それでもなかなか来てくれないよね」とのことで、これはたぶん恐らく嫁の方での「私しんどいんだから来てくれてもいいだろ」ラインをやすやす突破してるのに俺は「まぁ、体調不良っていうくらいなんだから呻き声くらいそりゃあげるよな」と解釈してる可能性があります。ここは今後要調整ですね。他にもついでに色々聴いてみたところ、家にいてもtwitterとかLINEとかやってるとちょっと良い気はしないとのことで、テレビとブログ書くのは基本セーフだけど内容による、本を読むのは大体セーフ、とのことだったので、これらを踏まえて考えるにうちの嫁さんは自分が苦しい辛いという情報しか受信できない状態にいるのに俺が外部の人間とのコミュニケーションで楽の感情を得るのはあまり感心しない、ということのようです。なるほど、この法則に照らし合わせると酒を飲みに行くのもバリバリアウトなのでツジツマがあっていいぞ! ツジツマ最高! そういうわけでそこに抵触すると良い気分はしないだけで特に俺が不自由でいなくてはならないというわけでもないので良かったです。特に本についてはノーマークというところで、彼女の中で本を読むという行為は快楽をむさぼる行為とは一線を画す内省的な行為でありかなり大目に見てもらえることがわかりました! 本が読めるならそれは不自由じゃない! 学べる喜び! わーい! というわけで、今後は嫁が体調を崩したら本を読みたいと思います! やったー!

みたいなめんどくさい手続きをですね、共感力の低い人間は都度都度やっていかないとあかんのですよ。一番いいのは「君が苦しんでるのに一人だけ外で飯食って酒飲んでも僕だっておいしくないよ」って心の底から思えるのがそりゃ最強ですよ。モテそうだし。でも神様は僕にその才をお与えにならなかったからね。「不自由に寄り添う」っていう極端な言い方の是非はともかくとして、何せ共感力なく直感でお察ししたりとかができないんでね、ひとつひとつ潰していくしかねーんだよなとかそんなことを思いました。はてなで育児ママのブログとか好んで読むけど、ぶっつけ本番効率悪いから予習してるみたいなところあるしな。

まー自分がそこらへん極端ってのもあって、自分が言われるとキツいところもあるので、感情を割り切るのが苦手な人に対しても「普通に考えたらわかるだろ」とかもなるべく言わないようにしたいもんですっていう、結局はバランスと歩み寄りだよね、っていう普通の話にしかならないんですけど。以上です。