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小山田氏のやつ

まず、ひとつの言説として「目の前でいじめが起こっていて、目の前にいじめられている人がいて、それを傍観していたならそれはいじめに加担している共犯者と同じだ」という考え方がある。どうも、あるらしい。

これについては、きっと世の中の多くの人にあっては「そうだそうだその通りだ」とも「いやそれは極論だ」とも簡単に言えるんじゃないかなと思う。

自分が理不尽に虐げられて周りの誰も手を差し伸べてくれなかった時の記憶が頭をもたげれば「そうだ、あの時助けてくれなかった奴らがたくさんいた。俺がいじめられているのを目の当たりにしながらそれが自分じゃなくて良かったとホッと胸を撫で下ろしながら、遠巻きに俺を嘲笑っていやがった、あいつらもいじめの共犯者だ」と解釈することができるだろう。

一方で、「たしかに俺はあの時、あいつがいじめられているのを見過ごしていた。あいつがいじめられているあいだは俺がいじめられることはない。しかしだってそれは仕方がないことじゃないか、もしそのいじめに俺が介入しようとすれば俺が同じ目に遭うかもわからない。標的にされては堪らない。それをいじめの共犯者と看做されるのも堪らない。俺も理不尽な暴力を振るう存在に屈した被害者だったのだ。断じて共犯者ではない」と主張することも簡単である。

ここで僕が考えたいのは「さあ、お前はどっちだ?」という話ではない。「我々の多くはどちらでもあったし、今もどちらでもある」ということを考えたい。

小山田氏の一件については、平和とか平等とかを謳うよくわからん国際的なイベントを誰が担うのか誰に担う資格があるのかという話なので、一切の擁護の余地はなく、彼が辞任なり解任なりに落ち着くのは当然の帰結であろうことには間違いがない。

だから当然、彼の辞任なり解任なりを求める声が上がるのも、彼の過去の振る舞いが滅法叩かれて批難に晒されることについても取り立てて問題はないと考える。

当然湧き上がる批判とそれを起因とした辞任劇を、たとえば「ネットリンチ」だとか「社会的私刑」だとかいう言い方で矮小化する必要は全くないだろうと考える。

今回のこれは「ネットリンチ」という話では全くないと思う。当然のムーブメントが起こったうえでの当然の帰結である。

 

しかし、「ネットリンチ」ではないにせよ、「一気呵成」ではあったなぁ、とは思う。

 

「しめた、今ならいけるぞ!」という虐げられてきた人たちの一致団結ではあったんだろうな、とは思う。し、それ自体は全く悪いことではない。まあ僕も微力ながらチクチクねちっこいツイートをして、そういう一気呵成のムードに加担していたし。「嫌です!これ!」て言えるムードならそれは言うし、そしてそれは今後もやっていくつもりだし。そういえば、のぶみの辞退すげえ早くてビビったな。あれたぶんこのままずるずるいってたら小山田氏みたいにどんどん拡散されてテレビで取り上げられたら俺のファンこと食い扶持が減るぞみたいな冷静な判断なんかな?わからんけど。

みたいなことを考えながら思うのは、やっぱり世の中で幅を利かせる邪悪なやつらというものは、まぁ厚顔無恥極まりないんだろうなぁということです。小山田氏も、実際に人々が声をあげなかったら厚顔無恥にそのまま素知らぬ顔でセレモニーをセレブレイトして終わっていたんだと思うし。だから、声をあげてふさわしくない人物を降ろしてくれって叫ぶこと自体はまったく問題ないことだとは思うんだよね。

そのうえでやっぱり考えたいのは、「今ならいけるぞ、しめた!」って気持ちと、「傍観者は加害者なのか」「傍観者も被害者なのか」って問題なんですよね。

繰り返すに「お前はどっちなんだ!?」て話ではないんですよ。どっちもなんだろう、て気持ちがあって。で、どっちもなのは悪いことじゃないよ、人間ってだってそうだもん、て思う。今こんな話をしてる俺を見て「お前ずるいぞ、お前なに善人ヅラしてるんだ」ってやつもいるだろうし、小山田氏はこれを見て「お前ずるいぞ、もうお前が何かお願いしてきても悪人仲間に入れてやらねーからな!一生善人ヅラしてろ!」と思うかもしれない。

でも、そういう人間だからね、人間ってずるいんだよ。悪いやつもズルいし良いやつもズルい。ズルい中で風向きがあっちに行ったりこっちに行ったりして、人間には大事な信念があるかもしれないけどその尊く掛け甲斐のない信念っていうやつは大概ちっぽけで、大きな力に流されたり追い風を受けたりしながら、ふわふわと消滅しないように形を留め続けるより仕方ないそんなものなんじゃないだろうかと思っている。

何が言いたいかというと、みんなそういう自分のずるいところに無頓着になり過ぎているように感じる。「今だ!今なら巨悪を叩ける!」ってタイミングに巨悪を叩くのはそれはそれで必要なことだし、それ自体にはなんの文句もない。ただ、「今だ!」を嗅ぎ取って叩く、一気呵成になっている自分と一気呵成にならなかった自分との差異にある自分自身のずるさみたいなものを忘れてしまったら、巨悪を叩き潰した後に隣の奴と勝利の祝杯をあげる時に本当に喜びを分かち合うことはできないだろうし、同じ巨悪を共に倒した同胞とまた憎み合うことしかできないだろうし、そういうふうに憎しみ合うことしかできないのは嫌だなぁと思う。

 

ということをわざわざブログで書かないと、まさに悪い意味での傍観に俺がなってしまうよなぁと思って書いた。ずるくなくなることはたぶんもうできないしそれでいいけど、ずるいことを表明するためにもたまにはブログを書かなくてはならないなぁと思ったのであった。

以上です。