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怒りは、怒りの形のままでは役に立たぬ

日々、クソを煮詰めたようなニュースがテレビやインターネットやを賑やかし、今日もタイムラインは怒り狂ってる人で溢れかえっていて、しかしそれですらもう、最早すっかり見慣れた日常の風景だ。いい加減うんざりもするものだが、多くの人が怒ることすら出来ずなんとなく我慢を強いられていた時代が長らく年表に横たわっていたことを踏まえればこれはこれで喜ばしいことなんだろうとは思う。しかし、もうそろそろいい加減、みんなうんざりしてきたっていい頃なんじゃねえかなとも思うのだ。

怒りが怒りそのものの形のままで出来ることは我々が期待しているよりかはずっと少なかった。怒りそのものの形をした怒りは、我々の怒りの根源を取り除くための道具としてはあまりに原始的で拙く頼りなく、そして我々が憎み相対する邪悪は怒りそのものの形で立ち向かうにはあまりに狡猾で老獪で複雑であった。かつて我々が怒りの声すら発することができず誰かに届け慰め合うこともできず絶望していた頃のように、我々は我々が今共有し共振し日々すくすくと大きく育てているその怒りが、そのままの形では我々を決して救いはしない取るに足らない無用の長物であることに今一度絶望した方がいいのではないか。

絶望しろ、というのは何も怒ることをやめろということではない。それではかつての時代に逆戻りだ。

しかし、怒りは、怒りの形のままでは役に立たぬ。

我々は、我々が獲得したこの怒りを大切に手放さぬようにいつまでも大事にしたいと思えばこそ、その怒りをもっと人にとって有用な道具の形に作り変えていかねばならない。打製石器の時代を終わらせて、怒りを研磨するのが当たり前にしていかなくてはならない。

あるいは、振り上げた拳はどこにも届かないと知らねばならない。

握れば拳、開けばたなごころなどと甘っちょろいことを言うつもりもない。しかし、ただ拳を握りしめ振り回すばかりでは、どうにもここらが限界だというのはもうどうしたって分かりきったことではないか。

我々は拳を作り、振りかぶり、そうして初めて自分の肩から先に何か可能性がぶら下がっていることを知った。その可能性をもう少し膨らませようと思ったら、それはもうどうしたって一度、拳を開いてみるしかないんじゃないだろうか。両の手を合わせた10本の指に、拳よりも大きな可能性を見出そうとするしかないのではなかろうか。

そしてお前ら全員薄々気づいているだろうことを俺は知っている。拳を解けば現れる10本の指を使って何かを掬い上げたり何かを摘み出したり何かを作り込んだりすることが、ただ怒りに任せて拳を振り回すよりもずっと困難で辛抱が必要でずっとずっとめんどくさいことで、それに向き合うのが面倒だから頑なに握りしめた拳を解きたがらないことも、俺は薄々知っている。

怒りを怒りそのものの形に留め拳を振り上げるばかりの人々は、自分の持つ可能性を故意に握り込み隠蔽し、偽りの無力感に酔っ払っている。

拳を開けばそこには10本の指があり、その掌には指の隙間から溢れんばかりの可能性があるはずだ。その可能性と向き合うには好ましい結果を得るのを急がない少なからぬ忍耐と多少なりとも自分を律しようとする誠実と、そして何より可能性を諦めない並々ならぬ原動力が必要だ。原動力なら既に持ち合わせている。それは、我々を怒りに駆り立てる、それだ。

ならば、後は拳を開くだけだ。恐れることはない、拳を開いたところで、原動力は消えない。この先少なくともしばらくは、うんざりするくらいに世界は燃料を投下してくれる、投下し続けてくれる。拳を開こう。掌を見つめよう。指をわしゃわしゃと動かすのを眺め、できることを考えよう。

拳を開けば、世界なんかではないあなたが、あなたは可能性に満ち溢れている。

可能性を握りつぶして、拳を振り上げて、無力なんかを気取るな。怒りを怒りの形のままにして漫然と満足するな。前を見ろ、振り返れ、拳を解け、手のひらを見つめろ。西に東に北へ南へ駆けずり回らずとも、この10本の指さえあれば、この10本の指の使い方を考えることさえできれば、可能性は、まだ我々の手の内にうんざりするほど残っている。

我々というか、私に限った話で言えば、そういうものに私はなりたい。

以上です。