←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

僕が子供の頃に登場した年上など羅列

https://blog.tinect.jp/?p=53958&

 

今は一児の父なので読んで色々思った。思ったんだが結論は出ないので、暇つぶしに俺に様々な雑な意味での文化資本を与えたであろう色々を思いつくまま羅列する。

 

父親はまあ今32の俺のような息子を持つ世代の親にしては「子供を自分と対等に扱う」をかなり熱心に実践していたと思う。出張で家を空けることは多かったが出張に出る際には必ず長兄である俺に「俺がいないとなればお前が家を守らねばならんから頼むぞ」と言っていた。「子の意見は聞く」と言いつつ論理的対話を強いるので子供としては荷が重かった。言いつつ所詮根底にあるのはパターナリズムで彼の中での納得のいく回答に着地しないことは許さないので、たびたび「これはどう自分の本音を伝えても結局はブチ切れるだろう」という詰みのシーンは少なくなかった。そしてブチ切れられていた。ある程度の領域においては寛大だったが、寛大でいてもらうためには説得という対価を求められるので、相性の良い子供悪い子供はあっただろうと思う。俺はギリギリ相性が良かったが、このやり方そんなに万能じゃねえなと本人も薄々気づいていたようで、妹弟への教育方針は俺とは微妙に異なる。

母は論理的からは程遠いキャラクターである。なにかしら愛情のようなものは感じているのでその点は幸せだったと言える。自身の身体の成長と共に関係性は目まぐるしく変わった。他人の弱さと折り合いをつける、それでも向き合うということは結局のところ母から学んだ部分が大きい。母はいつも家にいたので、いつも対話していた。よくわからないこともよく言うが、他人は俺にはわからないことを言うもんなんだと学んだ。徳光と中山エミリが司会をやっていたある年のヒット曲を紹介する番組で昭和62年とか63年のヒットチャートを振り返る回をやっていた時に「あんたを育てるのに必死だったせいでこの頃の曲は全然わからない」と愚痴っぽく言われた中学生のある晩を今でも覚えている。「俺に言われても」と思ったし言ったが実際大変だったのだろう。あの時誰々に言えなかった言いたかったことをよく聞かされたなぁと振り返るに思うが、まあ彼女も色々大変だったのだろう。

父は年の離れた四人兄弟の末っ子で、僕は生まれた時点で年の離れた従兄弟がたくさんいたので、そいつらのお下がりの本は家にたくさんあった。マンガでわかる偉人の伝記とか、写真がいっぱいある20冊からなる百科事典とか、そういうものを読んでいた。ドラえもんの寝床みたいな押入れで本を読んで時間を潰すのは楽しかった。

田舎なので親戚はたくさんいるので多様性は十分だったろう。大抵の親戚はむかつく奴らばっかで話は合わなかったが合わなくていい、というスタンスの父親なのでそこはありがたかった。「その場では合わせろ」みたいには言うが、そいつらの主張を受け入れろって感じではなかった。「あいつはああいう性格だからああいう言い方になるのさ」という評価の仕方を親父はよくやっていた。

父方の祖父母は早くに亡くなったのであまり思い出はない(ないこたないが割愛する)。母方の祖父は、寡黙なのか饒舌なのかよくわからない人で、ハイな時とダウナーな時の差が激しかった。将棋や麻雀の勝った負けたに子供よりよく怒りよく喜んでいた。人生について語られたことはないが、長いこと人生をやっていくコツみたいなものは学んだ気がする。つまらないと思うとつまらないし、テンションを上げると悪くない。

母方の祖母は、母以上に他人のことばかり気にして生きてる人だった。自分の娘のこととか、その子の孫らのこととか。大学生の時に里帰りで顔を出して一緒にスーパーに行った時、靴下を買ってやろうかと言われたことをなんだか物凄く覚えている。靴下なんか買って要らんかったが、俺に何かしてあげたいんだろうなということを物凄く感じたのだ。連れ合いの祖父が死んでからは割に開放的でカラオケとかパークゴルフとかに忙しいらしく、人生を謳歌しているそうだ。

年上の従兄弟たちは、みんなバラバラにそれぞれやっていて、彼らの話が子供の頃から今まで耳に入ってき続けてるのは端的に言って悪くない。結婚したり子をもうけたり離婚したりみんなそれぞれにやっている。僕は芸能に疎い子供だったので、色んな流行りの音楽を教えてもらったり、ゲームがうまいお兄ちゃんとかデコトラにハマるお兄ちゃんとか色々がいて、「なにが面白いんだこいつら」と思いつつ、僕が自ら手を伸ばしはしなかっただろう知識やら何やらは多く授かった。

学校は、まあそんなに面白い場所ではなかったが、アウェイは嫌いじゃなかった。クラス替えのくじ運に負けたら息を潜めるしかない時もあったし、噛み合えばクラスの中心っぽくなれる時もあった。中心をよく思わない奴らとの対立もままあった。自分が中心に噛み付く側の時も勿論あった。いじめは良くないがクラスの流れの本流を自分の側に寄せれるか奪われるかみたいなのは、まあどこに行ってもあることだし、それを学ぶ場としては学校は面白いんじゃないのと思う。教師から学ぶことはあまりない。音楽の教科書の最後のページの君が代にプリントを貼らせるような学区で育った。

一方で、ボーイスカウトにも所属していた。国旗を掲揚して敬礼させる組織である。右と左の両方のコミュニティに同時に属していたのはいいことだったと思う。ボーイスカウトは、色々な学校の奴らが合同で土日に集まる組織なので、他所の学校の奴らと交流できる環境は良かった。たぶん平日はカーストトップだろうなってやつも最底辺だろうなって奴も入り乱れていて、右寄りの説教がましい大人の統率のもと、表立って喧嘩などはせず、お互いを尊重しながらマウントを取り合ったりしていた。ボーイスカウトは小学生から高校生まで一緒に活動してたりするので、お兄ちゃん像は多様だった。ボーイスカウトそのものが「信念通してなんぼ」みたいな風潮があるので、学校では空気読んでる奴らが信念を押し通す場として下らないことで議論を重ねたりとか、行動とか思想の価値を戦わせ合ったりしていた。

ボーイスカウトは火を起こさなくちゃならないので軍手が要るんだが、同い年の中学生が軍手を忘れた時があって、高校生のなんとかさんは「俺の予備の軍手を貸してやる」と言った。それに対して中学生は「過去にそうして貸してもらったものを失くして返さなかったことがあるので借りたくない」とゴネて、高校生のなんとかさんは「失くしていいから、使え」とブチ切れたことがあった。中学生はそれでも「いやだいやだ」と泣きながら拒絶して、高校生はそれに更にブチ切れる。結局、それがどうなったのかは忘れてしまったが、そういうことがあったのを覚えている。

あと、ボーイスカウトで覚えてるのは、中学生の時に、温泉に一緒に入ってた高校生の先輩が「クラスの女子と俺はこんなエロいことをした」みたいな話をしてくれてえらい興奮したんだけど、その先輩は「話してたら勃ってきちまった、ちょっと、冷やしてくる」と冷水シャワーを浴びに行ってたの、当時は「高校生かっけー」と思ったが、いま振り返ると全部フカシの童貞だったんじゃないかなとも思う。

並行して中学生からインターネットをやっていたので、当時はインターネットの色々なコミュニティで最年少としてかわいがられた。大学生や社会人とチャットするのは本当に楽しくて、ましてやみんな都会の人間なのでワクワクもした。大学受験の時に初めて都会に出て開いてもらったオフ会は、つまらなかったが俺にとって初めて「生の都会」に接触した瞬間だった。会うまでは高揚もしたし、会ってしまえば「どこに行ってもコミュニティの運動力学はそんなに変わらねえな」とか思った気がする。

非常に恣意的な羅列ではあったが、振り返るに僕の人格形成は、このような登場人物らと共に行われた。他にもいっぱい割愛している気がするが、まあこんな感じでやってきてるのだ。

今でも会いたいと思えるような素晴らしい人との出会いなんてほぼほぼなかった。しかし、そういう出会いの積み重ねが今の俺を形作っているのだなぁ、とシロクマさんの記事を読んでしみじみ思ったのだ。

各々、手前勝手な指標を以って、勝手に人生をやっている。それが社会で、人間だ。

そういう視座を獲得するに至る経験は、なんやかんや積ませてもらった。トータルでいうと感謝はでかい。どいつもこいつもいい加減な奴らばっかだったが、そいつらを俺の目は目撃して、今の俺が在る。

これを息子に与えられるかなーとか考えると、あんまり自信がないというか現状手駒が薄い。そう考えると俺の今考えているアレコレはシロクマさんの提起する問題意識とイコールなのだろう。

どうすっかな、どうすべきかなと思いつつ、日々は続いていくのであった。じゃあ俺の大嫌いだった歴代の担任、Facebookやってないか確認してから寝ます。以上です。