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全員に言えることを殊更に一部の人だけに言って見せるのは「いじり」ですよ

なんか、これを微笑ましい話と認識する人とかけしからん話と認識する人とか当然あって然るべき注意喚起だと考える人とかに分かれて入り乱れてるらしいんですけど。

歩きスマホをやってはいけないのは子連れの人に限らず全員ですよね。

にも関わらず子連れに対してのみもう一言添えるのは「いじり」ですよ。

例えば「おかわりは一人一回までだぞ~、わかったか坂本」って言った時に坂本くんが食いしん坊キャラとしてみんなに認知されてて本人もそのキャラを受け入れててなんならその言われてる時も家から持ってきたバケツいっぱいのチョコチップアイス食ってて「だっておいしいんだも~ん」って開き直ってるみたいな奴だったら別に問題ないわけです。ただ坂本くんが食いしん坊キャラとかそういうの特に定着してなくて単に坂本くんが太ってたから言ってみたとかだとだいぶ危うくなります。しかしこの時点で即アウトかと言えばそうでもありません。坂本くんがいじられ耐性というかいじられスキルを持ってて「いや、俺意外と食べないタイプのデブだから!食堂のおばちゃんとかにご飯いっつも多めに盛られて困る方のデブだから!」と言って笑いを取るのに喜びを感じる人材だったらセーフな可能性が出てきます。ここでもあまりセーフと言い切るわけにもいかないのは、もしその空間に坂本くんと違って喋るのが苦手で人に笑われることを嫌う太ってる人がいた場合その人は自分が直接言われたわけでなくとも内心傷ついてるかもしれないからで、これは大変微妙な問題です。もっと言えばこの段落全体がその大変微妙な問題を孕んでいます。

おかわり一回までというのは全員に平等に課せられるルールなのに坂本くんだけに殊更に釘を刺して言う、というのはこれ紛れも無く「いじり」です。「いじり」とはまぁ笑いの取り方の一種です。笑いというのは、あると良いですが別に無くても良いものです。わざわざ言わなくてもいいことです。わざわざ言わなくてもいい一言でみんながハッピーになるのであればそれは良いことです。ただしそれで誰かが傷つきアンハッピーな気持ちになるのならそれはわざわざ言わなくていい悪いことです。それを言った人は糾弾される可能性があります。

誰も傷つけない笑いなんてない、みたいなことを言いますが、笑いの部分には色々他の言葉が入ったりもするようですが、まあ全部「わざわざやらなくていい」ことを当人が自主的に好んで勝手にやってるだけのことなので、それは大義名分にはなりません。人を傷つけていい理由にはなりません。

では僕は「いじり」なんてしなくていい、問答無用だ、余計なことを言わずに黙っていろという立場なのかというとそんな立場のやつはたぶんこんな喩え話にはならない。

「いじり」でもなんでも笑いなんてものは勝てば官軍、です。誰も傷つけずにウケれば喜ばれますし、傷ついた人がいたならばきっと非難されます。その際に「でもでもだって」はいまいち通用しません。

たとえ誰かが傷ついたとしてもそれでも言わなくてはならない大事なことというのはそれはそれで世の中にはあるんだと思います。僕はあんまそういう大事なことを言おうとしたことがないのであまりよくわかりません。ただ、「いじり」はそういう性質のものではありません。傷つく人がいるくらいならわざわざ言わなけりゃ良かったことです。

それを踏まえたうえで、最初に貼ってあるアナウンスは「いじり」です。歩きスマホをしてはいけないのは全員です。その中で特に子連れにのみ言及するのは「いじり」です。もっと言えば「なんで子連れにだけ言うねん」というツッコミ待ちのボケです。僕は「いじり」は常に良くないことだ、という立場ではありません。例えば櫓の上に乗ってたら水牛の群れがガンガン体当たりしてきてすげえ揺れて楽しいみたいなアトラクションがあるとするじゃないですか。楽しいかそれ?そこでアトラクターが「それでは今から水牛がやってきますよー、小さなお子さんはしっかりとお父さんお母さんの手を握ってくださいねー!」って言ったらそれも「いじり」だとは思うんですけどみんな笑ってくれると思うんですね。水牛が櫓に突っ込んでくるアトラクション楽しいか?「いじり」は常に良くないと考える人もいるかもしれませんが、私は別にそうではありません。いじること自体はそれで結果オーライなら問題ありません。ただ結果オーラわなかった場合は庇い立てしにくいものだと思いますし、正当性を殊更に主張できるようなものではないと思います*1

このアナウンスが結果オーライなのかオーラわないかについてはよくわからないのでここでは述べません。

ただ、「子供はしっかりと見て歩いた方がいい」が正だったとしても、「スマホより子供を見ましょう」が正だったとしても、構造的にこのアナウンスは「いじり」であり、「いじり」である以上はもし傷つく人がいるのなら傷つく人がいるとわかってなお間違ったことを言ってるわけではないとか主張して繰り返したり、庇い立てして然るべき大義があったりみたいなそういう性質のものではないのではないかというのが僕の思ったことです。以上です。

*1:結果オーラわなかった場合のみを「いじり」と定義する人もいたりするのでまたややこしいんだけども