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嫁が『おそ松さん』沼にハマりBLのことが少しわかってきました

結論から言うと、BLは心身二元論的な世界観を不平等感なく描くために調達・考案されたファンタジー。この話は2段落飛ばした先から始まります。

以前にもブログで書いたと思うんですがうちの嫁がまー『おそ松さん』にドハマりしまして、留まることを知らないんですよ。その後も勝利も敗北もないまま孤独なレースは続いてまして、ただ彼女は一人じゃないですから、僕という伴侶がありますから。月曜の夜2時とかに放送してんのかな? それでうちの嫁は夜に弱いですから起きてらんないってことで、じゃあどうするかっていうと朝の6時とかに起きて観るんですよ。で、俺それ一人で観るのも淋しいかなと思って一緒に観てますからね。孤独なレースに俺もめちゃめちゃピットインしてますから。まずこの俺の良い伴侶っぷりを褒めてくれ。普段は8時半くらいまで寝てるってのに。もちろんそんなBLとか抜きにしたってあのアニメ普通に面白いからね。俺も楽しんでるは楽しんでるのよ、ただ朝6時に起きるのはちょっとキツいよね。普通に「月曜は明日朝早いし深酒しないように気をつけよう」みたいなってきてますから、俺の中で義務感すごいですけど、1月以降の2クール目が決まったのを知った時もふつうに嬉しい半分「勘弁してくれよ3クール目はもういいからな」半分でしたからね。

というのも、だって、その早起きの実害に限らずとも、家庭での会話で松の話が多いこと多いこと。さっきもMステ見ながら人が飯食ってたら「今日pixivで見かけた素晴らしい二次創作」のあらすじを聞かされてましてね、飯が不味くなるとまでは言わないけどちょっとこの食卓、特殊な世界観になってるなくらい思ってもいいじゃないですか。つまんねぇ邦画にありがちなちょっと変な会話の食卓風景っぽさあるなって思うじゃないですか。いいんですよ別に、松の話されたって。僕もサンタとトナカイ捕まえた十四松のパジャマがボロボロになってるからあれ結構抵抗されてるぞサンタとトナカイの必死の抵抗をモノともせず1vs2の数的不利を覆して捕える十四松は相当武闘派だぞみたいな話とか、六つ子やイヤミなんかと絡んでる時は普通に日本語喋れるのに二人になると人語を介さず楽しくコミュニケイトするデカパンとダヨーンのクリスマスには『ダーウィンが来た!』的な感動要素があるとか、俺もそういう話してるから別にいいんだけどね。それでもやっぱホモの話してる合間にグラサンかけたオールバックの元昼の顔が「次がPerfumeです」なんかテレビで言うと「ごめん、これはちょっとマジメに見たいから一旦会話ストップ」とか言われてね。こっちからすると、オイちょっと待てよ!さっきまでホモがどうのとか言ってたその口で、のっちの名前を呼ぶんじゃねえ!!とか思うわけですけど、まーいいんですけどそういうわけで僕の日常生活は松に浸食されています。次の段落から本題。

それで、嫁から二次創作を含めたBL界隈の話を耳にすることが増えまして、これはもう自由研究だなと思って。いい機会なので熱心に傾けてるんですけども耳を、掲題のとおり少しだけ、うちの嫁のみをサンプルとしての話ですが、BL(主にホモセックスがある)ってものに腐心する人がなんであんなにいるのかってのがうっすら自分の中で分かってきました。なのでそれを書きます。怒られる可能性はありそうだなーと思ってますが、そう思いながら書くので謝る予定はございません。あらかじめご了承くださいませ。

BLっていうのは、つまりは心身二元論というファンタジーなんです。厳密に言えば、現実の(異性愛者の)女性というのはまさに心身二元論で生きています。対して現実の(異性愛者の)男は心身一元論で生きていますというか心身が非常に一致しがちです。なんか、そりゃうちの嫁の好みでしょと言われればそれまでなんですが、話を聞いてるとそんな話ばっかり出てくるんですね。「愛されなくてもいいから身体だけでも求められたい」とか「愛してはやれないけど身体だけでも満たしてやる」とか、そういうのすげえ多いんですよ、BLの話を聞くと。で、普通に考えりゃ「そんなこと考える男ぁいねえよ」とか思うわけですけど、そうです実際たぶんそんなにいないんです。そういう風に身体が望むところと心が望むところを切断して別個に考える必要があるような経験って、男性には少ないんじゃねえかなと直感的に思ってしまう。そして、女性はそう考えるのは自然だなと思ってしまう。俺には、BLというものの存在はジェンダーの話の延長線にあるように思えてきたのである。

「愛してる」と心底に思う気持ちと、「セックスする」という行為がある。この二つが一致することというのはどれくらい自然でありきたりなことなのだろうか。俺にはよくわからない。まあ一口に「愛してる」と言っても、「死ぬまで一緒にいたいくらい愛してる」から「後ろからミニチュアダックスが来たら一緒に逃げるけどサイが来たらお前を置いて逃げる程度には愛してる」まで色々あるだろうが、「愛してる」から「セックスする」というのは男にとってはだってセックスってそういうもんでしょって感じがする。しかし、翻って考えるに女からするとどうなんでしょうか。ミニチュアダックスとサイの差を殊更に感じるのは女ではないか、とか僕は傲慢にも思ったのです。少なくとも俺はセックスしてる最中に「こいつはサイが来たら俺を置いていくな」とか考えたことなかった気がします。それは、置いて逃げるとしたらそれは彼女ではなく俺だし、何なら俺がサイだからなわけです。

心身二元論と言ってみたものの、もうほとんど心とは男で、身とは女であると言い切ってすらいい。それはもちろんこの世のあるべき真理ではない。しかし、BLの需要を考えるうえではきっとそう言ってしまって差し支えないでしょう。私が私の思うままに私を感じる「心」がある。それに対して、私の思うままにはならずに、私を振り回す「身体」がある。この二つの要素の綱引きというのが、「私の心象世界」を形作る基礎になるのです。しかし、ここに問題が一つ。私の「身体」というものが私の「心」と違う動きをすることには全く問題がないわけですが、それは私の意思に従う限りです。現実世界における「身体」というものは、私の意思に反してあまりに搾取され続けている。ぶっちゃけ「女体」と言い換えていいんじゃねえかなと思いますが、「女体」は私の基礎にするにはあまりに頼り甲斐がないほどに搾取の対象です。女性にとって「心」と「身体」は2つを合わせて「私」のはずなのですが(そう思わせるのも「女体」の社会での扱われようゆえかもしれませんが)、「身体」というものはどうにも不平等で、私の大事な要素でありながら私らしさを損ねる要因にもなるわけです。

そこでBLなわけですよ。男性同士であれば、それは「女体」ではなく純然たる「身体」になります。搾取の対象ではなく、「交渉の材料」「自己表現のための道具」になります。掘ろうが掘られようが。それが、彼女らが本当に望む対等なパートナーシップの基本構成要素になるのです。もちろん、話を聞いてる感じ、その先にはいつもハッピーエンドがあるということは全然ないらしく、様々な形のバッドエンドがあるようです。それでもまー、どんだけアンバランスな力関係に落ち着こうとも、それは二人の間で起こるべくして起こった結末であって、本来的な「身体」の性質によってもたらされたものではなく二人の努力の結果に因るものなわけです。

男女間の恋愛というものはそういう凸だとか凹だとかが大前提にあって、凸のあるこっちとして心が凸れば身体も凸るわけで何の問題もないわけですけれども、心も身体も凹る以外にほかない彼女らには思うところが色々あるらしく、その結果として凸も凹もお互いに兼ねれる平等な関係性の中での恋愛関係に何かしら思うところがある人というのもそう考えれば納得がいくわけで、さすがに凹れない僕はせめて上手に凸りたいなと勉強熱心な僕です。明日読んだら「これは俺でもちょっとよくわからんな」となる可能性がありますが寝ます(心も身体も寝ます)。以上です。