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ドラマ『ど根性ガエル』感想文

いや、とりあえず書こうって決めてテキストエディタ開いたもののね、喋れないですよこれマジで。ちょっといっぺん観て。なんかやべえんだ。汚泥がすごい。ザクッってスコップを突っ込むじゃあないですか、全然動かないんですよ。手首をくいくいっってやっても一つも感触がなくて、どうにも掘り出しようがないんです。それで一回スコップ引き抜いてもっかい突き刺すじゃないですか。それ自体はもう本当にサクッと、スポンジみたいに、スコップは埋まっていくのです。じゃあそうして捕まえた土くれを日の元に晒してやろうと腰を入れてもピクリともしない、これは一体全体どういうことなのか、助けてくれ力を貸してくれ、観ろ!観ろ!俺の酒に付き合え! そんな感じのドラマ『ど根性ガエル』の感想文です。

あらすじを言うと、原作の漫画ないしアニメがあって、中学生のヒロシとシャツに貼り付いて平面ガエルとして生きることになったピョン吉のドタバタコメディみたいなそういう原作があるんですけど、おれそれ全く知らないんですけども、舞台はその16年後、30歳になったヒロシと中学生から今までのヒロシの歩みを共に過ごしてきたピョン吉のドタバタコメディみたいな感じなんですけど、このあらすじの合ってるかわからなさもヤバいんですよ。本当ヤバいんですこれ。テレビで語るのに特化した結果、こんなブログではおいそれと語れない、わけのわからないことになってるんです。本当に観て。

そもそも、ドラマ化って何なのみたいなところから立ち返らないとどうしようもないんです、二次元で成立してよろしくやってたものを、時系列をググッとずらして生身の人間に演じさせて、そういうことをやる意味ってなんなの、そこに何が起こるのってところから突っ込んでやってる感じがヤバいんです。僕だってね、いっつもどや顔で人が創ったアレやコレやにいかにも葉巻くわえてそうな顔でやいのやいのやってますけどね、これはもう本当のところ書きたくもないんです。わけがわからなすぎるので、書きようがないんで出来れば避けて通りたい。チャチャッといけそうだなと思ったら最終回放映日の翌日にはとんがらした唇と鼻の間に葉巻を挟みこんでチャチャっとエントリあげてるはずですよ。それができないくらいにヤバい。もう俺は語彙力を放棄するね、歳の数だけヤバいを連呼するね、ガンダムみたいな羽織で鬼は外福は内を言うノリで、あの目に刺さると痛そうな肩の突起をぶんぶん振り回しながらすべての語彙を捨てうってヤバいヤバいと血を吐きながら叫ぶ。それほどまでにドラマ『ど根性ガエル』はヤバかった。

せっかくだし最終回まで観てから感想書こうかなと大上段に構えてたら、最終回が格段にヤバかったんだよね。今となっては完全に最終回についてしか書く気が起きない。それ以前の9話を捨て置いて最終回について書きたいという俺の欲望がヤバい。ぴょこんぴたんぴったんこ。たぶん基本的な構造でいうと、『TED』とかあそこらへんに似てるんだろうなとは思うんですよ、イマジナリーフレンドがいたからこそよろしくやっていけて、それでも俺は歳をとる。イマジナリーフレンドとは簡単に言ってみたもののさあ、それって俺らの現実にもいる存在なのか・だとしたらそれはなんだって話で。ピョン吉に声をあてた満島ひかりはもうヤバいだろってことで我が家では決着がついていてトニートニー・チョッパーピカチュウを演じて日本獣畜生声優界の雄として名声を欲しいままにしている大谷育江に迫る鼻息の荒い馬がいるとするならばそれはもう満島ひかりでしょってくらいヤバくハマってたわけですけど、そりゃああんなんが隣にいたらそれは頼もしい、ど根性が出るよと思うわけですけど、もしもそんなど根性が出なかったらどうするのさと思わずにはいられないほどに、生々しい現実の話が毎度毎度と飛び出してくる。「ピョン吉がいるからこそ楽しく過ごせる世界」として描かれているのは、ほとんど僕らの毎日と相違ないので、ピョン吉を着ていない僕は毎週毎週拳を握って突き立てればいいのか、目を逸らそうとするのが正解なのか、ほとんどわからなくなって立ちすくんでしまっていたのだ。

このドラマはシットコムのようでシットコムではない。シットコムっつうのは、そもそもシチュエーションコメディとか言うらしくて、つまりは「誰も成長しない物語」だ。一本の尺の中では、誰かが何かをやらかしてそれをどうにかしようと各々が奔走して、収まるべきところに収まったり収まらなかったりするわけだけれども、翌週にはその収まったところがなかったかのように誰も学ばず成長せず、また同じようなドタバタを繰り返す。つまりは(観てないので「きっと」を付け加えるしかないけれど)原作漫画・アニメの『ど根性ガエル』はシットコムだったのだろう。しかし、16年の時を経て実写ドラマに引きずり出された『ど根性ガエル』はそうはいかない。時間は十分すぎるほどに経過している。年も食って、死ぬ人は死んで、皺を刻んで、そういう世界でキャラクターたちは生かされている。シットコムではいられないのだ。そんな状況下でそれを拒もうとするのが主人公であるヒロシ、今のままで十分だ、今の自分が大事にしているものが失われてしまうくらいなら、変わってなんてやるもんか、成長してなんてやるもんかと頑なに変化を拒み続ける。けれどもそれは変化をしないということではない。それは全10話を観ていりゃ十分にわかる。そんなしみったれた至極にちんたらとした確実な変化をヒロシに促す求心力がピョン吉だってことも観ていりゃわかる。

ここで、一気にネタバレ感を出しますけど、っていうか丁寧にやってたらマジで終わらないですからねこの話、一話から毎度毎度エンディングで示唆されていたピョン吉との離別がそんなこんなのなんやかんやありながら9話でガツンと提示されるわけですけれども、僕は9話を観た時に素直に喪失の物語だと思ったんですね。いいようにハメられたわけですけれども「喪失の物語」だと思った。少なくとも「死の物語」だとは思わなかった。だってピョン吉は、あのネタバレが出ますから、このドラマすげえいいドラマですから、みんな観てって思ってますから、ネタバレを避けろとすら思いますよね、fuluで観ろ。いや、配信されてるか知らねえけど、だから僕はここからネタバレありますんでってことを殊更に言いたいですよね、ここまで読んで面白そうじゃんって思ったやつは、今から何らかの方法で観ろと思いますよ、この後ネタバレが出てくるんで気をつけろよと忠告しますよね、あの真ん中の鎖が届かないところにいる死体がジグソウですから、ブラピは嫁の生首を見て犯人を撃つ。ブルースウイルスは幽霊。ジャケ写のキャリーは豚の血を浴びてるだけなのでそれほどおっかないシーンではない。なんつったって、ピョン吉のひとまずの死にヒロシが立ち会えてないってことに僕はグッと来たんですよね。その時点で、「あ、これは死ではなく喪失の話だ」って思った。その後でさ、あ、もうここらへんネタバレ始まってますからね、何らかの方法で観てないやつは観ろって、みんなでさ、その後で、神輿をかつぐじゃないですか。あれもすごく喪失の話だなと思った。マニュアルがないんだ。「死」への対処ってのは、実はものすごくマニュアルがあるんだ。宗教がある。もちろんみんなそれなりにささくれ立つんだろうな、気持ちはわかるんだけれども、マニュアルは、ある。誰かの「死」に直面した時の、対処法・マニュアルは、ある。効くかはわからないけど、あるんだ。ピョン吉の喪失にはそれがなかった。僕は9話を見てそれがとても辛かった。失い方を知らないヒロシと、同様に正解を知らないヒロシの周辺が、大変に辛かった。そうして、ピョン吉は「死」以上の何かになったし、きっと僕にとっての誰かの「死」は、「死」以上の何かになるのだろうとも思った。「弔い方」はただの「弔い方」であって、それ以上にはなれない。弔いたい以上の思い入れが対象にあったのであれば、マニュアルは役に立たない。乗り越えるにほかならない。神輿を担いで騒ぐこと自体が、マニュアルと言えばマニュアルで、それではどうにもならない感じってのがとても良くて辛くて大変だった。

それで、最終回ですよね、あの最終回ヤバくないですか? ネタバレしますからねっていうのは重々言いまくってるので重々承知と受け止めて問題ないですよね? 言いますけどね。何も知らないのは関口くんだけですけどね。まず一番ヤバいのって、もう一人ヒロシが出てくることですって。あれは何だったのかって解釈はそりゃあ無限にできますよ、できますけども、そもそも作中内設定として、アレは何だったのかっていう説明責任を問われないのヤバいですって。例えば、本作のプロデューサー・脚本コンビが前に手がけた『泣くな、はらちゃん』だったらですね、さすがに最終回で主人公と他人の空似のキャラを新たに投入した際には、そいつが何なのか明らかにしないと成立しませんよ。しかし、今回はそれが不要だったわけですよ。そこがまずヤバいなと思うわけです。そういう疑問を全部すっ飛ばすほどにマージナルなラインにあのドラマは到達していたのかってことをヤバいと思うんですよね。たぶん構造的には「ヒロシではない私たち(視聴者)」がピョン吉を再生させたんだ、みたいなそういう話に落ち着くのかなとは思うんですけど、じゃあなぜそんな私たちがあの世界に参入できたのかって考えると全く最適解がないわけですよ、言葉のうえでは。でも、(少なくとも)僕は、あのもう一人のヒロシを受け容れた。これが意味わかんないわけですよね。どうしてそうなってしまったのでしょう。いつから?いつから?思い当たるのは前田敦子が「私をヒロインではなく一人の人間として見てよ!」とか叫んだシーンからなのですが、これはきっと気のせいで、たぶんずっとそれより前からなんですよね。あのシーンはめちゃめちゃ面白かったですけどね。前田敦子にアレを言わせるのめちゃめちゃ面白すぎたからね。ちょっと好きになっちゃったもんマジで。

えー、まーそんな感じで、原稿用紙10枚分くらい喋ってますけど、こうして反芻すれば一行目に綴っていたような弱気は少し引っ込みました。この物語はなんだったのでしょう。少し喋りたくなります。ピョン吉はなんだったんでしょう。何が具現化したのがピョン吉だったのでしょう。「ど根性」とは一体なんなのでしょう。飲み込んだはずの弱気が顔を覗かせて少しだけ喉を鳴らします。きっとそれは何でもないものなのでしょう。ただ、横にいるのでしょう。「いい話」になるのでもなく、ただ、隣にいるのでしょう。失って成長させてくれる何かがあるのと同様に、死ぬまで隣にいてくれるものがあってもいいのでしょう。失って気付いたものを数えるのは思ったよりも簡単なことですが、生まれてからずっと抱えてるものだってまだまだあるじゃないですか。僕はありますけど。ピョン吉ほど黄色くはないけれども。

そういえばキャリー観たことない。以上です。