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『地獄でなぜ悪い』の感想文もほどほどに「照れ」の話をします

園子温監督の『地獄でなぜ悪い』を観て、まぁ普通に面白かったんですけど普通以上には面白くなくて、感想書かなくていいかなと思ったんですけどなんだかんだ園子温の作品って観るたびにエントリ書いてたので何か自分の中で気持ち悪いなやっぱ書こうかな、でもあんま書くことないので大半は全然関係ない話しようかなと考えている僕こと俺です。

 なんつーかな、『地獄でなぜ悪い』はなんか全編通して監督の「照れ」が見えてそれが非常に良くないなと思った。もちろん園子温のいつものやり口で飽きることなく最後まで楽しく観れるんですけど、なーんか「しかたねーないつものやり口でやってやるよ」って感じがしちゃうんすよね。役者もあんなお芝居めちゃめちゃ楽しいと思うんですよ、それがもう演技見てても伝わってくる、それを見てもなんか「役者も楽しかろうな、しかたねー俺がカタチにしてやるから目いっぱい楽しんで演技してくれや」って雰囲気を俺は勝手に感じ取ってしまう。違うだろ、と。お前が撮りたいから撮るのが本来だろうが、って思っちゃって。いわゆる映画愛みたいなこっ恥ずかしいテーマをやるにあたって、そこで照れちゃ駄目だろって思ったんすよね。たぶんこの人が本来的に頼まれてもねえのになんか勝手に変なもん撮って「これおもしれえだろ、おもしれえだろうが」って詰め寄ってきて五月蠅いみたいな芸風なので余計に感じちゃったとかもある。なんつーか、園子温が好きな人を対象に園子温のいつもの撮り方で「しかたねーな、俺の映画愛を表現した作品が見たいか?しかたねーな」って感じが全編にあって、すごく良くないなと思った。お前が勝手にそのテーマをチョイスしたんだろうが何だよ「しかたねーな」って!って園子温は「しかたねーな」なんて一言も言ってないのに勝手にぷりぷりしてしまいました。あとは、狙ってるだろうから厳密には天然って呼ぶのはおかしいんだけど、「なんか普通にやったらこんなんなりましたけど」って普通の感じですげえ変なの放り込んでくるってのはやっぱある種の天然って呼んで差し支えないかなと思うんですけど、単純に天然がウケてることに自覚的になるとつまらなく見えてしまうみたいな現象がどんな世界にもありまして、それがすげえ出てるってことなのかなとも思った。まぁそういう動き方しちゃう感じも含めての「照れ」なわけで、そういう「照れ」が出ちゃうんだったら、まだこういうの作るのは早かったんじゃねえかなと思った。感想終わり。

で、感想は終わりなんですけど自分がモノの感想をべしゃくる際に「照れ」ってワード使うの珍しいなーって気がして、「照れ」のことを考えたいと思います。本当に今から考えるので限りなくグチャグチャになる予定です。

上記のとおり、『地獄でなぜ悪い』に関しては「照れ」があるのがよくなかったって思ってるんですけど、「照れ」が一概に悪いものなのかと言うと別にそんなことはない。むしろ「照れ」が醸し出されてるお陰でセクシー或いはチャーミングなものとかはだいぶ好き。ただ逆に「照れ」が無いからこそセクシーでチャーミングに見える代物もある。これはどういうことかというともう単純に僕が言葉の定義をわざとしないで「同じニュアンスをその言葉から見出してくれる人」を誘蛾灯のように待つタイプの人なので、「照れがあってセクシー」と「照れがなくてセクシー」と言ってる時では「照れ」の意味するところがそもそも実はまったく異なってるってことなのでしょう。たぶんセクシーな褒め言葉の意味での「照れが無い」っていうのは、恐らく「ケレンミがない」とかそこらへんと同じ意味合いなんじゃねえかなと思いました。今。じゃあつまり悪い意味で「照れがあって良くない」ってのはどういう意味かっていうと小細工とかハッタリが目に余るってことになるわけですね。さっきも使ってた言い回しになってくるんですけど、「照れ」と関係が深い要素として「誰にも頼まれていないのに勝手にやっている/誰かに頼まれたのでやらなくてはならない」ってのがすごく大事だなぁと思っていて、そのアウトプットする対象が前者後者を軸に考えた場合どれくらいの立ち位置ポジションでそのアウトプットを行っているかによって好意的に解釈できる「照れ」とマイナスに作用する「照れ」が全然変わってくるような気がする。卑近な例で言えば僕は今ブログエントリを書いてるわけですけれども、これは誰に頼まれるでもなく勝手に書いている。当たり前です。なのでここで「しかたねーなー」って感じの照れ方をするのは非常にうざったいなと思うので僕はいつでもノリノリで書くように心がけています。でも周りなんか見てると結構、「しかたねーなー」って照れをちらつかせてる文章って他の人のブログとか読んでても見かけるもんだ。個人的にはそういうの全然好きじゃないな、と思う。いや、「そんなんなら書かなくていいですよ」とか思ってしまう。確かにブログに限らず何かアウトプットするという行為は「アウトプットしなければ成立しない箱」という大枠の中で遂行されるものなので「しかたねーなーアウトプットしなくちゃならないならしてやってもいいけど」という態度を取ることは可能は可能なんだけれども、その箱に入ったのは自分の意思でしょ、じゃあグダグダ言ってるんじゃねえよ糞がみたいなことは思ってしまうんだよね。それが芸風だとしてもね。「芸風だ」というのもまたエクスキューズになって、なんつーか本音をごまかしてるような感じがイヤなのかもしれない。

逆に好意的に解釈できる照れには一体どんなものがあるだろうか。一番分かりやすくて一番僕がセクシーだと思う照れの種類で言えば、少し苦手なところに手を出す際にその人が見せるセクシーさは大変好きだ。例えば会話によるコミュニケーションであれば「話さなくてはならない」という箱、ブログであれば「書かなくてはならない」という箱があるわけだけれども、如何せんこの箱はでかすぎる。なので大抵の人間は無意識無意識のうちに手に余らない程度のちょうどいいサイズの箱を、その大きな箱の内部にマトリョーシカのように配置する。そしてその箱の中で箱の中の範囲でソツがないアウトプットをする。端的にそうした方がうまくいくからだ。これは別に例えばアニメの話しかしない、とかそういう分かりやすい箱じゃなくても良くて、「こういう切り口でしか語らない」もそうだし「こういう文法でしか書かない」とか、そういうの全部ひっくるめて自分の箱だと思うんだよね。誰しもがきっと本来的な自分の得意な箱というものは持っているはずだ、或いはべきなのだろう。で、そこからちょっと気まぐれに自分の箱から離れたところに出てくる他人ってのを見せてもらえる時が生きてるとたまにあって、そういう時は大抵の場合大変セクシーで素晴らしかったりする。ただそこで「しかたねーな」って感じが出るとイッキによくない「照れ」になってしまう可能性があるので、そういう可能性を排除するために嫌な感じなく「しかたねーな」を発動できるカネや勝手な期待などの外部からの圧力というやつは、実はそんなに悪いことばかりではないとも言える。そういう風に考えてくと、とりあえずは「照れ無く、ケレンミなくセクシーに表現できる自分の箱」というものをまず作って、かつその箱からもおっかなびっくりに出てこれる器量というか余裕というかがあって次に「セクシーな照れっぷり」も演出していくというのが上等な筋道のように思えてくる。このイメージに『地獄でなぜ悪い』を当てはめてみるならば、映画愛という今の園子温の箱にはとても入りきらないテーマを、本当は箱の外でやらなくてはならなかったはずのテーマを、「照れ」ゆえに自分の得意な箱に無理矢理押し込んでしまったから、なんだかイマイチテンション上がらなかったのかなーみたいな言い方はできるのかもしれない。

まー上記全部思いつきで、ここからかなり洗練させていかないとあんまり流用するのは難しそうだなーとは思うんだけど、この「照れ」と「セクシー」の関係っていうのは考えていくになかなかおもしれーんじゃねーかなーと思うし、自分がコミュニケーションをしたり文章を書いたりするうえで今その瞬間に自分の「照れ」がどういう風に機能しているのかを意識するってのはなかなか様々な上達を促進するような気がする。

あと「照れ」の発露の仕方も結構様々ありそうだから、そこらへんももうちょっと考えねばなるまい。たぶんだいぶザックリにいけば「過剰」により顕現される照れと「不足」により顕現される照れとの二種類があるんだろうね。その分け方をやっちゃうと何を分けてもその二種類にしかならねえだろって言われたらそれまでだろうって思うけど。俺はもうどこからどう見ても「過剰」で照れと遊ぶタイプの人間なので、「不足」から照れが見てとれるタイプの人が個人的な好みではあるよな。そっちはそっちで習得したいなとは思ってるんだけれども、もう無理だろうなとも思っている。あーんじゃ最初に宣言していた通り、グチャグチャですが、一回寝かせて色々蒸留させないことにはもうこれ以上書くことないんで。そんな感じで。またいつか。以上です。