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20140812

昨日の夜もなんかこう、自分の書く"型"みたいなもんが身についてくると自由に書けるかと思いきや逆に書くこと偏ってくるよねみたいな話をしてたんですけど、あーあれそういう話だったんだ、後半ずっとおちんちん弾いてただけだったじゃねえかって感じなんですけど。「文体を獲得した!」とか息巻いた直後にめっちゃしょうもないこと言ったら面白いんじゃないかなと思って軽い気持ちでおちんちんって言ったんですけど、結局その後最後までおちんちん言うてたもんね。ひどいね。そういう喋りやすい話、喋りにくい話っていうのが多分人それぞれあって、今日はちょっと苦手な方の話をしようかなと思う。死んでやっと話題にするっていうのも現金な話だなーと思うんですけれどもロビン・ウィリアムズがお亡くなりになられまして。

単純に普段ズイショさんあんま人物にクローズアップした話をしないよねみたいな自覚はあるんですけれども基本的に僕はこんな感じのおちゃらけた文章を書く人なので、あんまり誰かを好きって公言するのが苦手だなーみたいなんがあるんですよね。だって僕の好きってめちゃめちゃテキトーで、俺より好きでちゃんと詳しい人なんていくらでもいるだろうからそういう人らを差し置いて俺が断片的な記憶のアレコレを頼りにあーだこーだ言うのはおこがましいなみたいな、それで変に取り上げちゃって例えばロビン・ウィリアムズについて俺がブログの記事をしたためたとして、まぁ今からしたためるんですけどしたためたとして、今後ロビン・ウィリアムズで検索した人がちゃんとロビン・ウィリアムズのことがちゃんと好きで時系列順にちゃんと作品を把握してて彼の魅力をちゃんと喋れる人の記事に辿り着けず代わりにこんなわけわからんところに辿り着いて糞駄文読まされるはめになるとか考えるとちょっと申し訳ないよなーみたいなことが無くは無いんですよ。まぁ、うちのブログで一番検索流入多い記事は痔の話ですけどね。これはあんまり申し訳なく感じない、本当に当人が痔に困っていて有益な情報を掴みたいと願っていてあの記事に辿り着いちゃったんならそれはもうそいつが悪いですから、検索の才能無さすぎ。自業自得です。でもまぁ、あの記事はアレで24時間テレビで言うところのRUNNER的な効能を担ってますから。すべての痔患いにエールを、ってことですよ。そういう意味であんま気にしてないんですけど、こと人に関してでいうと苦手意識があります。まあどっちみち書くことは論じゃなくて感想文なんですけど、作品論書くのは抵抗ないけど作家論書くのは抵抗あるよね、みたいな、作品の感想文は今から見る人・今もう見てて人の感想が読みたい人だと思うんで、俺の感想文を面白がる人とか作品に触れるキッカケになる人もいるだろうと思えるんですけど、人の名前で検索する人ってのはたぶんその人のことをちゃんと知りたい人だろうから、俺の文章ではたぶんちゃんとは知れないだろうから申し訳ないみたいな意識が働くのかもしれない。とまぁそんな風に考える俺も、死んじゃったんなら何か書こうかなって思えちゃうのは、死んで彼は作品になったのだなんて言い方は大変気持ち悪いんですけれども、なんだかんだ死ってやつで一区切りついちゃってるのは誰がどうそんなことねぇって強弁したところで一区切りがついちゃうことは間違いないんだろうなと思って、

それは仕方のないことだけどとても悲しいことだよなぁ、と思う。

これみんなそうなのかな、俺だけなのか知らないですけれども、幼稚園・小学生にかけてまず洋画というものに慣れて洋画を普通に見れるような身体になるみたいなハードルありませんでした? あれ、書いててこれ一般的な話じゃないような気がしてきたけど、とりあえず俺なんかそういうのあって、たぶん小学一年生の時の俺にアルマゲドン観せても絶対途中で飽きて寝るか違うことするかだわーみたいな、単純に外人がなんかやってるのを観慣れてないから、まずそれに慣れなくちゃ、プール入る前にしっかり身体濡らさなきゃバシャバシャやらなきゃみたいなそういうのありませんでした? 俺よりちょっと下の世代とかになってくるとハリー・ポッターとかがそういうのになってくるのかなぁとか想像するんですけど、僕にとってロビン・ウィリアムズって役者さんはそのバシャバシャみたいな存在のひとつだったんだなぁと振り返るに思う。彼を知らない若い奴らに彼のことを説明するならば、何と言えばいいんだろう、おっさんが子供の頃はな、今でいう『ナイトミュージアム』くらいの頻度で『ジュマンジ』って映画が毎年毎年親の仇のように飽きもせず繰り返し繰り返しテレビ放映されていて、当時子供だったおっさんは毎年毎年慌てふためく白人のおっさんに飽きもせず大爆笑していて、そのおっさんがロビン・ウィリアムズなんだよ。ていうかよく考えたら『ナイトミュージアム』にもそのおっさん出てたよルーズベルト役で。ロビン・ウィリアムズっておっさんは、その他にも子供がゲラゲラ笑える映画にたくさん出ててだね、例えば中年のピーターパンが頑張る『フック』だとかねおっさんこの話をするとどう見てもティンカーベルって肩幅じゃねえだろつってジュリア・ロバーツいじる方に夢中になって話が長くなっちゃうからさっと流していくけどね、離婚されちゃった駄目なパパが大好きな子供に会いたい一心でババアの女装で家政婦として家族の中に潜り込む『ミセス・ダウト』、見た目は40歳で中身は10歳の逆コナンくんが主役の『ジャック』、面白かった。屈託ない動機で奮闘してけっ躓いてる一生懸命な人を見るとどうしてあんなに笑えて泣けるんだろうな。そういえば俺、先日まで厨二病を罹患していてディズニーなんて王道もんを素直に楽しもうと思える気持ちが芽生えたのがここ数年の話になるんだけれども、『アラジン』っていう映画あるじゃん。あれ最初に吹き替えで観た時にね、あのジーニーっていう青くてでかいランプの魔人がいるじゃないですか、それを山寺宏一っていう日本が世界に誇る天才声優が声を当ててたんだけどね俺いくらなんでもそりゃあお前ふざけすぎだろうと思って、変幻自在に画面狭しと跳ね回るジーニーがいくら無茶苦茶だからってお前それはふざけすぎだろと思ってたんだけど、吹き替えじゃない方を見たら英語版でも大体同じくらいふざけてたよ。日米ふざけ対決だよ。お前ら何なんだよと思って爆笑してたんだけど、あのジーニーの声もロビン・ウィリアムズのおっさんだったんだな。兎に角、人を退屈させないのが上手なおっさんだったんだなぁと思う。それを言い出しちゃえば俺が子供だった時代を全部ひっくるめて今考えりゃアッと言う間になっちゃうんだろうけれども、それでも、子供の頃に見たロビン・ウィリアムズの映画は面白くて本当にアッと言う間だった。

ところで人を退屈させないのが上手な人というやつは、マジメな話も案外得意だったりする。真面目で大切な話ってのは実のところ、退屈であることが大抵だからかな。高校一年生の時の担任の先生がまたエラい堅物で、話はつまらないし、すぐ怒るし、こっちの言い分を聞く気はないしで、男子は一致団結してその先生のことが大嫌いで、俺ももちろん先陣切って非協力的な態度を年間通して取り続けていたのだけれども、映画が趣味のその先生が授業の合間にするオススメ映画の話だけは少し好きでそいつが勧めた映画は大体TSUTAYAで借りて観ていたことは多分当時のクラスメイトの誰にも言ったことがなかったんじゃないだろうか。その流れの中で観た映画の一つに『いまを生きる』があった。つまらない教科書なんか破り捨ててしまえと笑い飛ばし、机の上に立ち上がり魂の自由を叫ぶロビン・ウィリアムズ、かっこよかったなぁ。この先生かっこいいなぁと思う一方で、担任の教師に対して「お前は全然こんなんじゃねえじゃねえかよ」と毒づいたりなんかもしていたけど、最後まで観てみれば自由でかっこよく居続けることはとんでもなく難しいことだけれどもそれでもかっこよく居続けようとせにゃならんのだって話だった。

『パッチ・アダムス』も『アンドリューNDR114』もすげえ面白い映画だったと記憶しているけれども、そんなに面白い映画だったのか詳細な記憶はあんまりない。やっぱり話自体は退屈な話だったんじゃないかなって気すらしてくる。それでも最後まで飽きることなく観れていて、笑うってことだとか命ってことだとか愛する人とずっと一緒にいたいと思うことだとかを考えた時にふっと頭をよぎる程度には自分の心に残っているっていうのはやっぱあのおっさんの功労に因るところがでかいんじゃねえかなと思う。

他人を羨んではいけないから、特に外面なんかを人と比べたっていいことなんて一つもないんだから、何より自分がまだ若い気でいるもんだから憧れるなんてことは無かったけれども、それにしても優しい顔のおっさんである。あんなに人懐っこい笑顔というものもそうなかなかお目にかかれるものではない。まぁ、あの人の柔らかい皺の蓄え方くらいはこれからの長い人生、参考にしたってバチは当たらないんじゃないだろうか。僕は実際のところ彼がどういう人なのかなんて全然知らないし、まぁ結構無茶苦茶な人らしいということくらいは聞き及んではいたけれども、結局のところ俺は誰かが書いた台本の通りに佇む彼を観ていただけに過ぎないのだから「まさかこんなことになるなんて」って言うのもおかしな話なのだけれども、それでもよりによってお前が自殺するのはあかんやろ、と思ってしまう。人を退屈させないのが得意な人っていうチャーミングなやつらは往々にして、そんなにあっけらかんとしたやつらじゃあないってことはいい加減分かりきっている。意外とどうでもいいところでグジグジしていて後ろ向きな奴らだってことは知っている。けれどもお前が自殺するのはあかんやろと勝手ながらに思ってしまう。さんざん人を笑わせて楽しませて、さんざん人の空元気を奮い立たせておいて、わざわざそんなことしなくたって向こうから迎えがやってくるようなジジイにまでなっておいて、それでもそうしなくちゃあならん時というのが不意にやってきたりするのかと思うとどうにもやりきれない。あの屈託のない笑顔は、実のところいつも誰かのための笑顔でほんとはそんなに笑えてはいなかったのかな、なんてそんなわけないことをぼんやりと考えてしまう。表現者、という言葉はなんだかチョイスがミスってるな、なんつーかな、他人のパトスをさんざっぱら震わせてきたすごいひとの自殺というやつはいくら出くわしてもどうにも慣れなくて、触れるたび、考えても仕方のないことを、グルグルグルグルと考えてしまうんだ。

同じこと考えてるやついっぱいいそうだけれどやっぱり俺も、追悼再鑑賞祭りでもしめやかに執り行おう。明日から盆で実家に帰らなくてはならんので、少し先の予定にはなってしまいそうだけれども、そういえば俺、観よう観ようと思って『グッドモーニング, ベトナム』だけ未だ観てないんだっけ。それも観よう。書いてて気付いたんだが、俺は思いの外ダメージを受けている。合掌。