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覆水盆に返らなさへの畏怖にも個人差があるのかな

レッテル貼りで人を判断してはいけないけれどもある程度効率的に人を判断していかなくてはとてもとてもやってられない一人一人にいちいち寄り添っていたらキリがないすごい解像度すごいビット数のこの美しい世界を生きるみなさんこんにちわ、すごい解像度すごいビット数のこの美しい世界に生きる俺こと僕です。

太っている人は優しい、痩せている人は神経質、なんて好い加減な判断基準をアテにして人を判断してるとろくなことにならないのは間違いないわけですけど、ある程度信用に値する分水嶺がもしあるならば積極的に使っていきたいなと思うのが人情なわけでそういう「こういう奴には気をつけろ」みたいなのいつでも探しているよ向いのホーム路地裏の窓こんなとこにいるはずもないのに。

最近なんか人と話してて「ん?」ってなることが多かったんだけど、世間話でも誰かの悩み事でもケーススタディでも何でもいいんですけどある会話の中で「もしもお前が当事者だったらどうする?」っていう質問が文脈上俺の中でちゃんと意味わかる時とまったく意味わからなくて何言ってんだこいつって思う時との2パターンに分かれるということに最近気付きました。

例えば先日から賑やかな佐村河内さん騒動とかがあったとして、その話をしてる時に「もしお前が佐村河内の立場だったらどうする?」っていう質問をされたんですよ。これがちょっと意味わからなくて。すごく素直な回答でいうと「僕はそういう佐村河内みたいな立場にならないよう頑張って生きてる」になるわけなんですけど、これが例えば「お前が佐村河内のCD販売してる会社の人だったどうする?」とかなら全然意味わかるんですよ。それは自分にも起こりうるんで。

別の例で言うと、誰かが浮気バレて修羅場になって客観的に見て既に詰んでるエピソードがあるとするじゃないですか、そういう時に「もしお前だったらこの状況でどうする?」って言われても「そうなるともうどうしようもないので、少なくともそういう浮気のやり方はしない」としか言えないわけですよ。それでも「いや、仮にしたとして、仮の話だよ」と言われるわけですけどそう言われたところで僕からすると「どうしようもないよね謝るしかないじゃん」って感じなんですけど、相手はこの回答もあんまりお気に召さないようで、「切り抜け方」を一緒に考えたいらしいんだけど俺その時点でとりあえず「もし自分だったら」って切り口で展開するその話にはすげぇ興味ないんすよね。「浮気された側だったらどうする?」とかだったらどうしよっかーって話も当然できると思うし、「なんでそんな無茶をしちゃったんだろうね」とやらかすに至った経緯を考える話とか、どう立ち回ってたらやらかしが露呈しなかっただろうねみたいな感想戦の話とかであればやらかした主体へアプローチする話題でも全然楽しく盛り上がれるんですけど「ここからどうする?」と言われても「は?」となる。

そんな感じでどうやら俺の無意識下で明確に区分されている2パターンの「お前ならどうする?」なんですけど、区分されてないやつもどうやら世の中にはいるらしい。この差はどこから来るんじゃほいと考えてたんですけど、もしかしてここの違和感共有できないやつは割と逃げた方が良いし仲良くならない方がいいのではという分水嶺になりうるぞという可能性に思い至りました。覆水盆に返らなさをナメているというか、自分の振る舞いが起こすバタフライエフェクトに鈍感というか、「為せば成る」で処理しようとする領域がやたら広いというか、なんかそういうヤバさを持ってる奴だからこそ出てくる発想なんじゃねぇかな、と。まぁ、まだあんま自分の中でもまとまってなくてうまく言えないんですけど俺の中ではとりあえず暫定的には「ここ違和感ない奴ヤバいのでは」という結論になりましたので、今後しばらくは事あるごとに「主に自分の悪手連発が原因で既に詰んでて正攻法で謝るか粛々と敗戦処理するしかない状況で、お前だったらどうする?」という質問を人にしまくってそこに違和感ないタイプの人の傾向をもう少し具体的に掴んでいきたいなと思います。以上です。