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顔が近い飛崎くんの話

上記のツイートを見かけてとりあえず「これ5パターンくらい突っ込み方ある気がする」ってつぶやいたんだけど、考えれば考えるほどたかだか100字ちょっとでこれめちゃめちゃ入り組んでるぞと思って。だからどこまでうまく喋れるかわからないけれどこれを見て思った全然関係ない話をします。

ゲイの人に対する「おいおい、俺にその気はないから勘弁してくれよ~w」みたいなからかいは残念ながらポピュラーなんですけど、たぶんそれに対する返しとしては「お前それ全員に言えよ」になると思うんですよね。「私は男性性が恋愛対象です」って表明した人に「俺はその気ないからw」って言うのが正常な感覚だと思うならすべてのノンケ女性(男性性が恋愛対象の人)に対しても面と向かって「君とならヤれる」「君とはヤれないな」って欠かさず言えよ、全員に言えよ、それでお前がどう思われるかは知ったこっちゃないけどそこまで徹底するならお前がゲイの人に言ったことも理に適ってるからOK、それでお前がどう思われるかは知らないけど、と鼻メガネで両手に天秤と剣を携えた僕は思うわけです。逆にそれが出来ないならばそんなことゲイの人にだって言うもんじゃないって話です。

ただ、そのあとに続く「女がノンケ男の性的な目線に対し気持ち悪い怖いと感じでそれを表明したとき」があると話が俄然ややこしなってきて、これはたぶん実際に性的な目線があった前提で話してると思うんですけど(そしてまぁ、そういう前提を前提として遣り繰りしていったほうが良さげだろうなとも思う)、じゃあここで取り上げられている「男から女に向けられる目線」と同質の「ゲイから男に向けられる目線」だった場合、話はどうなるんだろう。確かにそれに対して「お前それ全員に言えよ」はおかしい。お前が取り分けそういう視線を寄越してきたから言ったまでで、そういう視線を寄越してこない連中にまで同じように言う必要はない、となる。同様に「ゲイだって選ぶ権利ある」という返しも、男性が女性にそれ言っちゃダメなのと同じ理由でダメになる。ので、他にうまい返しを探さなくてはならないね、というのがツイートの内容なわけだけれども、ここで前提になっている「性的な目線」が間違いなかったのであればそれに対してうまい返しって在るのだろうか?要るのだろうか? これが男女間の話であれば、「そんな目線で見てはいけません」という話に終始すると思うのだけれども、ゲイとノンケ男性間になった時、違う展開を用意しておく必要はあるのだろうか? この一事を以って「ホモきもい」と一般化するのはあんまりだにしても彼の「キモい」は反論が待たれるべき性質のものなのだろうか。

確認しとかなくてはならないのは、俺は今回あんまりまるっと正しいことを喋っているかについてはちょっと怪しいですってことで、というのもこれはきっと自分の生理的嫌悪感をどういう風に飼ってやるか、どういう時に自分の生理的嫌悪感を表明していいものかみたいな話になってるのかなと思うんだけど、これってすごい難しい問題で生理的嫌悪感をうっかり表明するとエラい目に合いがちな世の中なわけですが常々思うのはそれは生理的嫌悪感を不用意に表明して無闇に他人を傷つけたり権利を侵害してしまうのが良くないだけで生理的嫌悪感を持つこと自体はある程度は仕方のないことだと僕は思うので問答無用にそれを「持つな」って考え方もどうかと思うし*1、他人を尊重するためにどこまでも無制限に自分の生理的嫌悪感を押さえつけなくちゃならんって話にはならんと思うわけです。真に互いに健やかな関係を探すならば生理的嫌悪感は生理的嫌悪感である程度尊重しなくちゃならんわけです、だから、気持ち悪いものは気持ち悪いんだから同性愛者はこっち来るなって意見は許されるべきだって話ではもちろんなくて、同性愛者にセックスを求められた時に応じる必要はもちろんないけど、その時に嫌悪感を表明しない優しさは素晴らしい優しさなのだろうけど、嫌悪感を表明することがそのまま杓子定規に悪だとするなら、それはそれでちょっとしんどそうだけど、それは人を好きになることは辛い結果になることもある範疇には収まらないのでしょうか、みたいな話になると思うんですよね。

ほら、もう怪しくない? だいぶ怪しいじゃん。

怪しくない言い方をすることは可能です。極端な話、沈黙しておけばいいので。ただ、いわゆるポリティカル・コレクトネスみたいなものが大事にされているわけですが、これが「腫れ物の正しい触り方」くらいの意味合いにしかならないのであればそれは長い目で見た時やっぱしんどいなと思うんです。だから、そうじゃない、「腫れ物の正しい触り方」にならないやつをちょっと考えてみようかなと思ったんですけど、なかなかどうして難しい。

以下は同性愛の話題からは全く離れた、人に生理的嫌悪感を抱いた話です。

小学校四年生の時に飛崎くんというクラスメイトがいて、それなりに気の良い奴ではあったんですが二学期の初めあたりからなんだかちょっと変な感じになって。というのも、飛崎くんのパーソナルスペースがめちゃめちゃ近かったんですよね。こっちが漫画読んだりなんかしてるともう本当に頬が当たるくらいの距離で覗き込んでくるんですよ。それで飛崎くんがいないところで「飛崎くん、近くね?」っていう話になったんです。近すぎて気持ち悪いなって感じる奴が多かったんですよ。でも、飛崎くんに「気持ち悪いからやめて」って言うのすごい難しかったんですよね。飛崎くんに悪気がないのも分かってたからなおさら、本人に言うべきことなのか分からなくて、「顔近いの気持ち悪いよね」って感じてる同士でそれを共有するだけに留まりました。まぁそのせいで、余計に変な感じになりましたけどね。飛崎くんのいないところで「今日も近かったな」って話すようになりました。それで飛崎くんに向かって直接的にどうするとかはなかったんですけど、やっぱ変な感じになって何となく疎遠になりましたけど。あれはちょっと今考えても、どうしたら良かったのかよく分からんのですよね。気持ち悪いと思うことをやめるのはちょっとできなかったですし、むしろ今でもそういうの僕は勘弁です。今は大人だし、誰に頭を押さえつけられることもなく自分の足で人付き合いしているので、必要であればそれで仲を違えたらそれまでよと本人にそのことを伝えるかもしれません。でもそれを当時することはやっぱり難しかった。

これに「陰口なんてやめて言えばよかったんだよ」って言うのはめちゃめちゃ簡単だと思うんですけど、そんなに簡単だったかなと考えるとよくわからない。人に面と向かって気持ち悪いというのはパワーが必要で(或いは鈍感力をマックスまで高める胆力が必要で)、ましてや相手の行動に悪意がないのであれば、まるで自分たちが悪者みたいじゃないか。むしろ悪者だという自覚を持っていたからこそ、陰口になっていたんじゃないかと思う。当時教えられていた価値観の中では、僕らの感じた嫌悪感は確実に「悪いもの」であった。この「悪いもの」っていう認識は別に「罪の意識に苛まされる」みたいなこっちゃなくて、「なんとなく怒られそうな気がする、俺らが悪者にされそうな気がする」くらいの感覚です。なのでやっぱ言うことはできなかったし、言えば俺らが先生に「仲良くしなさい」「それがどうしたの」と怒られていただろう。飛崎くんは「俺は悪くないのにあいつらが」と人に言うだろうし、人はそれをそのままに受け取るだろう。なんとなくそういう予感が僕らにはあったのだ。今になって思えばどちらが悪いという話でもない、お互いが気持ち良い距離感を探ればよかったただそれだけの話なのだけど、そういう中途半端な選択肢が頭もよぎらず「これを言うのは悪いことか否か」という二択に捕まった時に、人は過度に卑屈になったり過剰に自分を正当化しようとしたりしてしまうのだろう。

ガタガタゴーと話が脱線しているのだけれども、もうもともとのツイートの話は完全にどこかにいってるけれど僕が思い出したのはそんな話で、もちろん悪いものは悪い、人を不当に軽んじるのが良くない、のは当然のことなんだろうけど、それの反動として、大なり小なり傷つけて傷つけあってうまくいったりうまくいかなかったりする普通の営みまでもが何か一つのモノサシでどっちが悪くてどっちが悪くないという話になりがちになるのであれば、それは果たして望むところなのだろうか。以上です。

*1:我が子が同性愛者であることを受け入れられない親とか考えるとここも難しいんだけども。