←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

釣りタイトルで体罰に言及したところ見事蜂の巣になったので弁解します

こんばんわ。ヒレカツ弁当!うち中華料理屋ですよ!で油っこいユーモアをお届けしたその同月に体罰の話で蜂の巣にされる僕はこの消費社会の片隅で上手に踊れているのかしらと昨晩は満月を眺めてぼんやりと考えていた僕です。

それにつけてもこの世界では人目につかないところで暴力が今もまかり通ってしまっているという事実は本当に悲しいことだと思うので今回は追加エントリも書いてみようということに相成りました。

さて、とつぜんドパッとアクセスが飛んでくることにもいい加減慣れてきた僕なんですが、燃えたらそれについての追加エントリはやめておこうというのはこれまで何となく厳守してきた僕です。というのも僕はあくまでどうでもいいところをあーだこーだ言うことで、それによってどうでもよくない大事なところが少しでも良くなればいいなという思いがあるだけだからです。文章は死ぬまで連続的に書き続けない限りにおいて始まりがあって終わりがあるという構造上なんだか結論っぽいものが陽炎のように立ち現われてしまうのは仕方ないところではあるんですが、それも書き終えたその時その瞬間の暫定的なものであり自分自身それがベストとも一切思ってないですし「ごめん間違ってた」というのも全然ありです。それくらいのすごいゆるいノリで書きつづったものが俺ないし貴方の今後より一層ベターなご健勝への一助になればこれ幸いくらいにしか考えていない。少なくとも現段階の僕がブログに吐きだす文章についてはそれくらいのゆるい感じで特に差し支えないだろうと認識しております。

だからこそ追加エントリはなるべく書かないようにしたい。なぜなら賛否諸々の反響を受けてそれを踏まえて書いてしまいますと「お前らわかってねーな」「どうにかわからせてやろう」的な成分をどうしても含んでしまうのが残念な僕らの人情ですし、どうトリッキーに立ち回っても「前回の俺のエントリは正しい、あるいは間違っている」のどちらかに傾いた内容になってしまいますし、それはつまり「結論を急いで書く」ことにほかならず、僕はそういうスタンスで書くことを本意としないのです。とまぁ、それでも今回は追加エントリをどうにも書きたかったのでここまで自分で書いときゃ「わからせてやる!」みたいな前のめりのニュアンスも幾ばくかは自重するだろ、と自縛したところで弁解を始めたいと思います。

当たり前すぎて書くの忘れてたんですけど「体罰は単なる暴力だから問答無用で絶対駄目ですよ」という僕の基本となる考え方、考え方っていうか普通の常識ですけど、そこ僕の中で当たり前すぎてあんま強く書かなかったのが失敗だったんかなぁとは思います。

「暴力は駄目に決まっているだろ、何言ってるんだお前は」みたいなんがやっぱ多かったですけど、僕も「駄目に決まっている」とは思ってるんですけど、ここでいう「駄目に決まっている」というやつは暴力を行使した事実が露見した場合には相応の処罰が下って然るべきだという意味で、そういう意味では確かに現代社会でもある程度この論理が機能してるんだろうなってのは分かります。そしてそのことに満足して「もう結論出てるだろ」と考えている人たちには前回エントリは「今更何を混ぜっ返す気だ」と非常にハラワタ煮えくり甲斐があるものに見えたのかなというのも分かります。ただ僕らが望むべきは暴力はどんな場合でも認められるものではないという考え方が広く普及して暴力による解決を選択する人が極力少なく、また暴力を行使しようとする人間が出た場合できるだけ早い段階で関係者各位によって告発なり制御なりされる社会です。それを目指そうとした時「駄目に決まっている」って論理だけではこれ以上もうあんま役に立ってくれなさそうだな、というところが僕の気がかりです。現に今もしょっちゅうポコポコ起こってるからね。露見してないものもたくさんあるんだろうなと考えるとまだ体罰って現場では全然ポピュラーなんじゃねぇのかなと疑っちゃうわけです。

暴力を行使した人間を裁くロジックはもうある程度完成してるのかもしれません、ただそのロジックは事前防止策としてそこまで役に立ってないっぽいのが実感なのでもうちょっと何かないもんかな、ってのが僕が体罰問題についてあーだこーだ言いたいたった一つの理由で、要するにみんな殴られるのイヤじゃないの?ってだけの話なんですけど。「体罰ダメ絶対!あんなことするやつは馬鹿だ!裁け裁け!」という結論で安心して落ち着ける人の感覚がぶっちゃけ僕にはピンと来ない。もし自分や自分の家族が理不尽にぶん殴られたらどうしようという不安に思いを馳せた時、「加害者は必ず報いを受ける」なんてもんは御守り代わりにもなりゃしないのです。だってそれ殴られた後の話じゃん。

例えばいきなり知らん人に斬りかかられてあーもう俺死ぬなって時に「仇は絶対にとってやるから安心して死ね!」って言われても、いやまぁ仇は仇でとってくれて全然かまわないんだけどそんなんどうでもいいんだけどまだ死にたくなかったなって話だと思うんですよ。そこでもうちょっと何とかならなかったんですかねと喀血しながら聞いてみたら「いや~、廃刀令って法律は作ってみたんだけど結構まだいるんだよね刀持って歩いてる馬鹿。何はともあれ廃刀令破ったあいつは絶対に死刑にしてやるから、任せとけ!」て言われて僕はうわぁじゃあもういいっすわぁもうさっさと介錯してくださいって思うんですけどもう声が出ないしそもそも声掛けてくれた人も既に斬りつけた人追っかけて「待て~」とか言いながらどっかいっちゃったし、僕は独り只管にあーまだ死にたくなかったなぁて思いながらゆっくり死んでいくのでしょう。現状の体罰事件起こった時の体罰反対派のリアクションって僕にはそんな感じに見えるんです。

なので、それはヤダなと思って、「それでは死刑で!じゃあ結論出たし鳥貴族行っちゃう?」みたいなノリを混ぜっ返して「もうちょっと考えませんか」って言いたい僕だったんですけど、せっかくだし広く言いたいなと欲が出てそれなりのやり口を選択した自覚はもちろんありますので、そんな僕が蜂の巣にされるのはまぁ仕方なかったかなぁと思ってます。ご迷惑おかけしましたって気持ちもありますがワンチャン伝わらねぇかなと思って懲りずにこれ書いてる次第です。

まーでも「データ出せよ」は当然出てくる意見で正論ですしそれ言われたら僕は「ぐぬぬ」と言うほかないんですけど、そこで「データ?知るかそんなもん」つって理不尽に殴られてる人が今もこの世界のどこかにいっぱいいるのが現実であり本当の問題で、暴力の本質ってまさにそういう道理を抑え込むところにあると思うので、そこで自分たちができる立ち向かい方ってもうちょっと他に何かあるんじゃねぇかなぁということは今でも思っております。そのやり方の一つとして提案してみたのが、本当は間違ってたとしても「体罰にはメリットも一部ある」を一回嘘でもいいから認めちゃって「それでもリスクの方がでかいからやめよう」みたいな持ってき方はどうでしょう、という話でした。例えば乳児にどうしても唐揚げ食わせたい女性がいたとして(なんだその女)、「身体にも悪いし赤ちゃんだってそんなもの食べさせられていい迷惑だ絶対食わせるな馬鹿」って言うよりも「確かに君の作る唐揚げめっちゃおいしいし赤ちゃんも喜んで食べてるかもしれないけど、唐揚げは油が多いから体に悪いし我慢しよう」って言った方がうまくいくんじゃないかな、みたいな。嘘でもいいから「わかる!体罰に頼りたいお前の気持ちわかるよ!でもやめとこう!」と言ってしまうのは何かしらの敗北なのでしょうか。人によって大事なものは色々異なるとは思うんですけど、それで結果として殴られる人が減るのであれば僕はそれくらい全然別にどうってことないんですけどね。

馬鹿だ非常識だ犯罪者だありえない考えられないと断絶して突っぱねるのは簡単ですけど、そこで「それでもとりあえず相手の気持ちになって考えてみる」ってコストをケチった皺寄せは結局どっかにはいくんですよ。口のまわり油まみれの赤ちゃんとか、とりわけそういう自衛もろくすっぽできない弱いところに収まりがちなのが僕にはほんと我慢ならないんですけど。以上です。