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拝啓、松本人志様

私は1986年生まれ、いまは37歳です。そこらへんにいる一般人です。

大阪の育ちじゃないし、4時ですよーだも知らないし、ど真ん中ではないのかもしれません、あなたの若い時の苦楽を本当に知る年代からは少し遠いかもしれない。それでも間違いなくダウンタウン世代だという自負はあります。

僕はもともと気の弱い子どもでした。いつも人の顔色をうかがっている子どもでした。今もそういうところは抜けきりませんが、まぁなんとかちゃんとした大人をやっています。

子どものころは自分が戦える武器が何も見つからないから、人の顔色をうかがってヘラヘラしていました。声の大きな奴らの後をついていくくらいしか出来ませんでした。

そんな中で松本人志と出会いました。これは僕にとって、とんでもないことでした。

親が家を買ったとかなんとかで僕は当時いじめられてた小学校を脱出して転校して、次の小学校に向かいました。そこで僕はキャラ変を決行していじめられっ子を卒業しようと試みました。にこにこと相槌を打つことに徹するのをやめて、ぼそっと面白いことを言うことで自分の場所を作ろうとしました。それはうまくいったところもあればそうでもないところもありました。しかし、松本人志の真似をすることが、たしかにその時の僕の生存戦略でした。とにかく足が速い男子と人の頭を叩くことに抵抗がない男子と声がでかい男子が強すぎる当時のクラス内カースト制度において、少なくとも僕にとってダウンタウンが提示した価値観は希望でした。

本当はクラスメイトのみんなが言ってること彼らの感覚が正しいと思えなかったくせに、ヘラヘラしてるしかできなかった僕を奮い立たせてくれたのが貴方です。率直に言って僕は貴方から勇気をもらいました。その時の勇気が曳いた道の先に今の僕がいます、これは信奉ではなく、否定できないということです。ぼそぼそと伏し目がちに喋っておきながら人の羨望と理解(のようなもの)をかっさらう貴方はそりゃあもう、かっこよかったし、俺もそうなりたいと思ったもんです。

なりたいなんて生ぬるい感じじゃなくて、目指しました。

今となっては貴方なんか目指すほどのものなのかはさっぱりわかりませんが、俺はあの時、貴方のようになりたかった。いじめられないためにいじめる側に回りたいみたいな、そんな回りくどい話じゃなく、俺にとってあの時の貴方は、クラスのすみっこにいるイケてないやつがクラスの真ん中をかっさらう方法を作り出して実践したヒーローだった。自分が真ん中だと声高に主張するやつらに食って掛かるヒーローでした。

そんな簡単に同じようにはなれないからいっぱい僕はミスを犯しました。あなたの真似をして人に好かれたり嫌われたり、それは一時的なもんだったりずっと尾を引いたり。まぁ全部自業自得だからいいんですけど。松本人志なんかに俺はなれないという当たり前のことを憧れながら受け入れていったのが俺の十代だったのかもしれない。二十代以降は適切な距離感を覚えて尊敬できる部分できない部分がめちゃめちゃありましたが。

こんな言い方をするとびっくりする人もいるかもしれないが、人との繋がり方を俺に教えてくれたのは松本人志かもしれない。失敗してもいいんだ、分かり合えなくてもいいんだ、嫌われたら嫌われたでいい、そんなもん知ったこっちゃなくて俺は俺でいたいんだ、そんなことを教えてくれた人たちのなかの1人が俺の中では松本人志なのだ。2024年に書くととても虚しいし、良くないことを書いてる感じがしますね。でも本当に、この一連の文章は擁護じゃなくて「松ちゃん悪くないよ」って話じゃなくて、そんな松本人志に救われたかつての俺が今も俺の中にいるのをちゃんと殺そうっていう、セルフ殺害&供養なのかなぁ。かつて憧れていた俺は殺さなくていいけど、憧れ故に今も擁護したい俺がいるならそいつは殺して墓を立てた方がいい。

 

松本人志はいつも寂しそうなやつだった。そして、それは俺の寂しさをいつも救ってくれた。とっくの昔から老害っぽくなっちゃったなと思ってたし、大人になった自分から見たら随分ろくなやつじゃないことなんかわかってるし、件の一連の報道はなかなか擁護のしようがないこともわかりきっている。しかしその一方でかつて俺は松本人志に救われたことがある、その思い出だけが俺の視界をぶんぶんと飛びまわる蝿のように鬱陶しくまとわりついている。蝿ってたまに見るとすごい複眼でびっくりする。複眼を俺が見る時に複眼だと認識できることにびっくりする。蝿の複眼を見る時だけ俺の視力が上がってるんじゃないかなと思う。

 

チキンライスを聴いたのがよくなかったな。今聴いたらどんな気持ちになるかな思って聴いたんだけど、あれはあれで紛れもない本心なのだろうと思ったらダメになってしまった。どうしてこんなことになっちゃったんだろなんて言うつもりは全くない。すべてはほとんど必然の結果の今なんだろう。そこには憤りらしいものは何もなく、ただ置いてけぼりにされたような子どもの頃の僕がいる。冷静に報道を見る俺の脇目に、体育座りしているそいつがいた。だからやっぱりこれは供養だ。当時の俺を救った松本人志の気高さと優しさと寂しさを俺は忘れない。そして、そういうものが何かに飲み込まれて、とても残念に陳腐化して人を傷つけまくっていたんだということを自戒を込めて忘れないくらいしかできない。

 

以上です。

松本人志の一連の文春報道についてのサンジャポ太田の言葉雑感

www.oricon.co.jp

 

一連の報道のこれまでの経緯や、それを取り巻くネット世論の整理などは割愛する。

 

テレビやネットやでの一連の報道に関する芸人やタレントのコメントは忖度が過ぎると眉を顰めたくなるものも多い。「文春側が言ってるだけだから」「本当のところはわからない」「裁判を見守るしか」等等。

これらのコメントがなぜ訝しく感じられるかというと、偏に誰もが「週刊文春の報道に対してのコメント」に留めていながら明らかに誰もが松本人志により親しい人間であることに依るだろう。明らかに松本人志と強い利害関係を持ちながら報道に対しての中立を装うのであれば、最早それは中立とは言い難い。その姿勢を「逃げている」と揶揄されるのはやむを得ない。

一方で今回の太田光は「報道に対するコメント」ではなく「報道の渦中にある双方の当事者に向けた言葉」である点が大きく異なるように感じた。また、双方に対するそれぞれのコメントに強く感じたのは現在の状況に対してのエールや寄り添いであるのと同時に、未来に対してのエールや寄り添いでもあるという点だ。

文春を通して告発した女性ら(あるいはその背後にいるさらに多くの性被害経験のある人々)へは、過激松本擁護派のネットバッシングを念頭において、告発をすること訴えることの困難さ、困難さゆえに躊躇してしまう自身への自責心について触れながら、理不尽と感じたことを理不尽だと思うことは悪いことではない、自分の感じた思いを他人から否定されてもあなたは間違ってないから自分を責めないでというような内容に受け止めた。そしてこれは、現在の状況を受けての言葉でありながら、この騒動がどのような形で決着を見せるにせよ、それが当人にとって納得し難い形になったとしても何も変わらない、どんな形になったとしてもあなたは悪くないし自分を責めないでという未来に対するメッセージであるようにも感じた。

一方で松本人志に対しても同様の視点から現在と未来への言葉を投げかけていたように感じられた。まず現在については、松本人志はどうあれ告発された時点でどうしたって窮地に追い込まれている。恐らく苦しい心境だろうという前提から話を切り出す。(自業自得だとか、いや人を舐め腐って大して慌ててもないだろうとか、色々な意見はあるだろうが割愛)今回の報道が世に出たことを「賽の目は投げられた」と形容するのはあんまりよくないのかもしれない(なぜなら当事者双にとっての事実はそれぞれにとって既に存在している)があえてそう形容するならば松本の側は賽の目が確定するまでもなく圧倒的に負けている(自業自得という声以下割愛)。その既に負けている現状への松本人志への太田なりのエールはああなるのだろうという印象を受けた。では、太田が松本人志の未来へ向けた言葉とはなにか、それはとても切実で真摯で厳しいエールだと感じた。

この騒動はなんらくの決着を得るだろう。しかし、それがどのような結果であれ賽の目が投げられた時点でどんな賽の目が出ようとも一度転がり落ちるしかないのだ。示談が成立しようと、文春から勝訴を勝ち取ろうとも、それを勝った許されたと勘違いしてはならない。結果そのものへの不服の声は当然上がるだろうし、そもそも世論の争点は加害性の有無にもともと留まってもいない、そこでどんな決着が出ようとも全ては以前とは変わってしまったのだ。一方でテレビでは「よかったよかった松本さんおかえり」とみんなが歓迎するだろう。前者の声に耳を塞ぎ、後者の声だけを頼りにもう一度玉座に座った時に松本人志は真の裸の王様となるだろう。そうはなってくれるな、お笑いでいるのなら間違えずに一度ちゃんと転がり落ちてくれ。そんな風に俺には聞こえた。

以上です。

「災害時はSNS見るな」でもうよくないか?

正直なところ20代半ばのまだ色んなことなんもわからん時分に起こった3・11の時はSNSというかTwitterは頼もしかった。マスメディアは頼りないし遅いし、本当に大衆は無力でしかなかった阪神淡路大震災の時の経験を発信する人とか、避難先が見つからない人はここに来てくれって東京にねぐらを構える人とか、あと何よりリアルタイムで誰かが大変な目にあっているっていう情報を摂取しようと思えばいくらでも摂取できてしまうYou Tubeやらニコニコやらが存在するなかでの災害が初めての経験で、それに対抗するためには生きた人の祈りを聞くくらいしかなかった。あの時もデマとか負の側面とか功罪はいくらでもあったんだけど、でもやっぱりトータルで見ると「あってよかったSNS」感が3・11のときにはあった気がする。これもまぁ、その当時を知るおっさんの言い訳ではある。

 

が、あの時の成功体験(?)をいつまでも引きずって災害が起こるたびに善意の注意喚起をしていいことしてる気になってみたいなの、もういい加減やめないか?お前らだるいって、みたいな気持ちがこの度ピークになっている。

 

マジで気持ち悪いんだよどいつもこいつも。善意で発信する善人ぶって気持ちよくなりやがってよ。被災者の心境に心を痛めるみたいなエクスキューズさえしておけば「大仏建てろ、元号変えよう、遷都しよ」みたいな手垢のついたクソつまんねえネットミームを災害発生後の数時間後に発信してそれで真剣に対岸の火事の被災に心を痛めてると思ってもらえて許されてると思ってるのか、それがお前の「祈り」のやり方だとしたらまじクソダサいからな。ダサいっていうか邪魔。俺はそういう奴らは善人じゃない承認欲求を満たすのが上手なだけの邪悪なカスですと言い続けることでしょう。

お前らの「被災者に届いてほしいから」みたいなていで発信してる情報、どうせ被災者に届かないの知ってるだろ、フォロワーにいい人ぶってもらいたくて発してるんだろ、邪魔なんだよ。

もともと悪意しかないデマ流したりの連中はもういいよ、馬鹿なんだから、話が通じない畜生と同じなんだから、それに抵抗してるつもりなのか知らないけど「デマに注意!」とか言ってるやつらも全然いいことしてないから。なに?「私の発する情報はデマじゃないですよ」アピール?お前の口から出る言葉がデマでもデマじゃなくていいからそもそも喋るな、邪魔なんだよ。

お前の熱心な気持ちなんかなんも役にも立たないから要らない。そして、そういうやつらの、そんなん被災者に届くわけないだろSNSなんか見てる余裕あるわけないやろみたいな被災時トリビアの絵とかを描いてるやつらをリツイート?リポスト?してるやつらも全員同じでお前らなんもアクションするな、できることをやろうとするなそれは自己満足だ、邪魔邪魔、要らんできることやらんとちゃんと無力を噛みしめろ。SNSでアクションしないで、ただ孤独に独りで天に祈れ、宗教ってもともとそういうもんだっただろ。安易に外に働きかけられるSNSのせいでお前らおかしくなってる。SNSなんざ神と自分の一対一の対話という孤独を忘れられるぶんよっぽど孤独で邪悪で嘘っぱちなジェネリック宗教なんだよ。

被災地いる政治家やらYouTuberがすでに馬鹿にされてるし、これからまた千羽鶴を届けるだのいらない古着を届けるだの、そういうだるい話をみんなSNSでするんだろう。いやでも、SNSでピーチクパーチクやってるのも、もはや千羽鶴とか古着とかとそんな大差ないからね。心を痛めてるなにかしてやりたいお前らの気持ちが悪いもんだと思わないけど、俺たち決定的に頭が悪い。他人のために心を痛めてるはずなのに自分の心のために行動して要らんことしよる。心は悪くないけど、頭が悪い、それが人間だ。仕方ないからせいいっぱいの心ので我慢しよう。

拡散する前によく情報を精査して考えようとかじゃなくて、ほんともうSNSなんかしなくていいんだって、千羽鶴や古着を届けなくていいように、SNSでお気持ちを発信しなくていいし、注意喚起もしなくていいし、せいぜい馬鹿しかいないSNSを見ないのが一番良いよってくらいでいい。

お前らがSNSなんかやったところでソムリエ感覚でどこどこのテレビ局の対応が素晴らしかったとか、そんなことしか言えないんだから。被災直後の真っ只中そんなん要らないんだって、ちょっと考えたらわかるだろそんなこと。

紅白のけん玉チャレンジの延長戦みたいなノリで被災者を心配してるTwitterのノリまじでカスだった。楽しかったねぇ、よかったねぇ!

ファンを多く抱える著名人の場合は、直接の被災者じゃなくても誰かの心を落ち着けられるメッセージを発信できるかもしれないからまぁいいのかなと思うけど「また震度7!」→「誤報だったようです」みたいなポストするようならもうSNSやんなって。邪魔邪魔!

 

こういうこと言ってたらたぶん「やらない善よりやる偽善」って言葉を盾にしたりとか、注意喚起や呼びかけやをしないよりした方がいいよってアフロ田中の火事の画像貼りたくなったりとか、色々あるんだろうけどさ。言い訳の仕方とかは色々いくらでも思いつくんだやうけど。俺は自分のアドレナリンとか不安解消とか承認欲求のためにSNSやるのもう本当によくないか?って思う。

 

こんなことをブログに書いてTwitterにポストして、お前も同じことやってるじゃねえかおかしいじゃねえか、矛盾してんじゃねえか、たぶんそう思う人もいるだろうが、そんなことわかってんだよクソが。天に祈るのも意味がなくてつまんねえし、SNSで馬鹿と喧嘩するのもつまんねえ、そこにあるのは俺の無力しかそこになく手を合わせながら唾を吐くくらいしかやることがねえ、クソが。同じ穴のムジナだよ、そんなことわかってる。じゃあ、穴の中にいようよ、同じ穴の中で不安や悲しみを寄り添って分け合おう、表になんか本当はでなくていいし、表に出ないと自分の感情をどうにかできないなんてとっても哀れで申し訳ないと思う。災害時はSNS見るなでもうよくないか?災害時は一生懸命な人は誰も見てない、馬鹿しかいない、誰もそんな馬鹿の話は聴いていない、そんなSNSが理想じゃないだろうか。

 

以上です。