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6歳とのモノポリー初プレイ感想文

今年の春から小学生になる6歳の息子とは、彼が3歳くらいの頃から段階を追って出来そうなボードゲームを選んで色々一緒に遊んできた。

で、何か喋るとなんでなんで攻撃やどういう意味どういう意味攻撃を受けるのがめんどくさい年齢になってきたので国語辞典を買い与えたりなどのついでにそろそろできるかなとモノポリーも買ってみた。「なんか面白いらしい」「お金の勉強になるらしい」「キャッチコピーは糸井重里が考えた天使と悪魔が徹夜する」くらいの情報しかなくて、つまり俺も未プレイ。何が「そろそろできるかな」なんだ、それを今日息子と2人で初プレイしてみた感想文です。

モノポリーをやったことない人には全く不親切な、ルール説明皆無でいきます。

 

結論から言うと最後には俺が勝った。

これがモノポリーの常なのかは知らんが、表面的なルールしか知らない未経験プレイヤー2人だと最後は必然「相手を一撃でぶっ殺すために自分の現金をギリギリまで削ってでも相手が踏んだら殺せるマスを増やす」に辿り着く。最後どっちが勝つかは結局サイコロの目次第。

だって説明書に「自分以外を破産させたら勝ち」って書いてるんだから、そりゃそうなる。チマチマ2人で1時間半くらいプレイしてて「これ終わらなくね?」ってなって、これは独占を相手に渡してでも自分の独占エリアを作って、そこにバリバリ家を建てて相手が踏んだら殺せるゾーンの攻撃力を強化するしかない。そこになけなしの現金をぶっ込むんだから当然こっちの防御力も落ちる。向こうも当然取るべき行動は同じになる。そうしてお互い耐久力ゴミカスの紙装甲で火力全ぶっぱの最終局面になる。それで最後はサイコロの出目で息子が地雷を踏んで俺が勝った。

決着までかかった時間はおよそ2時間。チマチマお互いでレンタル料のやりとりをした末の決着だ。22ドル請求する時に52ドル渡すから30ドル返せとか、大きな数字の暗算を勉強できたっていう意味ではまあ割と有意義な時間だったかなと父親としては思う。が、息子にとっては2時間の熱戦の最後が完膚なきまでにボコボコにされる展開は耐えられなかったらしい。何も俺が意地悪でボコボコにしてるわけではなく、お互いのホテル乱立地帯をどっちかが大きい出目を出せずに踏み入ってしまったらとんでもないレンタル料を請求されて自分の頑張って積み上げてきた銃火器を全部売却させられるだけの話。

息子は過去ズイショ家ボードゲームのレコードを大きく塗り替えるとんでもないギャン泣き。いや悲しいと思うよ、2時間くらいプレイした結末が見るも無惨な大敗なんだから。近隣に虐待の疑いで通報されないか心配なくらいギャン泣きしていた。インフレしたレンタル料の返済をするため、俺を殺すために育ててきた自分の地雷ゾーンのホテルや家を葉を食いしばりながら売却していく彼の姿は実にかっこよかったし、俺もそんな姿を示す覚悟はできていたのだがサイコロの出目の気分で俺が勝ってしまってすまんな、とも思った。長い時間かけて仕掛けた自分の戦略が瓦解したら悲しいし悔しいよな、まあ人生そういうこともあるさ、マジで、と37歳の色々経験したお父さんも思う。

 

しかし、大味な結末しか待っていないのに、それですごく喜んだり悔しがったりする気分にさせるためにチマチマやらせるよくできたゲームだと思う。序盤中盤サイコロの出目に振り回されながらなんとかやりくりして資産を形成して、どうせ最後は運否天賦。そりゃ盛り上がるかもしれないけど、それなら最初から甲子園の延長戦みたいなサドンデス形式でええやんと思って、俺はあんまり好きなゲームではなかった。上級者6人とかでやるとまた全然違うんだろうか、何せ未プレイ同士で相手は6歳で一回プレイしただけでよくわからん。

なんかモノポリーの奥深さがわかるネット記事やYouTubeを知ってる人がいたら是非教えてください。

 

なお、モノポリーと一緒に買ったカタンは、妻も合わせて3人プレイだと実質2対1で常に俺の敷地に盗賊がいるのでバランスが良い。モノポリーはその形でやってバランスが良くなるのかはよくわかんない。

 

あんま面白くて複雑なゲームには思えず、これおもろい言うてるやつら全員賭けてるやろ、くらいの感覚である。

 

以上です。

2023年暫定賛歌

2022年の暫定賛歌は読み返してないまま書き始めてるけど、たぶん去年は苦しい苦しいと書いてたように記憶している。

2023年も概ね苦しい一年だったが、わかりやすく環境を変える形で好転に持っていって年を終えることができそうだ。2024年がどういう年になるかは俺の頑張りと俺の環境次第だが、去年の12月よりはだいぶ見通しが良く、雲は薄く遠くまで見渡せる。ワクワクできているってことはそういうことだ。

過去の自分に多く助けられたなと思う一年だった。

今年は、社会の価値観に照らし合わせて自分の価値が減っただの増えただのってのはよく考えていた一年だった。一喜一憂とか躁鬱が激しかった。その一方で、ズイショというよくわからないやつを頼もしく思ってくれる人たちとの交流は本当に俺の支えになった。俺の背骨になっていた。並んだ人みんなに頸椎一個ずつあげるわー、サイン入りで。

現実の俺が落ち込んでて、虚構としてのズイショを慕ってくれてるかわかんないけどまあズイショを認識してくれてる人の存在は本当にありがたくて、そういうのを俺は謙虚ぶって「俺は今、貯金を切り崩してるんだな」と考えていた。

けど、たぶんそれはおかしくて、別に切り崩しちゃいなかった。減った分を補ってもらえた感覚があるのでそんな言い方になるけど、俺がズイショとしてそこにいる時はただそこにいるだけで、増えても減ってもいなかった。そして、その感覚に俺は心底助けられた。

助けてくれた人たちを100だの1000だの数値をつけて感謝の意を伝えることは簡単なのだけど、俺は今の俺を1としようと思う。つまりみなさんの助けに支えられてる俺も含めてのニュートラルってことだ。まあ生活があって仕事があって、そこでは成果も求められるし何なりやっていく必要がある。一方でズイショとして或いはプライベートで人との付き合いがあって離れた人もいればそうでない人もいる。それ全部含めて俺なのだ、1なのだ。なんもなくなって1からやり直しだ!じゃなくて、たくさん受け取って今あるこの俺こそが1なのだ。37年生きておいて今更0なんだと言い張るのは無理があるし、100点満点だか1000点満点だか点数なんてつけれない、俺はただの1だけどその中に全部が入ってる。人に助けられていじめられて、俺という1がいる。その1に何が詰まってるかは俺だけが知っている。お前らなんざにわかってたまるか。それでいいんじゃないかと思ってる。

ドラえもんのび太の孫の孫だかのセワシによって未来からやってきた。そしてのび太の人生は好転する。しかし、俺はそんなもの嘘っぱちだと思う。本当の助けは過去からやってくる。俺が昔言ってたことや、俺が昔何かを預けた人や、俺が昔から憧れていたものや、俺を昔のままだと思ってくれてる人や、そういうものたちのおかげで俺は立っていられる。ちょっとこの段落、中島みゆきの別れ歌っぽくない?

 

今最新のトレンドを取り入れた俺なんか嘘っぱちで、俺は過去の俺を支えにするしか寄る辺がない。そして、それを積み重ねとなんか呼びたくない。1なのだ、全部ひっくるめて所詮は1なのだ。クロマニヨンズの歌で「私の一部が恥部じゃない、私は全部恥部なんだ」って歌詞があるんですけど、もしかするとそれがちょっとわかったかもしれない。

どうせなら、自分を愛して、世界を愛したまま死にたい。あまりに道半ばだけど、なんだかできるような気がする。一人ではできない気がするし、結局最期は一人ぼっちな気もする、だけどできるような気だけしている。死ぬ間際、あなたの顔を思い出す準備はできている。

 

それではみなさん、良い年末を。

 

以上です。

ブログ飽きた理由

俺は日記とか一切書かない人間で基本的に他の人に読まれることがない文章なんぞ書く必要が俺にはないと思っている。なので、ブログという他人に読まれる可能性があるから書く理由が存在する場所というのはもともと居心地のいい場所だった。俺はヘンリー・ダーガーのような人間に憧れはするものの決してそうはなれない性根であることをいい加減自分でわかりきってるから、恥ずかしげもなく言う。俺は俺が読んでほしい人、俺みたいなやつの文章を読んでくれる人がいないと何も書かん。書く以外のこと全般に関してもそうだ、俺は他人が介在しないと無限になんもしない自信がある。

話をブログに戻そう、どうせ書くなら目的や理想や希望は持っておきたい。読んでくれる人がいるから初めて書く俺みたいなやつの場合その目的設定は案外簡単だった。それは読んだ人が「あ、このままでいいんだ」と思ってくれたらそれでいいや、ということだ。なんとなく言ってはいけないこと、周りのみんなの当たり前に合わせなくてはならないこと、つまんないけど念のため笑っとくこと、なんだか納得できない日常会話の様式、他人を軽んじてる他人から容易くぶつけられる理不尽、そういうの全部めんどくせえってブチギレたりクダ巻いたりの牛の小便みたいな文章を垂れ流して、それを読んだどっかの誰かが「やっぱそうだよな、私間違ってないよな、だってこの人もこんなわーわー言ってるし、このままでいいんだ」って思ってくれるなら、それでいいやと思って書いてた。

んだけど、いつくらいからかな、なんか世の中の空気だかネットの空気が変わってきて飽きた。飽きたな。今でもやろうと思えば、打率はわからんけど、たぶんゴリゴリにキャッチーなパンチラインでみんなが喜ぶ物申す、やろうと思えば別にまだできるんだと思う。でももうなんか嫌だなと思って。俺は誰かに御守りを配れたらいいかな、配るは烏滸がましいか、誰かの御守りになったらいいかなくらいの感じで、その誰かに届く過程で批判に晒されてボコボコにされるのはもう慣れてるし別に全然いいんだけど、それは慣れてるけどもう飽きちゃってそういうことやるのめんどくさいなーとなったのは、俺がどんだけ「こういうふうに考えれば俺たちまだまだやっていけるぜ」の気持ちでなにか言ったところでそれが運良く広く読まれたときに届く先としては御守りにしてくれるやつより他人を殴る棍棒として活用するやつの方がネットで可視化される量としては多いでしょどうせ。「いや、サイレントマジョリティがね」みたいな綺麗事もどうでもいいレベルで、なんか誰かの溜飲が下がることを言ってどこぞの馬鹿が自分を正当化する道具だとか他人を否定する道具だとかに使って、そういう今のインターネットっぽいものに加担するのがだるい。だからまぁ、たまに今みたいな感じでテキトーにブログ書いたりはするんだけど、飽きたというか期待してないな。これはとても悲しいことだ、期待してない。期待はしたかったけどもうできない。

 

俺がブログ書き始めたのがだいたい10年前くらいかな、その頃はたくさんいたんだよ、世の中のいろんな人達がその場では言い返せなかったし家に持ち帰ってもどう言い返せばよかったかうまく考えがまとまらないって悩んでるモヤモヤしたことを言語化して、そんでちょっと感謝されてみたいな芸風の人たちたくさんいたんだ、まぁだいたいみんな色々なそれぞれのポリシーと複合的だからわかりにくかったけど、優しい人とまでは言わないけど悪い人たちではなかったなと思う、概ね。で、今もうなんも書いてない人もいれば書いてる人たちもいる。みんな好きにすりゃいいんだけどさ、そういう芸風はもうそんなピュアにできる世の中じゃなくなってるんだって、今のインターネット。とかは思ってて。俺はもう、ちょっとできないな嫌だなと思ってて、なにかを言語化して一般化するような書き方が誰かの慰めになるよりどうせ殴り合いの道具にしかならないことなんて、ずっとそういうこと書いてきてたんだから気づいてないわけないでしょと俺以外の人たちに対しても思ってるし、そこは見て見ぬふりして素朴ないちブロガーの素朴のいち意見ですのていでなんか書くのちょっと俺はもう嫌だなと思っているんだなということが最近わかった。全部のことに全部気づくことなんてできっこないけど、少なくとも確実に気づいているなにかを透明にしているのをわかってるくせに透明にしたまま文章垂れ流してやっぱりいい人ですねなんて思われたかない。

これからも餓鬼道から来たんか言うくらいみみっちい人間なりに「隣人を愛せよ」を無理からでも目指して生きたいなと思ってるけど、それを実践する場としてのインターネットがかつてあって俺はそれにずいぶん勉強させてもらったが、もう今のインターネットはそうではないから、他の場で「隣人を愛せよ」を実践する。そこは変わらない。変わらないんだ。なんか良い場があったら教えてください。

 

メリークリスマス!!(あかん、こいつ最悪や)