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キングオブコント2021感想文

M-1は毎年熱心な熱量で見てるんだけど、キングオブコントって近年はほとんど見てなくて。

まあ、なんでかっていうと理由は自分の中で大きく二つあるかなぁと思っていて、一つが審査員が少ない上に微妙ってのがあって。去年までの審査員だと、M-1が「その年の若手漫才師頂上決戦」であるのに対して、キングオブコントは「松ちゃんとバナナマンとさま〜ずに誰が気に入られるで賞」みたいなところがあって、まあなんというか「さあ、誰が勝つんだ!?」というワクワク感が無かったし、現にキングオブコントを発破にして大ブレイクしている奴らあんまりいないよね問題というのがどうしてもあって、どうも熱っぽく見る気持ちが起きないなぁみたいなところがあって、熱っぽく見れないくらいならまるっきり見ない、という状態がここ数年は続いていた。

で、今年は審査員が刷新されるよという触れ込みがあったので、じゃあちょっと見てみようかなぁと、どのみちリアルタイムでは見なかったのだが久方ぶりに録画して見てみたのであった。

結果としては面白かった。まあ面白かったねえ。少なくともちゃんと楽しく笑えるネタ番組だったね、と断言して言い切れるレベルには面白かった。

 

僕がキングオブコントから疎遠になった理由としてもう一つ大きくあったのが、世の中のポリコレ的な流れとうまくやれてない演者が多いのが「あまり面白くないな」と思うのがあった。たぶんシソンヌあたりが常連の頃だったイメージなのだけど、一時期のキングオブコントって、とりあえず世の中的にはごくごくわずかに存在する笑いたくなっちゃうような変な人を演じて見せたりとか、そういう人を「気持ち悪ぃな!」て突っ込んだりだとか、更にそういうやり取りの中で「自分とは違う人たち」を攻撃的に揶揄して同志の笑いを誘うみたいな、そういうタイプの笑いがやたらに多かったような記憶がある。それは、ある種のマイノリティへの賛歌ではあるのかもしれないが、誰かに反旗を翻すことで初めて賛歌として成立するような、そういう構造のネタが多かった気がする。

お笑いの文脈でこういうことを言うと「ポリコレクソ喰らえ」とか「ポリコレ戦士のジャッジがなんぼのもんじゃい」という反論もよくあるし、その反論の結論は「お笑いをポリコレで判断するな、そんなところで判断されるお笑いを演者はやってないんじゃい」となりがちだし、まあ僕自身もM-1批評をブログで書く時に「これはちょっと今のご時世笑いにくいよね」みたいなことは書いてきたし、それを批判されたこともある。

あるのだが、僕自身がよくよく考えたいのは、「ポリコレ的には瑕疵があるよね」みたいな減点を見てみたネタにしたいのではなく、「それはそのような反ポリコレ的な笑いとして見せなければ成立しないようなものなのか?」あるいは「反ポリコレ的であることそのものを面白いと考えてそういう仕上がりになったのか?」みたいな疑問であり、若手向けの登竜門、年に一度の最高級エンターテイメント賞レースとしてのM-1キングオブコントに関しては、あんまり下品なことをやられてしまうと下品の面白さの是々非々よりは「ゴールデンタイムに全国放送されるテレビで、こんな危ういことやって爪痕残してやったぜ」的な自己満足の匂いを感じてしまい、演者が「本当に面白いと思ったからやった」のか「こんな賞レースの全国ネット番組でもなければこんなネタをお茶の間に流さないだろ!?」というドヤの精神でやってるのか、よくわからなくなってしまって、つまり、やってる側が純粋に面白いと思ってやってるのならば笑いやすいのだが、「こんなネタをこの大舞台でかましてやったぜ」という匂いを感じると、ただ純粋にネタを見てる方からすると「過激だね、面白くはないけど、、」となるしかないのである。

この傾向自体はM-1にもキングオブコントにも一定あるのだが、キングオブコントは、よりその印象が強かったというのが、僕がキングオブコントから遠ざかっていた理由なのは間違いない。

で、それを踏まえて見た久しぶりのキングオブコントなんだけど、めちゃめちゃ面白かった。演者もどのネタも面白かったし、審査員の評価も「まあこいつはこのネタには高い点数つけるよな」「こいつはそりゃこのネタには低い点数つけるよな」みたいなのもありつつ、全体的にめちゃめちゃ妥当な数字がついていたように感じた。

もちろん、順番の問題というのは常に存在し続けるけど、それはもう仕組み上、仕方がないしなぁ。

「爪痕を残す」的な意味合いで無駄に攻撃的な笑いを指向する人たちがほとんどいなかったことそれ自体は、まあ悪いことではなかった気がする。人を不快にさせない笑いなんかありえないので「人を不快にさせないこと」が素晴らしいこととは全く思わないのだけど、「誰かを敵に回すこと」をある種の「突っ張って男を上げる」みたいな解釈に落とし込んで開き直るようなネタがなかったのは、良い変化だねと素直に思った。それは、まあ、つまり、そういうことをやったって、息苦しいし反ポリコレの側に立ちたいなと思う立場からしても、それだけでは別に面白くもなんともないからだ。その結果「今回面白かったね」って声が集まるんだと思うし。

回りくどい話になってしまうが、なんの話がしたいかと言うと、「コント師という道は過酷だな」という話だ。

自分らでネタを考えて自分らで演じる若手コント師という身分は、これまで話してきたようなややこしくてめんどくさいことを考えながら、それでも自らでネタを考えて自らでそれを演じて、そして自らを世の中に認めてもらわなくてはならないわけで、それってすごい修羅の道、と素直に思ったのだ。

台本を作る目線に立てば「こんな尖ったことをやっちゃう俺たちです」でもいいし、「こんなに上手にネタを作れる俺たちです」でもいいし、本当はそれでいいはずなんだけど、コントの章レースで勝ち抜いたその後にあるのは「俺たちこういう奴なんです」でしか生き抜けない世界であり、ここの兼ね合いってきっと本当にしんどい。

今年のキングオブコントの質が本当に高かったからこそ思うのは、「演者はこの人たちでなければダメかと言うとそうでもないよね?」ということであり、漫才は漫才なので「そいつらにしかできないお喋り」が評価されるのに対して、コントという領域は所詮台本と演出のなかで誰が演じるという世界なので、たとえば空気階段の火事のコントについても松重豊小日向文世がやっても絶対面白いじゃんと思うところがあり、一方でサンドウィッチマンの漫才を松重豊小日向文世がやるよりサンドウィッチマンがやった方が絶対面白いじゃんという確信もあり、つまりキングオブコントの難しさとはそういう部分なのだろうと考える。

設定台本自体を尖らせてオンリーワンを主張しようとすると、時代に合わないというか「時代に合わないことをやる」というお笑い芸人としてのキャラクターを背負うことはできるしそのうえで反発は食らいながらバラエティに出ていくことにはなるし、そこをうまくまとめるならば「演者はあなたじゃなくてもいいけどね」という仕上がりになると思うし。

コントとは何か、コント芸人とは何か、は、まだまだ検討の余地があると思う。

今回の新規審査員全員、結局全員コントじゃないバラエティの顔で見出された奴らばっかだしな。

コントの未来を考えたいし、コントでウケようと台本を考えてる奴らにとって良い世の中になればと願う。

以上です。

 

名前と機会と交差点

生まれてきた息子には明らかにちんぽがついていたのだが、わざわざ男とも女とも取れるような名前をわざわざつけた。ちんぽのあるこいつの中身が男でも女でもそれは俺にとってどっちでもいいし行く先々においてちんぽを取るも取らないも好きにすればいいのだが、どちらにせよ折角親としてつける名前なのだから、どうせなら最期まで名乗り続けて欲しいからくらいの理由で、男でも女でも成立するような名前になった。

出産祝いに俺の妹が絵本を贈ってくれた。

小さな子供が自分の名前を忘れてしまって眠れない夜にベッドの下に潜り込むと、そこにはよくわからないへんてこな世界があって、そこを旅しながら色々な動物やらなんやからアルファベットを一つずつ分けて貰っていって、やがてその子供の名前を完成させて家に帰って眠るという内容のオーダーメイドの絵本だ。カメレオンからはCをもらい、カバからはヒッポの頭文字のHをもらう。そんな調子で自分の名前を集めていく、そんな物語だ。外国発の絵本が日本に輸入された形なのだろうが、表紙には主要な登場キャラクターが勢揃いしているがその中には明らかに火の鳥としか思えない燃えてる鳥が紛れており、フェニックスのPは日本版ではほとんど活躍の機会がないだろうと思ったことを覚えている。

それから息子は車に撥ねられることもなく、車の中で蒸し焼きにされることもなく、順調に4歳くらいになって、まあ死ぬときは笑えないくらいに呆気なく死ぬのだろうが、今や今のところやすっかり走るし喋るし毎日忙しないのだが、そろそろアルファベットも理解しているのでちょうどいいのではないかと思い、その4年前に贈られた絵本を初めて読ませてみることにしたのだ。

飯も食べて風呂にも入ってあとは寝るだけの息子は眉をひそませながら絵本を読み聞かせされ、うとうとしながら1度目の読み聞かせを聴き終えるともう一度読んでくれと促し、2度目の読み聞かせを聴き終えるや否や、息子は倒れ込むように寝た。そうして俺は四年前を思い出した。

我が息子の名前を考えて、我が息子が生まれ、我が息子が我が名前を集める絵本を贈られ、その時に感じた感動はまあそれなりにはあったのだが、当時生まれたばかりで乳首を吸うか泣き喚くしか能のない息子を見ると「こいつこれわかんねーからな」と思ったものだ。この絵本は、0歳の息子を迎え入れた俺ら親如きが面白がれるものに過ぎず、息子本人にとっては全く不要なものだなぁと思ったそれが4年前だった。

そしてそれから4年が経って、息子は自分の名前を集める絵本を面白がって読めるように、やっとこさ辿り着いたのだ。

色々もらった出産祝いの中で、妹の贈ったこの絵本こそが、一番、役に立つまでに、本人に届くまでに時間がかかった。

それを俺は咎めるつもりも起きなくて、これくらいがふつうなのだろうと思う。

届けたい人に届くのはいつだってずっと後だ。後ろを振り返れば誰しもにきっと誰かがいて、その人があなたを思うあなたの思うところに辿り着くのはずっと後だ。祈るように、こうべを垂れるように、僕たちは生きることしかできないし、僕は僕に届いた無数のあの時のあの無責任なあの言葉を思い出しながら、いつ届くかもわからない言葉を、喚き続けるしかないんだろうと思っている。

以上です。

逝かされた恨みと生かされた後ろめたさが蔓延していくのだろうか

いつからの時代かは知らないが「畳の上で死ぬ」という慣用句が日本にはあって、それの意味するところは「出先での事故とか変死とかじゃなしに、自分の家の布団を敷いた畳の上で穏やかにその生涯を遂げること」みたいな意味なのだろうと思っているのだが、まさか自分の生きてるあいだにこの慣用句の意味がまるっとひっくり返ることになるかもしれないのかと考えるとなかなか驚きだ。

数年前に病気を患って病院に入院してお世話になった時に、高額医療費制度?に随分お世話になっていることがわかる明細を見て強がりで「普段から安くない社会保険料納めてるんだから、たまにはこうして病院の世話になるのも元を取るって意味では悪くないかもしれませんね」と僕が嘯くと、担当の看護師さんが「そんなこといちいち気にしなくたって、今時なかなか病院以外ではそうは死ねませんから。死ぬ直前にはみんな元が取れますよ」と返してくれて「なるほどたしかに、そりゃあ違いねえ」と笑っていたものだが、そんなジョークが今後も成立し続けるかでいうと恐らく風前の灯なのだろうと実感させられる昨今だ。

たぶん10年以上も前に『イキガミ』というタイトルの漫画があった。あんまりちゃんと覚えてないのだが、近未来の日本では生まれたばかりの赤ちゃんに平等に何かしらの薬を投薬して、その何かしらの薬には1000分の1だか10000分の1だかの確率で「何歳の何月の何日何時に死ぬ」という時限爆弾的な毒が含まれており、政府はどの戸籍のどいつがいつ死ぬかを厳格に管理しており、そいつが死ぬ24時間前に公務員が「お前あと24時間で死にますよ」という通知をしに行く、みたいな設定だったと思う。戦地に赴くことを命じる「赤紙」ならぬ、戦地に赴くまでもなくただ死そのものを宣告する「逝き紙」を届けに行くというわけだ。そんな馬鹿げた法律が作中で成立した経緯は「命の価値を国民が広く理解するため」みたいな理由だった気がする。ドラマ化もされてて、たしか草なぎ剛(なぎの字は草冠に屍)主演で主人公の決め台詞は「俺の胃袋は宇宙だ」だった気がする、記憶が曖昧なので間違ってたら申し訳ない。

さて、翻って2021年現代の日本であるが、まあそんな様相にこれからなってくるのかなぁ(他の感染爆発を経験した国と同様に)という感慨だ。

ニュースで報道される数字は何処を見ても増加の一途を辿り、これがCR北斗の拳だったらいいのになぁくらい増えまくっている。

医療の助けを借りることも叶わず畳の上で亡くなってしまった人のニュースも見受けられるようになり、今はそれなりに個別に取り上げられているそれらの事象もいずれは数字に集約されて、CRになっていくのだろう諦観がある。

2011年に起きた311東日本震災は、もちろん被災された当事者の人々にとっても忌まわしく悼ましい経験になっただけに留まらず、繰り返し何度もリピートされる津波の映像とほとんど静止画のようにリアルタイムで静観され続ける原発の映像とは、被災地から遠いすべての日本国民の注目をも一手に集め、直接的には関係がないはずの多くの国民の心を締め付けた。

対して、このコロナというやつはなんなんだろうな、本当に。

多くの人々の想定通りにオリンピックは開催されたが、今日は誰がメダルを獲りましたみたいな話を楽しげにタレントらが談笑した後に15分のニュースコーナーでコロナの感染者数を局アナが神妙な面持ちで語るその光景は、中学校の社会の先生が戦国武将の面白豆知識をめちゃめちゃ時間を割いて雄弁に語りつつ、何百万の人が死んだ近現代の戦争の歴史をテストに出るところだけ要約してチャチャっと巻きで終えてた感じを思い出した。思えば(少なくとも俺の通う学校の先生は)武田信玄は便所で考え事をするのでめちゃめちゃ便所が広いことは教えてくれていたが、ヒトラーが何百万人殺したかは特に教えてくれなかった。回答欄には「武田信玄」とか「ヒトラー」とか人名を書けば、それで丸が貰えた。

畳の上で息も絶え絶えに死んでいく人たちにはそもそものドラマがないし、そこにドラマを見出そうとしても感染症である以上(それ以外にも理由はたくさんあるだろうが)まめに取材するのもなかなか難しい。だからきっと、これからも数字だけが堆く報道されていくのかもしれない。これも諦念だ。

 

僕が気にかかるのは、その数字が増えるにつれ、確実にその数字が表す「死」というやつは、圧倒的なリアリティをもって我々の日常に忍び寄ってくるのだろうということだ。

 

「あなたが死ぬかもしれない」という話ではない。「あなたの大切な誰かが死ぬかも」という話ですらない。

もちろん、そちらの側の当事者になる可能性は十分にあるのだが、そちらを免れたから「ああ良かったな」という話でもない。

友達の大切が死ぬかもしれないし、大切な友達の大切な友達の親が死ぬかもしれないし、大切な友達が大切じゃない他人の死をフランクに語るかもしれない。それを語るのはあなたかもしれない。自分より遠かったり近かったりする有象無象の死が、誰しもの傍らに当たり前に存在する世界になった時に何が起こるだろうということが非常に気掛かりだ。

大切な人が畳の上で十分な医療を受けることなく死んでいったという事実のみを受け取ることは大変に辛いことだろうし、大切じゃない人が同じように死んでいった時に人は自分が苦しまないようにその人が死んでも仕方なかった理由を探すかもしれない。

たまたま自分の大事な人が医療の施しを受けて助かったらほっと胸を撫で下ろし世界に感謝をするだろうし、その後に別の大切な人があっさりと死んでしまったら、死んでしまった人と助かった人と何が違ったか思い悩むこともあるのではないかと思う。

逝くも生きるも運次第の局面で、私たちはその無常にどれだけ耐えられるだろうかということを考える。

私たちというのは多数の個人、ひいては社会だ。ある者は、たまたま大切な人を畳の上で逝かされ、ある者はたまたま医療の恩恵を受けて生かされる。きっと全ての人を生かしたいあまりに小さな受け皿のもとで、逝かされる者と生かされる者がランダムに選別される。その現実に、遺された全ての者たちが晒されるのだ。

「誰も死なないでほしい」と誰もが思ってるんだろうと思いたいが、おちおちそんな願いは叶わないのかもしれないと考えると暗澹とした気持ちになる。次に考えるのは、その先がどうなるか、だ。

身近な死を悼む人は、身近な死がなかった人を恨まずにいられるだろうか。身近な死がなかった人は、遠くの死をどこまで悼むことができるだろうか。どこかの誰かが死ななかった事実に理由を求めて死ななかった事実を間違いだと思わずにいれるだろうか。どこかの誰かが死んだ事実に理由を求めて死ぬ必然性を見出さずにいれるだろうか。

なにもコロナに限ったわけでもなく、恐怖も尊大も憎しみも主観的な公正さも、すべてが簡単に伝搬して共振するこの世界で、僕はどこまで人に優しく生きていけるだろうか、みたいなことを考えているし、俺がまず真っ先に死んだらみんなこのブログ拡散よろ。

以上です。