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「ほ〜ら言わんこっちゃない」と言いたかったわけではない

まあコロナの話なんだけど、なんか、また大変なことになってきそうだなぁと思っている。というか、まあ、なるんだろうなぁ、と考えている。

で、そういう風に「考えている」と表明するだけでジレンマが発生するんだよな。ジレンマなしには生かしてもらえないここ1年半だ。

 

今年の頭に古い友人が死んで、死に顔をマスクつけて拝みに出向いて、そいつはコロナで死んだわけではないんだが当時の大阪の医療体制というやつは甚だ疑わしいもんで、俺もそれからしばらくして救急車に乗ったもんだから搬送先がなかなか捕まらなくて舌打ちしてる救急隊員の人もこの目で見ているから、受け入れを拒否する病院に対する苛立ちを隠さない救急隊員はこの目で見ているから、コロナによって何が起こっているかについてはなんとなく俺なりのイメージは持っている。面倒見ていただいた救急隊員さん、受け入れて脳の検査してくれた病院の方々本当にありがとうございました。いつもいつ死ぬかわからない奴らの相手をしてくれて本当にありがとうございます。

 

で、俺は偶々の偶然で、こんなありがとうございますを吐く余裕もなく死んでしまったり憎しみあったりみたいなやつが、またやってくるのだなー、と思っている。まあ昨日も今日もやってくるところにはやってきてるんだろうけど、明日は我が身だなぁと思うより仕方がない。

今書いてる文章が誰に届くものとも別に思ってないんだけど、とりあえず書いてて思うのは、「どうしてこうなったんだろう?」てのは見つめた方がいいよねってことと、その「どうして?」という責任の所在が各々の中で明確になったとしても、あなたが頭の中で思い描いた「諸悪の根源」のために多くの人がこれからたくさん死んだとしても、「ほ〜ら言わんこっちゃない」と喜んじゃいけないってことだよなーとかを考えてる。

「悪かった」という結果がなければ「悪かった」ことはずっと肯定されないのかもしれない。それは、まあ、そうなんだろう。そして一番わかりやすい「悪かった」の指標は「今日は何人死にました」なんだろうなと思う。その数が増えれば増えるほど、「やっぱりあいつらは悪かった」となるんだろうなというのは想像するに容易い。しかし、「やっぱりあいつらは悪かったんだ」ということはそんなに喜んでいいことではなくて、だってそこには人が死んでいるんだから。

ここから先、それが一番怖いな、と思う。責任はどこかにあるんだろう、その責任を咎めたくなる気持ちもよくわかる。人が死ねば死ぬほどその責任はより明らかになり重くなりで、願ったり叶ったりかもしれない。しかし、その願ったり叶ったりの影には当たり前に死人がいるし、大事な人と死別した人がいる。至極当たり前の話だが、その当たり前が失われそうな現状にうんざりする。

人が死ぬことはひとつと面白くなくて悲しいことで、自分が生きることはいつだって至上命題だ。この二つが、果たして今後人の心の中に同居できるだろうかということが僕の目下の悩みだ。

誰かの失敗を叱責するために、他人の死を笑い飛ばすのが当たり前の世の中になったらどうしようというのが、今の僕の一番の恐怖だ。

誰もいたずらに死んではいけないはずだから、今の感じはどう考えてもおかしい。狂っている。

しかし、今が狂っていることの証明をするがために、人が死んでいくことを喜ぶことも絶対に間違っている。

人間らしくあることが難しい世の中で、俺は人間らしくありたいし周りの人も人間らしいとどうやら信じたい。

 

そんなことを最近ぼんやり考えている。

 

オチ!?オチどうしようか?

 

すげー速いミニ四駆作りたい。マリリンモンローのスカートめちゃめちゃ跳ね上がる速度で駆け抜けるサイクロンマグナム。

 

以上です。

小山田氏のやつ

まず、ひとつの言説として「目の前でいじめが起こっていて、目の前にいじめられている人がいて、それを傍観していたならそれはいじめに加担している共犯者と同じだ」という考え方がある。どうも、あるらしい。

これについては、きっと世の中の多くの人にあっては「そうだそうだその通りだ」とも「いやそれは極論だ」とも簡単に言えるんじゃないかなと思う。

自分が理不尽に虐げられて周りの誰も手を差し伸べてくれなかった時の記憶が頭をもたげれば「そうだ、あの時助けてくれなかった奴らがたくさんいた。俺がいじめられているのを目の当たりにしながらそれが自分じゃなくて良かったとホッと胸を撫で下ろしながら、遠巻きに俺を嘲笑っていやがった、あいつらもいじめの共犯者だ」と解釈することができるだろう。

一方で、「たしかに俺はあの時、あいつがいじめられているのを見過ごしていた。あいつがいじめられているあいだは俺がいじめられることはない。しかしだってそれは仕方がないことじゃないか、もしそのいじめに俺が介入しようとすれば俺が同じ目に遭うかもわからない。標的にされては堪らない。それをいじめの共犯者と看做されるのも堪らない。俺も理不尽な暴力を振るう存在に屈した被害者だったのだ。断じて共犯者ではない」と主張することも簡単である。

ここで僕が考えたいのは「さあ、お前はどっちだ?」という話ではない。「我々の多くはどちらでもあったし、今もどちらでもある」ということを考えたい。

小山田氏の一件については、平和とか平等とかを謳うよくわからん国際的なイベントを誰が担うのか誰に担う資格があるのかという話なので、一切の擁護の余地はなく、彼が辞任なり解任なりに落ち着くのは当然の帰結であろうことには間違いがない。

だから当然、彼の辞任なり解任なりを求める声が上がるのも、彼の過去の振る舞いが滅法叩かれて批難に晒されることについても取り立てて問題はないと考える。

当然湧き上がる批判とそれを起因とした辞任劇を、たとえば「ネットリンチ」だとか「社会的私刑」だとかいう言い方で矮小化する必要は全くないだろうと考える。

今回のこれは「ネットリンチ」という話では全くないと思う。当然のムーブメントが起こったうえでの当然の帰結である。

 

しかし、「ネットリンチ」ではないにせよ、「一気呵成」ではあったなぁ、とは思う。

 

「しめた、今ならいけるぞ!」という虐げられてきた人たちの一致団結ではあったんだろうな、とは思う。し、それ自体は全く悪いことではない。まあ僕も微力ながらチクチクねちっこいツイートをして、そういう一気呵成のムードに加担していたし。「嫌です!これ!」て言えるムードならそれは言うし、そしてそれは今後もやっていくつもりだし。そういえば、のぶみの辞退すげえ早くてビビったな。あれたぶんこのままずるずるいってたら小山田氏みたいにどんどん拡散されてテレビで取り上げられたら俺のファンこと食い扶持が減るぞみたいな冷静な判断なんかな?わからんけど。

みたいなことを考えながら思うのは、やっぱり世の中で幅を利かせる邪悪なやつらというものは、まぁ厚顔無恥極まりないんだろうなぁということです。小山田氏も、実際に人々が声をあげなかったら厚顔無恥にそのまま素知らぬ顔でセレモニーをセレブレイトして終わっていたんだと思うし。だから、声をあげてふさわしくない人物を降ろしてくれって叫ぶこと自体はまったく問題ないことだとは思うんだよね。

そのうえでやっぱり考えたいのは、「今ならいけるぞ、しめた!」って気持ちと、「傍観者は加害者なのか」「傍観者も被害者なのか」って問題なんですよね。

繰り返すに「お前はどっちなんだ!?」て話ではないんですよ。どっちもなんだろう、て気持ちがあって。で、どっちもなのは悪いことじゃないよ、人間ってだってそうだもん、て思う。今こんな話をしてる俺を見て「お前ずるいぞ、お前なに善人ヅラしてるんだ」ってやつもいるだろうし、小山田氏はこれを見て「お前ずるいぞ、もうお前が何かお願いしてきても悪人仲間に入れてやらねーからな!一生善人ヅラしてろ!」と思うかもしれない。

でも、そういう人間だからね、人間ってずるいんだよ。悪いやつもズルいし良いやつもズルい。ズルい中で風向きがあっちに行ったりこっちに行ったりして、人間には大事な信念があるかもしれないけどその尊く掛け甲斐のない信念っていうやつは大概ちっぽけで、大きな力に流されたり追い風を受けたりしながら、ふわふわと消滅しないように形を留め続けるより仕方ないそんなものなんじゃないだろうかと思っている。

何が言いたいかというと、みんなそういう自分のずるいところに無頓着になり過ぎているように感じる。「今だ!今なら巨悪を叩ける!」ってタイミングに巨悪を叩くのはそれはそれで必要なことだし、それ自体にはなんの文句もない。ただ、「今だ!」を嗅ぎ取って叩く、一気呵成になっている自分と一気呵成にならなかった自分との差異にある自分自身のずるさみたいなものを忘れてしまったら、巨悪を叩き潰した後に隣の奴と勝利の祝杯をあげる時に本当に喜びを分かち合うことはできないだろうし、同じ巨悪を共に倒した同胞とまた憎み合うことしかできないだろうし、そういうふうに憎しみ合うことしかできないのは嫌だなぁと思う。

 

ということをわざわざブログで書かないと、まさに悪い意味での傍観に俺がなってしまうよなぁと思って書いた。ずるくなくなることはたぶんもうできないしそれでいいけど、ずるいことを表明するためにもたまにはブログを書かなくてはならないなぁと思ったのであった。

以上です。

ブログから失われたものはむしろ「書きたい」では無くて「読みたい」

たとえば、人が「私は映画が好きだ」とか言う時、そこには「面白い映画もあれば、つまらない映画もある。面白い映画を観たら心は踊るし、つまらない映画を観た時はとんだ無駄な時間を過ごしたぜと腹も立つ。そして私はそのうえで映画が好きで、これからも映画を観るのだろう」みたいなニュアンスが一定含まれているだろう。そしてこの前提は映画に限らず、小説にしても漫画にしても演劇にしてもお笑いにしても落語にしてもアートにしても今現在もそのような前提が一定担保されているだろうと体感的には思っている。

ブログもかつてはそのような存在であった。「一人の生身の人格が家でぼそぼそーっとだらだらーっと思ったことを書き綴って、それをインターネットを介して不特定多数の第三者に公開する」という一連の営みが、一つの表現様式として、その様式それ自体が愛されていた時代がたしかにあったよな、と僕は考えるのだ。

しかし、それはかつての話なのだろうと思う。

「文章を一つの作品として発表するのではなく、一人の生身の人格がなんか不定期的に文章をインターネットに勝手にアップしますよ」というブログの様式は、「生身の人間が思ったことを自由に『うんこなう』の5文字からでもアウトプットできますよ」というSNSの文脈にあっという間に回収されたのである。今思い出したリアルでは人に言えない話があったので書いておくけど普段飲まない赤ワインをこの前飲んだらうんこめちゃめちゃ緑色になってめちゃめちゃびっくりしたよね。死ぬんかこれと思ってめちゃめちゃググったよ。「赤ワイン うんこ 緑」でググったら赤ワインはそういう成分があるんだよという内容が複数ヒットして僕は胸を撫で下ろしたよ。はー、よかった。

話を戻すと、SNS(それはもう現代におけるインターネットそのものと言って差し支えないと思うが)が受け止めている人間の欲望というものは至ってシンプルで、「なんか一言言いたい」である。そしてその向こうにあるのは「読みたかったもの(賛同できるもの)を読んで褒めたい」であり「読みたくなかったもの(賛同できないもの)を読まされたら読みたくなかったと文句を言う、賛同しない或いは否定する」である。

ここにはまず「読みたい」という欲求がない。「読みたくないものでも読んでみて何か考えたい」という欲求がない。映画や小説やその他に向けられるような様式へのリスペクトがそこにはなく、SNS上でアウトプットされる「うんこなう」と同列に扱われる程度にブログは至ったのだ。

これは、別に「ブログをもっとリスペクトしろ」という話ではない。ただ、ブログは現代においてリスペクトに値しない「うんこなう」やそれこそ悪ノリバイトテロと同じカテゴリに回収されてしまったんだろうなということだ。テキスト量で見た時に長いか長くないかの違いがあるだけで、SNSにおける一個人のお気持ち表明としか見做されなていないことが現状だよね、というだけの話で「そうだよ、だってそうだろうが」と言われたらそれはそれで特に反論はない(Twitterを主戦場としている人が「今回の件に関してはTwitterじゃなくて、noteで書きます」とかやってるのが普通になってるのは、まさにそういうことなんだと思う)。

今更、「ブログは素晴らしい様式だよ、もっと再評価されるべきだよ」なんて嘘八百まことしやかに伝える気は全く起きない。ただ、SNSの隆盛によって、そこらへんの文化の一部として一手に集約されて、その文化の中での振る舞いをしないと成立しないものとなってしまったことは少し寂しい。

「今でもブログとか長文起点で一発当ててるやつはいくらでもいるだろ、お前がウケてないだけなんだよ甘えんな」と言われたら「それはそうなんだけどさぁ」という気持ちになるのだが、別にウケて一発当てたかっただけの気持ちではなく、なんか古市憲寿芥川賞を狙ってくるのを気持ち悪く眺めている感じに似ている。読みたい人が読んでそれを読んでなんか書く、みたいな、それを人は「クネクネ」と呼ぶらしいが、俺はそういうAさんとBさんがクネクネするだけのなにかを「読みたい」そしてそれに呼応して「書きたい」というのがブログをやる原動力であって、ただ「読みたい」だけの人があんまりいなくて色々な文脈でジャッジしたがる「読みたいものを読みたい」人が一挙に押し寄せて過半数をとってる現状では、「読みたい」人もいないのに書いてもダルいだけだなーと思ってて、まあとりあえずわざわざ書かなくていいかなーと思ってる。

昔と変わらず、俺が思ったまま書き続けたら、きっと誰かに届くだろう、感謝もされるだろう、きっと友達ができるだろう、という確信はある。しかし、その人に巡り会うまでの手前にある人混みがダルすぎる。それが俺がそんなに書かない理由だし、みんなそうじゃねえの?と思ってる。

なので、俺の結論は「読みたい」が相対的に世の中から減ってるから、「読みたくないものは読みたくない」がわざわざ読みにくる状況が押し寄せてきているから、が俺の書かない理由で、「書きたい」が失せてるとかいう人たちに関しては本当にそうか?と疑ってるし、カネもらったら書く癖によ、とも思っている。

俺も割と「昔は書いてて慣らしてるんすわ」で仕事とかももらえてる方なので、なおさらそう思う。ブログがあってよかったと思うし、ブログに後ろ足で砂を掛けたくはない。書かないなら書かないでいいんだけど、その理由は、ブログの今と共にありたい。書いてるやつは偉い。

以上です。