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当て所なく歩くアテンド

日曜日、いつも育児を任せっきりなので、たまにはいいんじゃないのと嫁を映画館にやった。

なので、朝8時、起きたら息子と二人きりだった。

洗濯機を回しながらテレビではニチアサが流れ、息子に朝飯を食わせたところで彼は立派なうんこをした。世に人はこれを快便と呼ぶ。

洗濯物を二人で干す。彼は僕が洗濯物を抱えてベランダに出ると、自分も出てきて洗濯物が入ったカゴにかぶりつき、「どーじょ!」「どーじょ!」とそれを僕に手渡す。「どーも」「どーも」と言いながら僕はそれハンガーにかける。

そして、やることもないので、二人で散歩に出た。

彼は家の中ではどうしようもない甘えたがりでいつも母親と手をつなぎたがる。

しかし、それは家の中だけのことで、一歩外に出るとなかなか手をつなぎたがらない。

一人で歩きたがる。

今日はもうそろそろ帰るよと促そうとすると手をつなぐのを拒み涙する。

そこで「困った子だなぁ」と言うのは僕の妻とか彼の母とかそういう人で、彼はいつもいたずらに笑う。

今日はそんな彼女がいないので、とことんまで歩かせようと思い、とことんまで歩かせてやった。

既に死んだ犬だが、僕にはかつて飼い犬があった。一緒に住んでた時にはさしてありがたみもなかったが、実家から離れた大学に通うようになってからは、たまの帰省の折の彼との散歩はとても心地よい時間で、しばしば僕は彼をもう一歩も歩けなくなるまで歩かせ、そしておぶって帰った。

息子もかくして、そうなった。

俺はどこまでも気の向くまま歩かせる。自転車の往来の多い歩道は抱っこもしてやったが、基本は彼の気の向くまま歩かせ続けて、彼は見たこともないところまで歩き続けた。

そして彼はほとほとくたびれて座り込み、  僕はそれを抱え上げて家路を歩いた。

僕を抱え上げる人はいなかった。

家に戻ると、僕は彼の手を洗い、飯を食わせ、寝かしつけて。彼は恐らく今までで一番歩いた疲労を両脇に抱え、すぐに泥のように眠った。

僕はそれを見届けると布団を離れ、カップ麺にお湯を注ぎ、やがて、食べた。

彼の未来と、僕の未来を交互に目配せしながら、僕の当て所なく歩くアテンドを終えた。

息子、初めての動物園。俺、初めての息子との動物園。

息子、1歳7ヶ月。たぶんよその子より発育は遅めで、その足取りはよたよたと心許無く、油断をするとすぐ転ぶ。言葉はまだ「どーじょ」と「いないっばっ」くらいしか喋らず、保育園の送り届けの際によその子がいってらっしゃいを言ったり歌を歌ったりしてるのを見ると「こいつ大丈夫か」と思わんでもないが、帰りたくなったり「もうお前行っていいぞ」と思った時はバイバイと手を振るし、気にくわないことがあれば弓のように身体を仰け反らせギャン泣きするので、彼の中で必要なコミュニケーションは身体表現だけで事足りているのだろうと解釈し、もっと複雑な何かを伝達したいと彼が願ったら勝手に喋り出すのだろうと楽観している。そういうわけで、そろそろいけるかなと思って、動物園に行ってきた。

一応動物がたくさん出てくる絵本を見せたり動物がたくさん出てくるDVDをたくさん見せてはいるものの、まあまあまだまだ彼にはそんなに楽しめないだろうなと思いつつ、とりあえずで足を運んだ。

見える動物にはそれなりの興味を示していた。塗装されたアスファルトのプールの際で日光浴をするペンギンを怪訝な顔つきで眺め「あ?」とか「お」とか言ったり、飼育室をウロウロする虎にはガンを飛ばしていたり、止まり木の上で大きく羽根を広げて威嚇するコンドルには逃げる術なんざひとつも持ち合わせてない癖に一丁前に身構えたりもしていた。

そういうのも面白かったのだが、彼には見えない動物も多くいたのが面白かった。例えばそれは草の向こうにいる屋外展示の虎とか、生い茂った木の陰で寝てるジャガーとか、遠景から眺めるコンセプトのキリンとか、水面下でじっとしているカバとか。こっちがいくら指をさして視線を誘導させようとしても彼はそれらを見つけることができなかった。

保護色って効果あるんだーと素直に感心した。「柵の向こうには何かいる」という動物園の前提、お約束が分からない彼にはそういうものは一切視界に映らず興味を持てないのだ。もし、そこが柵やら格子やらで隔たってなかったら、この息子は無頓着に彼らのテリトリーに踏み入り、頭を噛み砕かれたり手痛い蹴りを食らって死んだりするんだなーと思い感慨深かった。当然僕自身も動物園という圧倒的に人間有利の状況でなければ、「ここにはキリンがいますよ」という看板が無ければ彼らを見つけることができずライオンをぶっ殺すその後ろ足の蹴りを食らってたかもしれないなーと思うので、わざわざ命を賭けてサバンナに行かずともそういう感覚を実感できるガキと動物園のコラボレーションはコスパがいいなぁ、と思った。天王寺動物園、大人一人500円。激安。

あとは、うちの息子は歩きたがりのようだ。ベビーカーで行ったんだけど、一度靴を履かせて大地を踏ませたが最後、無限に自分の足で前に進もうとしたがる。そしてお前の前は、俺たちの前ではなく、お前は無軌道だ。本人的にはきっとのしのし、俺にとってはいかにもヨタヨタと歩きたい方に邁進する。抱え上げると「降ろせ降ろせ」と泣き、仰け反る。仕方がないので好きに歩かせる。よその子どもとぶつからないよう、よその大人にぶつからないよう、注意深く俺は彼のすぐ後ろをひた歩くばかりだ。

こいつは、冒険をしているんだな、と思う。

本当になんの比喩でも形容でもなく、ただただ冒険をしているのだな、と思う。

スマホでひとつライオンのガォーという鳴き声を聞かせてやっただけでビービーと泣き出す彼だが、動物園を一人誰とも手を繋がずに歩く彼の表情は驚くほど屈託無く勇ましく、文字通りひとつ間違えば即死になる自由を謳歌している。彼にとってはそうなんだろうと思うと同時に、いくら真っ直ぐ歩けるようになっていくら檻の向こうの動物を見つけられるようになっても、人が生きるだなんていうことはどこまでいっても冒険みたいなもんだよなと自分を鑑みる。

交際を始めた時から数えると、嫁さんとの付き合いはもう、干支を一周した。初めて二人で訪れた天王寺動物園では、キリンが交尾をしているところに出くわし、大変に気まずくお互いに口ごもったことを覚えている。今、キリンが交尾しているのを見かけても、特に気まずい空気もなく笑って話せそうなものだが、その日の天王寺動物園のキリンは、特に後尾はしていなかった。

日光浴しながらお菓子を食べ終えた息子は、りんごジュースをぐだぐだにこぼした服を着替えるべく、母親と共にトイレへと消えていった。俺は、ベビーカーを抱えて一人待ちぼうける。そして、辺りを見回す。春の陽気が気まぐれにこの日限りでやってきた3月の土曜の天王寺動物園は、本当にたくさんの客で溢れかえっていて、そしてそのほとんどは家族づれかデートカップルだった。

こいつらは、息子が見つけられなかった保護色をまとった虎やジャガーやキリンを果たして見つけられただろうか。それを見つけたとして、彼らが見つけるべきは果たしてそれだけだっただろうか。

猫みたいに腹を晒して日光浴をするライオンをかわいかったねと笑い合うカップル、こいつらこの後セックスするのだろうか。愛し合っているのだろうか。死ぬまで出会って良かったと思う関係になるのだろうか。既にそうなんだろうか、今後もずっとそうなんだろうか。

子供が山羊に触ったのだから手を洗わせたいという母親と、べつにええやろという父親、そして既に手の甲で拭った鼻水を舐めているクソガキ。彼らはこれからどんな家族になっていくのだろうか。夫婦はセックスをするのだろうか。

自分のことは棚に上げて、よその人々の動物園の冒険のその先の冒険に僕は思いを馳せる。明らかに冒険然とはしゃぐ息子をよそに、ここを訪れた誰しもが僕を含め、実は人生という冒険の真っ最中なのだなと思いながら、仕事のSlackをめちゃめちゃ返信していた。

やがて着替えた息子を抱き抱えて、嫁さんが戻ってくる。息子は、嫁さんに抱えられていると「どうだ、羨ましいだろ」と言わんばかりの笑みを僕に向ける。

今日が初めての動物園。これから何度も来るだろう。しかしそれは永遠ではなく、やがてこいつは我々と一緒に動物園に行くのを嫌がるようになり、別の誰かとまるで初めて動物園に行くみたいに動物園に行くようになるのだろう。そして更にその先には、言うことをろくに聞かないクソガキを引き連れてここを訪れるようになるかもしれない。こいつもその頃にはすっかり虎もジャガーも簡単に見つけられるようになっていて、まるで冒険でもなんでもないような素振りでいるのかもしれないけれど、俺は漸く思い直したぜ。ここは、毎日が冒険であることを再確認させてくれる場所だ。

キリンが時には人目を憚らずセックスをして、時には隠れてセックスをするように、ここは人間が人生なんか冒険でもなんでもないようなフリをしながら冒険の合間に訪れる、命と命が眺め合う、きっとそういう場所だ。

以上です。

バレンタインは社長が社員にチョコ配れ

この前、ズイショとは関係ない人格で知らん人らのグループに飛び込んで酒え飲んでたんですけど、一応趣味の集まりなのでみんな仕事も業界業種けっこうピンキリのバラバラだったんだけど何だかんだまーみんな会社の愚痴が多くて。僕もまあ自分の会社の不満ゼロではないですけど割と裁量も持たされてるし気持ちよく働けるようにああしようこうしようってできる風通しのいい感じはあったりするので理不尽だとか不合理だとかって慣習とかルールにそんな塗れてるわけではない環境なので、普段はあんま聞かない話だったりするんだけど、みんな大変なんだなーつって聞いてて。

で、会社のダルイベントあるあるみたいな話になって、時期的にちょうどバレンタインがあったよねーって話になって。まあ毎年ネットでも話題になるやつですよね、女性社員が一人なんぼってお金出してチョコ買ってみたいな。「女性社員からでーす、みんな好きに食べてくださーい」ならまだマシで、女性社員が分担して一席一席男性社員の席を回って手渡しで配ってくなんてパターンもあったりして。あれまじクソだるいよねーって話して。男側も男側でホワイトデーなんかしやなあかんからだるいよねーって話してて。弊社はだるいので禁止です。「同志がやる分には自由」じゃ甘くて、それだと結局「私らだけでやろうよ」グループが動くとやっぱ男も馬鹿だから鼻の下伸ばすじゃん、えこひいきになるじゃん、って考えたら一同からにするのが無難じゃん、ってなったら実質強制参加イベントじゃん、だるいじゃん。なので会社イベントとしての義理チョコは全面禁止。これはこれで「毎年数個本命チョコがどこかで交差してる可能性がある」という話になるので緊張感はあって良いです。

で、もう一つ出たのが、社員に誕生日プレゼントあげる社長ね。小さい会社だと案外結構いるのよね、そういうのしたがる社長。もうはなから完全に軍隊的な組織でもうその誕生日イベントがピラミッドを可視化するツールになってたりするなら逆にまだマシ思いますけどね、他の奴らは何ももらえないけど幹部候補だけが腕時計買ってもらえるみたいな。そんなんじゃなくて、普通に全社員になんか買ってやろう、そんな大した人数じゃないしみたいなことしたがる社長って結構いるみたいで。みたいでっていうか、社長業やってる知り合いの方でもそれを本当に「したいから」って善意のつもりでやってる奴けっこうおるし。そういう社長によって誕生日プレゼントイベント発生してる会社案外多いんだなーつって。

ほんで、これが厄介なのって、本人は善意のつもりでも、結局格付けにはなるんだよね。プレゼントの品の値段も全く同じには揃うわけないし、社歴長い奴にはちょっと高いもん、みたいな。人間だからそういうの自然と入っちゃうよねー、みたいな。いや、組織のボスは入っちゃダメだろって思うから「いやダメでしょ」って知り合いには言うんだけど「いやでもまあ、そんな大きな金額でもないし、気持ちだから」みたいな濁した言い訳が出てきて、「だから組織のボスが気持ちで差をつけちゃダメでしょ」言うんですけど。あと、金額以外の部分でもやっぱ気持ちが入るみたいな貰う方の話は面白かった。当たり前だけど気に入ってるやつ仲良くなるやつにはそいつが喜ぶもん選べるし、あんま知らんやつには無難なプレゼントなるし、みたいな。

で、また面倒なのが社長の誕生日ね。「み、みんなどうする?」みたいな。で、これがまたバレンタインのケースとは別の感じで足並み揃わねえんですって。お金出し合ってなんかする?って流れになってもちょっと高いもん貰った気に入られてるやつは「自分は一人で渡すんで」とか言ったりとか。だ、だる〜。

みたいな、そういう世の中にはだるい会社がいっぱいあるらしいよって話を帰ってから嫁に話したら目が醒めるような解決案が出てきて。

それが掲題の「イベントごとに社長がみんなに食べ物を振る舞う」です。

なんか嫁が言うには、僕の会社はそういうのだるいから要らんって理由で社内イベントがまじで一切ないんですけど、そういうの必要な人もいるんだよつって。全くのゼロも極端なんだよ、と。ただ、やりたい人やりたくない人金出したい人出したくない人いるから揉めるよね、と。じゃあ社長が全部振る舞う側で。

バレンタインもクリスマスもハロウィンも社長が全社員にお菓子を配る。そしたらスタッフに良くして気持ち良くなりたい社長は満たされ、不平等も無く、社員は負担もなく、八方丸く収まる。さすがに社長の誕生日は「いつも振舞ってもらってるし」とみんなで小銭出し合ってケーキくらい渡した方がいいだろうから「それも出したくねえ」って人には申し訳ないけど、これがダルさを最小にする方法だからそこは泣いてくれ。不平等がないだけでまだマシと思ってくれ。そしたら社長は見返りがあって嬉しいし、社員はだるい探り合いをやる必要もないし、季節イベント感は会社の文化も残るし、これでいいのではという話になった。

嫁の妙案にただただ感心したというだけの話でした。この手の話で困ってる勤め人の方は是非こちら提案をしてみてください。まあ、この案が提案されて通る会社ならこんなだるいことなってねーわって実態はわかってるんだけど。それでも落とし所としてはね、ここはかなりちょうどいいなと思いました。以上です。