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私の真意を決定するのは私ではなく貴方だ。

 僕は、不本意に人に嫌われるのが嫌いだ。こんな奴にゃあ嫌われたって構いやしねえやと嫌われにかかった態度に出て嫌われるぶんには一向に構わないが、こっちにその気もなしに知らぬ間に嫌われてしまうことが僕は非常に怖い。そんなの絶対に嫌だって寝てる時の僕だって布団を抱きしめながら思ってる。僕は、嫌われたくない人に嫌われたくない。そして、この世界には嫌われたくない人が大変に多い。それ自体は良いことなのだけれど。それが日々を生きて息を吸う吐あする僕の不安のほとんど全てだ。

 そんな話をした時に思い出すのは、とある友人の言葉だ。彼は、お世辞にも要領の良い気の利いた人間とは言い難かった。端的に言えば全てにおいてどこかひとつ抜けている人間だった。しかし彼は小賢しいことは言わないし人の言葉をそのままに受け取る度量があったし、そこにはいくつかの理由があるのだけれど、まぁ要するに気持ちの良い人間なもんで彼のことを悪く言う奴は、僕は、だってずっと見たことがなかった。

 それである時に酒の席だかなんだかで、人に嫌われるのは怖いよなという話をしていた時に、彼に対して「まぁお前にはわからねえだろうけどな」と言ったことがある。そのままの意味でそう言った。だって彼が嫌われてるのを僕は見たことがないのだ。嫌われることがなければ嫌われることの怖さも他人事に違いなかろう。しかし、そこで彼はこう言った。

「いや、俺だって人に嫌われたくないで。その証拠に俺が嫌われてるの見たことないやろ」

 これはちょっとやられたな~と今でも思い出す。くらいなんだからやっぱり大したもんだ。

 一見頓珍漢な台詞であるが、何よりこの言葉のすごいのは、結果を以って内心を忖度しようという態度である。もしかすると本来はこうあるべきなのかもしれない。

 世の中には例えば真意システムとかいう言葉がある。「皆が私の文章を読み違えてるだけだ、私の真意を理解してくれればきっと納得してもらえるはずだ」みたいな。けど、彼の姿勢に学ぼうとするならばそうではないんだよなぁ、「私は人に嫌われることを良しとしない人間だ」を証明する術は「人に嫌われない」しかない。同様に、例えば「私はズルい人間ではない」を証明するためには「人にズルくないと思われる」しかない。真意が伝わらなかった時点で、あなたの真意は、あなたの主張する真意ではない。あなたの本当の真意は、第三者が決定する。 

 多様性なんて言葉が持て囃されて、猫も杓子も猫のおひげも、もうなんだかてんやわんやである。大抵の思想やスタンスなんてやつは所詮は相対的なものであって、他者との差異、つまりグラデーションのどこに位置するかによって解釈されるものだ。しかし多様化が進む最近においてはグラデーションどころか玉虫マーブル曼荼羅模様、他者それぞれの考えをどのように相対化してマッピングしてそして自分はその中のどの位置に胸を張って立とうか悩ましいことがしばしばだ。しかし、そこでいっちょ一発「私はこのような考えを持った人間だ」と宣言してやることでまるっと満足してはいけない。あなたの宣言はただの宣言にほかならない。あなたが宣言したとおりの人間であるかを判断するのはあなたではない、それは他ならぬ他者が宣言した後のあなたの振る舞いを見て判断することだ。

 私の真意を決定するのは私ではなく貴方だ。

 もちろんこの言葉、自身の振る舞いと思考を都度振り返り改めるべき部分を改めてアップグレードしていくために使う言葉だ。自身の正当性をしばしば過信しすぎてしまうことに備えた御守りだ。この言葉を自分ではなく他者に向けて使うことも決して出来なくはないのだが上手に使うには非常に難度が高いテクニカルな言葉であるため、私はあまりお勧めしない。こんな言葉を乱暴に振り回していたらあなたなりの真意に関わらず話にならない大馬鹿野郎だと周りに忖度されてしまいますよ。以上です。

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