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「誰も傷つけない表現などない」についての僕の暫定的な見解

twitterを眺めてたら誰かが「誰も傷つけない表現などない」あるいは「誰も傷つけない表現はつまらない」とかなんかそんな、ちゃんと読んでないので細かい言い回しは忘れたけどなんかそんなような手垢のついた話題をやっていて、でも俺もずいぶんしばらく手に取ってない話題だなと思って、引き出しから久々に取り出してみたらこれがまあ埃も被ってるし手垢どころか油がじっとりと滲んだようにベタベタだ、良い機会だしここはひとつこいつをピカピカに磨き上げられやしないか試してやろうと手に取ってみた。なので、今回はネットなんかでもよく言われる「誰も傷つけない表現などない」というフレーズについて今日は考えたいと思います。

twitterのその人からするとエアリプめいた行為に見えるかもしれないけど、いや全然そんなんじゃないから。あの、誰かがテトリスやってるの見てたら自分もテトリスやりたくなるみたいなのあるじゃん、あの感じ、それはそのテトリスやってる人と対戦テトリスしたいって意味じゃないから、ただ一人でやりたいってだけだから、エアリプでも説教でもましてや対話でもなく、誰かがテトリスやってたら俺もテトリスやりたくなるみたいなのあるじゃん。で、テトリス始めて気付いたら4時間経ってるみたいなのあるじゃないですか、昼飯食いたくなる程度に腹減るまで久しぶりにちょっとだけやろうかなと思っただけなのにいつの間にかもう15時回ってるみたいな。15時までに銀行行かなくちゃならなかったのに~みたいな、今日の18時までに2000万用意しないと息子を殺すって脱獄囚から言われてたのに~、脱獄囚から家の電話にそういう連絡来てたのに~、息子がクラスで一人だけスマホ持ってなくてLINEできないから「こちとらゼロ年代生まれ、今更家電(イエデン)になんか電話できるかよ」ってクラスのみんなからハブにされちゃって、息子も俺に似て気の強い子供だから「ゼロ年代て!おっさんしか言わん言い方やないか!いい歳したおっさんが『一昔前』って意味で使ってるだけやろ!」とか言い返すから余計にいじめられちゃってそのせいで下校時一人になってしまったばかりに脱獄囚に捕まって、ごめんな息子~、ケチケチせずにスマホくらい買ってやっていれば、せめて15時までに銀行に行けていれば。15時までに現金おろすのお父さん忘れちゃったよ~。既に受け渡し現場には100人体制の警官が配置されてるのに絶対ATMじゃ2000万おろせないよ~絶対窓口じゃなきゃ無理だよテトリス時間泥棒すぎるだろ~みたいなそういうことってあるじゃないですか。そんな感じなので気ままに始めます。

まぁ、始めます言うまでの間に既に色々傷つけまくってる可能性がありますからね。「マジメに2000万円必要としている脱獄囚もいるんですよ!!」って怒られる可能性ありますからね。そっち!?「最近は国外逃亡って言ったって空港の警備も厳しくなってるし、何より東南アジアの物価は確実に上がってきてるんで仮に15年逃げるとしても2000万円ってのは最低限ギリギリの譲歩した金額なんですよ?それをテトリスのせいで間に合わないとか不謹慎じゃないですか?」って炎上させられたら僕はもう何も言い返せないですよ。削除するしかないですけど、リアルに「脱獄の場合は時効が停止するので15年逃げるだけじゃダメです」みたいな糞リプは来る可能性あるからね詳しい法律は全く知らないで書いてるんで。そんなわけで、ちょっと文章書くだけでも大変ですよ、どこで誰を傷つけるかわかったもんじゃないですから。はい、これは嘘。想像力を使えばわかったもんじゃないというほどの話ではない。例えばの話ですが(表現する動機は人それぞれなのであくまで例えばです)「こういう風に読んでくれて面白がる人がいるはずだ」というのも想像力ですが、同様に「こういう書き方をすれば傷つく人がいるはずだ」というのも想像力です。むしろこの2つが同時に働いて初めて想像力なわけで、「俺は誰が傷つくかについては想像せず、楽しんで読んでくれる人のみを想像する。俺は俺の想像力をそのように使う」というの大変に幼稚で独りよがりだなと僕は個人的には思います。なので、特に「人を傷つける」ということに関してはなおさらに、想定外に傷つけてしまった場合は僕は書き手は素直に反省するべきだと思います。もしそれが最初から「これで傷つく人もいるはずだ」と思いながら書いたなら、全然セーフじゃないんだけど仕方ねえのかな、「これくらいの割合の人が、これくらいの熱量で怒るはずだ」って想定の範疇内でそれでもそう書くほかなかったなら仕方ねえかなって気がする。その割合とか熱量が度を越えててもう自分の表現がまともに(良い風に)判断してもらえないような状態になってたらそれは想定どおりでもダメですけどね、ていうかそれ絶対想定どおりじゃなくてただの強がりだろ、降参してさっさと謝っとけや。となります。なので、今の僕で言えば子供にスマホを持たせないのが絶対の正義だと信じてやまないお父さんお母さんの一人や二人が月~金で月20日僕にリプライで死ねって言い続けたとしてもそれは想定内だから問題ないわけですよ。土日は家族サービス優先なところまで含めて想定内ですから。

さて、ここで考えたいのはじゃあ「誰も傷つけない表現などない」というのは真なのでしょうか? 僕の見解はNOです。自分にそれができないからと言って、「できっこない」と決め付けないでください。では「誰も傷つけない表現など面白くない。面白いことを言えば誰かが傷つくのは仕方のないことだ」というのは真でしょうか? 僕の見解はNOです。自分にそれができないからと言って強引に自分を正当化しようとしないでください。ではでは「誰かを傷つけるかもと思っていたら何も喋られなくなる」なら? 僕の見解はYESです。誰かを傷つけるかもと考えるなら何も喋らないのが一番の正解です。誰も傷つけないためには喋らなければいい。そもそも誰もお前に喋ってくれなんて頼んでない。お前が勝手に喋りたいから喋っているだけじゃないか。「喋ることでそれが誰かの役に立つかもしれない、傷つけてしまうこともあるかもしれないが、それだけじゃない」みたいな安い使命感はやめましょう、自分で喋りたいから勝手に喋っててそこに生まれる自分の咎を正当化しようとしてはいけない。根本的にお前はお前のワガママで喋り続けているに過ぎないのだ。

しかし、現実問題として人間は未熟であるがために「誰も傷つけない表現」というのはなかなか実現されないものです。かと言って人を傷つけることがあるのは当然だ、いちいち気にしてなんかいられないというスタンスは控えめに言ってまあしんどいなと思います。というのも、そのようなスタンスで行われる表現というのは身も蓋もない言い方をすれば「傷つけても構わない人間と、傷つけられるべきではない人間とを、俺は俺の主観で区別し、その判断は正しいものとしておっぴろげにする」という宣戦布告に等しいからです。お前は何様なんだとなるのは当然です。なので【基本的に】「わかる奴だけわかりゃいいし、俺の表現を賞賛する奴以外のことは知ったこっちゃねえ(どうでもいいからそこに想像力を使う気もねえ)」ってスタンスが滲み出てる表現ってのはあまり好きじゃありません。というか、そんなごく一部の人間のことしか考えてない表現ってあんまり面白くならねえだろって気がする。

が、ここで【基本的に】と書いたのは、例外が結構あるからです。というのも宣戦布告して生きる必要がある人ってのは結構世の中いるもんだからです。そしてそれが本当に必要な宣戦布告だったのか、客観的に評価を下すことはなかなかに難しく、当事者とその当事者を観測したそれぞれが別個にそれぞれの判断を下すほかないのでまたややこしい。

「誰が言ったか」と「何を言ったか」はどちらを大事にするべきかって話題もネットで何回も何回も出てくる話題ですがこれもなかなか馬鹿馬鹿しくて、両方に決まってるだろと思うわけです。つまり、その「何を言ったか」が含む宣戦布告を行うに足るほどに「誰」はそんな宣戦布告する動機を備えていただろうかってのはすげえ大事だなと思うわけです。この「誰」の部分の動機が十分で真摯であると判断された場合には結構乱暴な一部を庇うなり褒めるなりするために攻撃的なことを言っても案外許容されたりとか雑なところを補完してくれる第三者が出てきたりするもんなんですよね。逆に、大した動機もない癖にしゃしゃり出てきやがったと判断された場合(その判断の真偽は不明)、結構まともなことを言ってるはずなのにぶっ叩かれたりもするわけです。ここらへんの匙加減はもう本当にケースバイケースというか個別事例ごとに語るほかない感じですけど、それでもまぁ宣戦布告って言い方をすると大袈裟ですけど、うまいこと自分を表現できてる人ってのは小出しに小出しに自分が何かを表現する動機も開陳して、小さい宣戦布告を繰り返して、やっぱりあんまり誰かを乱暴に傷つけないよう配慮してやってる印象なことがほとんどですけどね。

僕個人の話で言っても、そんな大それた宣戦布告をするほどの動機は主観的に見ても客観的に見ても特に自分は持ち合わせていない、と判断しているので、八方丸く収まるような愉快な文章になることを心がけています。が、言わねばという時もまぁ無くは無いので、そういう時は、まぁなんかここまで書いてきたようなことを考えてできる限りうまいことやろうとしています。そこに関して諦めたことは無いです。

と、まぁなんやかやまどろっこしい抽象的な話をぐりんぐりんして来ましたが、実際問題として例えばネットなんかでもね、みんながあーだこーだ喋って自分も喋ってで傷ついた傷つけられたなんてのはしょっちゅうなわけなんで、お互い気をつけようとは思いつつもある程度はどっちかになることはあるからねって覚悟は必要ですよね。それはちょっと傷つけられたくらい気にすんなってことじゃなくて「そういうことがある世界で、それを気にして怒るのもパワー使うからそこでパワー使う覚悟はあるか?」ってことだとか、「傷つきましたって文句言われることもあって謝るのもパワー使うけどその覚悟あるか?」ってことだとかで、なんか「性格的にSかMか」みたいな話題あるじゃないですか?あれ、普通に考えて「両方いける」が望ましくない?「絶対Sじゃないと無理やわ~」とかただのワガママじゃない?とか思うんですけど。これ以上、詳細に比喩を展開すると余計ややこしなるのでやめときますけど、そういうことじゃねえかなーとは思うんですけどね。

余談の禅問答なんですが(なんやねん余談の禅問答て)「誰も傷つけない表現」の困難さはよく話題に上がりますが「誰しもを平等に傷つける表現」も同様に困難を極めますよね。僕はどうにもそっちの方にも興味があります。今僕が思い出したのは手塚治虫の『ブッダ』なんですが、ある時までブッダを頑なに拒み憎み続けていたけどやがてブッダの言葉にすがるようになるキャラクターがたくさん出てきますよね。もしかすると「誰も傷つけない表現」と「誰しもを平等に傷つける表現」っていうのは究極同じことなのかもしれません。ちょっと思いついて始めましたが僕やっぱ禅問答あんま好きじゃなかったです。ていうか禅問答ってこういうことなの? ほんとに?

それでは最後に、今週の傷つけクイズ。丸の中の文字を予想して頭髪が薄い人を傷つけよう。

【クサレ〇ゲ】

正解者の中から抽選で一名様に、使った後はそのままゴミ箱へポイ、だからお手入れ不要で初心者でも簡単・安心の使い捨て鼻フック、男女どちらの鼻もフックできるフリーサイズ10個セットをプレゼントします。応募方法は最寄のハゲに正解だと思う答えを伝えたうえ、僕の住所をそのハゲに教えてあげてください。たくさんのご応募お待ちしております。なお、当選者の発表と筆者の鼻の安否は賞品の発送をもって代えさせていただきます(9個しか入ってなかったら俺の鼻がフックされてる可能性が高い)。以上です。