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作り話をさも体験談のように語る弊害について

僕は甲本ヒロトというミュージシャンが大好きなのだけど、彼が作った『ながれもの』という歌の一節に「おもしろいことを考えてみんなを楽しくさせたいな」という言葉があります。僕もみんなを楽しくさせたいなぁと常々思っています。その直後には、「打ち明け話にうなづいてみんなと仲良くなりたいな」という一節が続きます。たぶんここでいう「おもしろいこと」と「打ち明け話」は対比になっていて、前者は架空の話で後者はもちろん本当の話なんだと思います。タイトルであり主人公でもあるこの『ながれもの』という男が架空の話を体験談として語っているのか、それとも単に空想話として語っているのか、それはわかりません。

個人ブログの嘘はどこまで許されるのかなって話 - ネットの海の渚にて

こんなのを読みましたのでなんか書きます。しれっと書くのもアンフェアなので一応、一番最初のネタ元の人にもidコールはしとこう。id:juverk

僕、嘘自体は、そんな単体では悪いものではないと思うんですね。結局使い方次第でノーベルのダイナマイトと一緒なんですよ。ノーベル、ダイナマイトの武器化にノリノリだった説はややこしなるんで以下全スルーでお願いしますね。工事をラクにするつもりだったのに武器化されてかわいそうなノーベル設定で読み進めてください。ノーベル役の俳優は西田敏行でお願いします(あいつ戦争好きそうやな)。

笑える嘘であれば別にオッケーなんじゃないの、とも思います。ただ万人にとって笑える嘘なんてものはありえません。中には「嘘っぽいから」というそれだけの理由で笑えない人もいるかもしれません。事実ですら万人にとって笑えることなんてないんだからこりゃあまぁ当たり前の話です。更に笑わないだけならまだしも、「嘘だろ」と攻撃してくる人もいるかもしれません。これもまた単に事実を述べた時にですら起こりうることです。こういうような話になると、信じれない人が信じてる人を批難したり、信じたい人が信じてない人を批難したり、そんな流れになるシーンをちょいちょい見かけたりするんですけど、そこはもういいんじゃねぇかなとか思うんですよね。僕の持論ではコミュニケーションは二人の成功か二人の失敗かのどちらかしかなく、であるならばそこにあるのはどこまでも話者と聞き手との一対一の関係にて行われる綱引きだけに過ぎません。事実だから信じて欲しいのに疑われたらそれは話者と聞き手の二人の失敗だし、明らかにつくべきでない嘘なのにそれを本当だ信じてくれと言われてしまったら言われてしまったその時点でやっぱりそれも聞き手と話者の二人の失敗なんだろうなと僕は思います。ブログでもおしゃべりでもいいですけど、一対多の語りに関してでいうとそういう一対一での成功失敗の積み重ねが「その語りはトータルで見て成功だったか失敗だったのか」を決定する、ただそれだけなんだと思います。これは別に嘘か本当かの話に限ったことでもなく聞き手の母数を爆発的に増やすやり方を使えばたいていの場合は話者にとっての失敗は成功以上の速度に増えていくわけで、例えば炎上商法の弊害を考えた時にも同じような話になるしかねぇだろって感じなんですけど。

だいぶ嘘つきに優しい見解だよなってことは自分でも重々承知ですが、この寸法でいけば明らかに嘘でかつその嘘が人に悪影響を与える場合は例外なく火達磨になることが決まりきってるので、そう信じてるので、僕個人としてはまぁこんくらいで十分なんじゃなぇのかなと思ってるわけです。

で、ここまでが客観的な話です。嘘でうまくいくこともあれば悪くいくこともあるよ、程度によるよ、人に迷惑かけず怒られないならいいんじゃないって話なんですけど、ここから先が個人的な話で「嘘はやめといた方がいいよ個人的にはそう思うよ」って話になります。

単純に、夢想して妄想したことを事実のように語ってしまうのが癖になってしまうと、「僕はこんなことを夢想して妄想しました」って話を面白く出来なくなるんですよ。あと、嘘自体は別に誰でも大なり小なりついて当たり前だと思うんですけど、そういう妄想する人・嘘をつく人の話を面白く出来なくなっちゃうと思うんですよね。

僕の大好きな超好きな俺プレゼンツの話でですね、もう死んじゃった大好きなじいちゃんがいるんですけど、じいちゃんが酔っ払うと「昔クマに会った話」をするんですけど。「いやーあれはでかいクマだった。こんなでかいクマがな、これくらいのところにいて」っていう話をじいちゃんは僕が盆や正月に顔を出すたびに酔っ払って語りだすんですけど、じいちゃんのジェスチャーを見る限りに明らか年々じいちゃんとクマとの距離が縮まってるんですよ。「これくらいのところにいて」っていうじいちゃんの語り口がね、最初の頃はたぶん20mくらい離れてたようなニュアンスに受け取ってたんですけど、数年後には完全に俺のすぐ目の前まで来てたよみたいなノリで喋ってるわけですよ。そういうのあるじゃないですか。じいちゃんはそれこそ悪気無く盛り上がってるだけだから、でも完全に数年前はそんなに近くなかったよみたいな、そういうのあるじゃないですか。僕こういう話が大好きなんですね。愛らしいじゃないですか、それはもう僕にとっては嘘じゃないです、脳のエラーです、優しいエラーです。ただ、これを面白がれるのは僕が脳のエラーに自覚的で、嘘を事実だと言い張りたいけど言い張らないような、そういうところを自分で理解できてるからこそだと思うんですよね。「俺の脳を経由して俺の口から飛び出す話は嘘偽り無き真実でごわす」なんて顔を普段からしていたら、こんな話はとてもとても、面白がって人に言えないと思うんですよ。嘘をつけばつくほど嘘を許してはいけないポジショニングをとるハメになってしまいますし、そうなると人の嘘を面白がることができなくなると思うんですよ。

僕が人生で経験することなんてほんのわずかで、それは誰にとってもそうで、その経験の中で脳が繰り出す妄想やら事実誤認やら、そういうところにこそ人間の面白さは寄ってるような気がするので、「なんでも事実のように語る」ってのは、単純に悪手というか自分の可能性を狭めてるんじゃねーかなーみたいなことは、そういえばしょっちゅう思ってるような気がします。

まーこの話題の元ネタの人が嘘か嘘じゃないかはあんまり興味ないし断定する気もないんですけど、とりあえず僕はやっぱり妄想とかたらればを軸に喋っていきたいなぁと思ってるので、みなさま今後もお付き合いのほどよろしくお願いします。結局あの後西田敏行全然出てこなかった。まぁいいや。以上です。