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むかつくとかそーゆー気持ちがない話に全力で相槌します

もう飽きたと思ったかい? いいや、そんなことはないんだよ。ほら、おじさんの針小棒大をもっとよく見て。口を半開きにして見てごらん。というわけで、むかついた話はまだまだ募集中の全力相槌コーナーです。

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むかつくとかそーゆー気持ちがないんです。ネタになりませんよね?

むかつく話を募集してるっていうのに、むかつかない、とのお便りを頂きました。「お前趣旨わかれや」と僕がこの質問者さんにハラワタ煮えくり返ることは簡単なのですが僕ももういい年なので落ち着きます。

「むかつく」という言葉、これ万能なわけなんですけど、逆に言うと定義はひどく曖昧な言葉なわけです。というか言いようなわけです。この人は「むかつくことはない」と申しているわけなんですけれども、え、そうなの? むかつくじゃないですかめちゃめちゃむかつくじゃないですか、蛇口を捻って勢い良く溢れ出る水を眺めて「これ全部日本酒やったらええのに」と言ったのはバーベキューで酒飲んでご機嫌になるもビールサーバーが空になって意気消沈した俺ですけど、「むかつく」という感情をそんなに忌避する必要はないんじゃねぇかなと思うんですね。捉えようによっちゃ水が日本酒になるように、むかつきは生きる活力になりうる、と僕はそう思うんです。それは一先ず「むかつかない」と言っているだけに過ぎず、「むかつく」と言ってしまえばむかついたことになるようなエピソードはそこかしこに転がっているはずです。少なくとも、俺は、むかつく要素がない人生を生きている人をこれまでに見たことがありません。そこにあるのは、「むかつく」と言ってしまうか言わないでおくかという選択肢のみです。「うめぼしにご飯」と「ご飯のおかずにうめぼし」には何だか越えられないニュアンスの差が見てとれるわけです。うめぼしはおかずじゃあねぇだろう。あくまでうめぼしでご飯を食う、それだけよ。

ある程度の年齢になって、青春を駆け抜けた後に「あ、この後まだけっこう人生あるな」と気付いた瞬間、平穏とやらを求める人は思いのほか世の中にたくさんいるものなのだなぁということに最近やっとこさ気付いてきました。その中には「むかつく」という感情を遠ざけようとするタイプの人種も多分に散見されまして、この質問者様もいわゆるそういうタイプの人なんじゃねぇかなと思うんですね。何でもそうですけど、大体人間が日々何かしらを口からぽろっとこぼす原動力は「好かれたい」か「嫌われたくない」かのどちらかなんだと思うんですけど、後者を重視する余りに「むかつかない」と人は言ってるんだと思うんですけど、好かれるためにはむかつきが必要ですよ。好かれるためにはむかつきが必要ですよ。もう好かれる努力もめんどくさいとおっしゃるかもしれませんが、そこで「もう自分はそういうのとは関係ないから」という態度をとるのはもったいないというか意味がないというか端的に悪手です。貴方が興味がなかろうと、貴方の周りの人はずっと貴方を見ている、興味ないなら興味ないなりに見てるし、ていうか人が人を見るのって実のところほとんどノーコストなんだ、貴方が何気なくそういうレイヤーを退こうとしたところで、相手はそれ以上に何気なくただ貴方を見て貴方に対して印象を抱くのだ。じっとしていれば、じっとしたままに、そのままひっそりと死ねるかもしれないけれども、それが果たして満足なのかと僕は思うわけです。僕はその人に「なんかじっとしたまま死んだな。」としか思えないわけです。僕は僕ですよということは大変に難しい、それはきっと貴方だってそうだ、こうも揺蕩うものかねと自嘲的に笑いながら僕も貴方も自分をやめられずに生きているはずだ、ならばせめてこそむかつきましょうよと僕は声を大にして言いたい。僕は僕を僕たらしめられないけれども、僕がなじめない何かに腹を立てたその時、僕はきっと僕自身自覚できていない僕の一番いるべき場所の方角に向かってそれはそれは大きな声で「おーい」と言っているのではないかと、僕はそういう風に考えているのです。

そういう意味でやっぱむかついた方がいいよ、と言ったところでむかつかない癖がついてる人がおいそれとむかつくことは難しいとは思うんですけども、僕にはとっておきの秘策があるのでご安心ください。好きの反対は嫌いではなく無関心、という言葉がありますが、この論法でいくとむかついた話の反対もまた無関心であり、むかつかなかった話は無関心ではありません。質問者様はどうぞむかつかなかった話を思い出して僕でも誰でもいいですけど、誰かに話してみてください。きっとその先にとびっきりのむかつきが待っているんじゃねぇかなと思います。

何をそんなにむかついてるんだ、というテンションでお送りしているわけですが、比喩としての精度よくわかんねぇけど溺れてる時の方がよっぽど筋肉のポテンシャルが見えるんじゃねぇかなとか思うんです、アニメみたいな水色に透明な水を思い浮かべてそこでもがき手を伸ばす誰かを想像してみてください、きっととてもよく想像できるんじゃねぇかなと思うんです。その想像される対象は僕にも私にもなりうるわけで、むかつけばむかつくほどに、貴方が友達になれない人は遠ざかり、貴方の友達になれる人だけが溺れる貴方の筋肉をすぐ傍で見守り続けるんじゃねぇかな。そんな事情もありますので、質問者はそんなこと言わずに是非ともどんどんむかついてください。むかつくのが難しいのであれば、むかつかなかった話を教えてください。それも十分面白いからね。むかつかない人にむかつかなかった話を聞いたら、たぶん、「それむかつかないんだwww」って話が飛び出すはずですから。それはきっと貴方の輪郭をよりハッキリとさせる面白話になるはずです。まーむかつくのしんどいしパワーも使うんでダルいんですけど、結局そういう効率度外視が、一番手堅い自己紹介になるんじゃねぇのと僕は割りと本気で思っています。

なお、そういう考え方に基づいて「別にむかついてないけど、むかついた話として披露するのが一番手堅いな」みたいなノリで喋ったりブログ書いたりして頭おかしいと思われることもあるのが、この僕こと俺です。どうぞ引き続きよろしくお願い致します。以上です。