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ダウンタウン以前以後みたいなものはやっぱりあるような気がする

気がするだけなのでそれが具体的に何なのかよくわからんので考えました。が、そこまでしっくり来る結論は出なかった。

関西人からしたらダウンタウンがディスられてるのが悲しい

http://sho-yamane.hateblo.jp/entry/2013/10/07/032712

読みましたー。ので何か書きます。けど、書く前からこれは絶対うまくまとまんないけど丁寧に時間書けりゃうまく書けるかというとそんな話でもないのでとりあえずふわっと投げる程度で。

元記事の人がたぶん学年1コ下くらいだったのでダウンタウンの直撃っぷりは大体同じ感じかなと思います。原風景としては俺がごっつ観たいのに親父が頑なに大河ドラマ「秀吉」を見たがって毎週大揉めしてたのとか覚えてますね。他の大河ドラマを親父が熱心に見てたような記憶はないのであれも今になって思い返せば竹中直人という下積みの長い演技派がついにフューチャーされて大河の主役を張るとか何としても見届けてやらねばならん、みたいな今や押しも押されぬ阿部サダヲに俺は前から目をつけてたよみたいなそういう普通の俗っぽさを親父も持ち合わせていたんだろうなみたいなことを年とって親も大人もただの人間だなと普通にわかるようになってきた今なら思える。

なんとなく言いたかったことって言うのは掲題のあたりなんですけど、この話をするうえで一つものすごく大きな問題がありまして、そんな感じの世代なのでもし仮にダウンタウン以前以後が明確にあったとして、以前のことを体感としてちゃんと知らないんだよね。めちゃめちゃ致命的じゃん。なのでかなり想像で書きますけどご容赦ください。

たぶんそれ以前にもお笑い芸人の出ているテレビ番組が人々の日常におけるコミュニケーションに影響を与えたケースって別になんぼでもあると思うんですけど、なんかこうダウンタウンの登場によってそれまでの芸人さんの影響力なんかメじゃないくらい僕らの日常の会話のやりとりってのは大きく変化したんじゃないのかなぁみたいなのを何となく思うんです。で、何でそうなったのかというとここがすげぇ想像なんですけどダウンタウン以前の芸人さんの笑わせ方ってフィジカルな部分への依存度がすごく高かったんじゃないのかなぁというような気がするんです。漫才ブームにしてもすごいハイテンポのマシンガントークが王道で、当時番組を回す係の人たちだったと思われる(そこらへんすら曖昧かよ)紳助にしてもさんまさんにしてもビートたけしにしても喋るのはやたらめったら早かったりテンションが異常に高かったり、そこが売りでありやっぱハイテンポで喋りまくってこそ芸人みたいな空気はあったんじゃねぇかな。で、そういうテンポを伴った喋り口っていうのはもうそれだけで一種の芸として認識されてたように思われる。当時のお笑いのもう一つのメインストリームとしてはドリフとか志村けんとか欽ちゃんとか?かな、あれは話術じゃなくて明らかに見世物だから明らかに芸だよねみたいな雑なまとめ方で勘弁してください。当時のお笑い芸人の武器は芸であり、芸は選ばれたものにしか与えられない特殊技能であり一般人が真似する必要なんてないしなかなか出来やしないし真似るにしても彼らが使うギャグやフレーズを流行語的に消費するのがせいぜいだったのではないでしょうか。

で、そこにダウンタウンが出てくるわけなんですけど、圧倒的な面白さを世間に見せつけた二人の喋りって実はすごくフィジカルへの依存度が低かった*1。喋りのテンポもゆったりで、島田紳助の喋るスピードを真似しろと言われればそれはちょっとしんどいよって人はたくさんいるかもしれないけれども松本人志のスピードでしゃべれない奴はもうちょっと頑張れよ普通にできるだろと言えてしまう程度のゆるさでした。じゃあ例えばスピードとかの代わりにダウンタウンは何で笑いをとっていたのかっていうとそれはそもそもの発想の豊かさとかもあったと思うんですけど、それ以上に相手との関係性を推し測っての押し引きだったりコミュニケーションの中で相手のキャラをどこかに嵌め込んでしまう会話の妙を押えるみたいところが本質だったんじゃねぇかなと思います。

ここらへんうまく言えないんですけどつまりダウンタウンの面白さというのをそれまでの芸人と比べた時、それは「特質的な芸」ではなくて「一般的な技術」のように世間には見えたんじゃねぇかなという仮説です。で、面白いことを言うというのは「芸」じゃなくて「技術」なんだという見え方になった時何が起こったかというと「みんなある程度できる(はずだ、あるいはべきだ)」みたいな空気が発生したんじゃねぇのかな、と。当時天才の名を欲しいままにしていてかなりオンリーワンとして扱われていた松本人志なんですけど、実はその一方で「松本のような技術を用いればさんまのような天性のハイテンションや、紳助の圧倒的なマシンガントークが使えなくても、誰でも面白いこと言えるはずだ」みたいな一般人が面白いことを言うにあたってのハードルは実は逆に下がっていって、その結果一般生活の中で万人が万人に求める面白さのハードルが上がったんじゃねぇのかなみたいな。「これくらい出来てくれなきゃ困るんですけど」みたいな。日常のコミュニケーションの中で笑いを交えるみたいなことが、「芸」という特殊技能から国語算数理科社会などの教養みたいな認識に移し替えられていったみたいな。

コントとかもちろんすごくて斬新でめちゃめちゃ面白かったんですけど、実はこう考えると社会全体への影響を与えたのはHEY!HEY!HEY!でお笑いの素人であるミュージシャンと日常会話のスピードでトークしてもちゃんとやればこんなウケる感じなりますよ、みたいなそういうところの方がでかかったんじゃねぇかなぁ。で、「強固なフィジカルがなくてもウケることはできる」だけみんな学べばよかったんだけど、何せそういうことをやすやすとこなしてるモデルが松本人志しか当時いなかったのでみんな松ちゃんに憧れて松ちゃんになろうとした、みたいな。今でこそ長い時間をかけて「コミュニケーションや関係性で遊ぼう」みたいなノリがだいぶフラットになってきて芸人たちも伸び伸びとテレビで騒いだりしてますけどそういうノリというか概念というかを最初に普及させたのはどう考えてもダウンタウンだったし、今のこのわいわいガヤガヤやってて身内ノリを揶揄されたりもする状況というのもボキャ天世代みんな松ちゃん目指しててすげぇ尖ってギスギスしてたみたいな話とか今でこそ笑えるけどそういうどうしようもなく悲惨な過渡期を経ないことには一生やってこなかったような。ダウンタウン直撃世代の自分にはどうしてもそんな気がしてしまうのです。

まー言ってしまえば僕にはそう見えた気がするってだけの話で別に全然そんなことはないのかもしれない。むしろどうだったかを色々聞いてみたい。特にそういう人前で面白いことを言おうとするのがあまり好きではない人とかに、あの時期どれくらい空気が鬱陶しい感じに変容してたとか変容してなかったとか、なんかそういう話があればすげぇ読みたい。以前もロールモデルとして明石家さんまとか紳助とかがいて人に面白さを強要するウザいやつはなんぼでもいたよ、みたいな話であればごめんなさい妄言でしたで終わるのでそれはそれで別に良いですし。

余談として、松本人志の現在についてですがダウンタウンDXとかキングオブコントの司会とか見てたら精度は相変わらず恐ろしく高いですし、そこらへんはあんま衰えてない気がする。ただしそういう部分をこなす「技術」を惜しげもなく広めたのも彼で、普通に気の利いたこと言うというのは割と誰でもできる時代になってしまいそこらへんの凄さは相対的に下がったかも。映画は、毎回見てますけど、まぁ微妙だなと思いつつ、それでも今後も毎回見るんだろうと思います。余談でした。

自分の中でも本当かよと思いつつふわっふわ書いてるんでえらいとっ散らかってて申し訳ないんですが、なんかそんな感じです。よくわからん。本当にふわふわ。またゆっくり考えます。以上です。

*1:それまでの芸人の話術はダンスに例えると身体のキレみたいなものがすごく重要だったけれども、ダウンタウンの笑いは「ここでこういう振付で踊ればウケる」みたいなところが重要だったので従来の笑いに比べて踊りのキレそのものはそこまで問われなかったみたいな。結果一般人にも真似しやすいモデルだった的な。間がどうとか繊細な言い方のニュアンスとか言い出したらキリがないけれども、少なくとも100m12秒で走れなきゃ話にならないようなノリのそれまでのお笑いに比べればダウンタウンの笑いは一般人には逆に簡単そうに見えた。ような気がする。あと、フィジカルに依存しないということは言葉の組み合わせこそが最重要であるわけでフィジカルなんて無いに等しくみんな使える武器はテキストとHTMLだけでよーいどんっていうインターネット黎明期のコミュニケーションと松ちゃんの笑いって今思えば相性よかったのかな、とか今なんとなく思った。

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