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僕の「あちら側」

自分にとってのふつうとは違った形をしていて得体が知れなくて正面からまじまじと見据えるのがなかなかに堪える存在どもを人はたびたび「あちら側」に追いやる。そこには大抵の場合、嫌悪か憐憫か嘲笑かの色がつく。

そういう態度がいかにも立派だとは当然言い難いわけだけれど、それが彼らの世界とうまくやるためのせいいっぱいなのかもしれないな、とも思ったりする。

みんな、せいいっぱいでいっぱいいっぱいなんだなということが最近は想像できるようになってきた。みんな自分が一番かわいくてその次にかわいいものと次の次にかわいいものとを自分の都合で選んでる。そうして自分のかわいいものを全部抱え込むより遥か手前で気付けば両手はいっぱいいっぱいになっている。人間は優しくしたい風には優しくできない。人間は優しくしたいだけ優しくはできない。人間が優しくない生き物だとするならば、その理由は1日が24時間しかないからだ。1年でひとつ歳を取って100を待たずに死んでいくからだ。僕の目にはそんなふうに映っている。最近になって逆に一周して、最初はみんなヒーローになりたかったんじゃないかと僕は考えるようになった。そしてヒーローの影ひとつ見えない、今が、ある。

いっぱいいっぱいで安易に他者を「あちら側」に押し込めようとする人がいて、そんな人らをまた「あちら側」の心無い人間だと解釈する人がいる。そこに大した違いはないんじゃないのかという気が僕にはしていて、忙しない50年だか100年にただ誰もが右往左往しているのだろう。だから「あちら側」なんてものは実のところ存在しなくって、あえて言うならば僕の目の玉を直に見ることができるお前ら全部をひっくるめてが「あちら側」で、「こちら側」は僕の中にしかなくって、世界のどこにも「こちら側」なんてない。ただ眼前の世界を誰にも頼まれていないのに自分のことみたいに抱え込む僕でいたいなといういつも通りの結論になる。以上です。