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福島鉄平『スイミング』『アマリリス』感想文

スイミング (ヤングジャンプコミックス)

スイミング (ヤングジャンプコミックス)

 
アマリリス (ヤングジャンプコミックス)

アマリリス (ヤングジャンプコミックス)

 

買って、読んだー。

 

紙と、ペンさえあれば。自由なのか。

僕も貴方もあの娘も彼も、書きたいことしか書けやしない。描けることしか描けやしない。僕に思いつかれなかったコトは死ぬまでついぞ口にされることはなく、心にもない言葉は心にもない言葉としてのみ僕の口を突いて出る。僕が叫ぶ自由は僕の想像する限りの自由にすぎず、果たしてそれが自由なのかと僕が自由と呼ぶ何かに問い喚き散らす僕は少なくともそんなに自由ではない。僕の口から飛び出して僕から一歩離れたかつて僕の中にある何かだった言葉は、僕とは何一つ関係のないところで僕の一部として受け止められる。僕は僕が他人にそうしているように、彼の瞳に映るべき僕であることを求められて、求められたような気になって、僕と僕の半径140cmに散らばる僕の言葉を彼の望む僕の一部に仕立てあげようと取り繕い、結局は僕のままに取り繕いやがて死ぬ。

かつて週刊少年ジャンプに『サムライうさぎ』という漫画があった。江戸時代、とある下級武士の男が妻をもらったことをキッカケに、既存の武家社会の価値観への迎合を良しとしない自由な生き様を目指し奮闘するサマをおジャ魔女どれみくらいの頭身で描いた意欲作だ。今になって振り返ってみてもなぜジャンプでやっていたのかよくわからない。彼の主人公が戦う相手は、戦闘力の53万の宇宙人でも、声がターミネーターと同じB級妖怪でもなく、見栄や体面を重んじる社会そのものであった。それらのしがらみを振りほどくべく、主人公は剣を振るいながら仲間を慮り汗をかきベソをかく。そしてそれをちびうさくらいの頭身の妻が支える。今になって振り返ってみてもなぜジャンプでやっていたのかよくわからない。結局終盤は暗黒武術会的なバトル展開を遣り繰りしながら8巻ほどで終わってしまった。8巻という数字が作者にとって希望通りだったのか不本意な打ち切りだったのかはよくわからない。

人は誰も描きたいことしか描けやしないし、描けることしか描かれない。そこに自由などはない。それが人の目につくのであればなおさらだ。求められるものを描きさえすれば、それはきっと受け容れられ更に求められるだろう。しかし描きたくないものなど、描けないものなど、描けるはずもない。結局自分が描ける限りのものを、どれだけ人に受け容れられるように描くかだけが、描き続けるための条件であり、描くことを自分の一部とする術でもある。僕は週刊少年ジャンプのそういうところが好きだ。つまらないと思いながら描いてる奴なんていないだろうと思う。そういうものがアンケートが取れないから、つまらないからという理由でサクサクと終わっていく。つまらなくないんですよと足掻きながら終わっていく。せめて何が描きたかったかのかだけでも伝えようとしながら終わっていく。そのサマは真っことこの世に生きる僕と貴方のある日の通信に類似していて、俺はジャンプのそういうところ大好きだ。貴方が僕に興味を失うように、僕がそれでも貴方に伝えたい言葉があったように、唯一つ違うのは僕や貴方が日頃その眼に浮かばせるような諦めの色などどこにも見てとれないままに、ジャンプの紙面には剥きだしの描きたいものがそのまま描かれてしまったままそれきり通信がぷつりと途切れてしまう。僕はジャンプのそういうところ本当に好きだな。『サムライうさぎ』がそういう終わり方だったのかは、ごめん正直忘れた。

今回紹介する『スイミング』『アマリリス』は、そんな『サムライうさぎ』を描いた福島鉄平先生の短編作品集。二冊同時発売。収録されている短編のうちの2,3個は雑誌に掲載された当時に読んでいたような気もするけれども概ね初めて読む作品がほとんどで面白く読んだ。そしてこれは『サムライうさぎ』をジャンプ本誌で追いかけていた当時もここまで書き進める過程でもたびたび思っていたことなのだけれども、なんでこの人週刊少年ジャンプで連載していたのか、連載しようと思ったのかよくわからない。だって『サムライうさぎ』終了後に週刊少年ジャンプを中心とした少年誌向けに掲載した短編を集めた『スイミング』は立ちはだかる敵らしい敵もなく現代を舞台に意地らしい思春期の恋愛模様を何気なく綴った短編が続き、最後ちょこっとファンタジーな世界観で外の世界への恐れと戸惑いを抱いた女の子の淡い恋心を描いたと思ったら『アマリリス』で青年誌にて掲載した短編へと移っていくわけですけど、その後はショタ、百合、女装なんでもござれですからね。このように陳列してみたそれらの特殊性癖?別にそれを特殊としなくてもいいんですけど、僕はあんまりそんなグッとくるほどの人ではないんですけれども、まぁ大変面白く読んで、大変面白く読みながらもそれは普通に面白かったので面白がったまででそこまで問答無用にグッとツボを押されたって話ではなくて。ただ、こういう話で面白がらせにかかるのであれば最初っからそうしていればよかったじゃないか、なんでジャンプだったんだとかはちょこっと思ったりするわけです。

人は誰も描きたいことしか描けやしないし、描けることしか描かれない。でも、そう考えればこの流れは必然だったのかなーとも思うわけです。必然というか、この作者さんにとっては必要なプロセスだったのかなーとか思うわけです。登場するキャラクターみんながコロコロしていて可愛らしいのはジャンプで連載していた頃からずっとなんですけど、それはただそういうのが可愛らしくて良いからそうしていただけで、最初はそれ以上の意味など持ち合わせていなかったんだろーなーみたいな。全然そんなことないかもしれないけども、僕の想像のうえでの福島鉄平先生は例えばブラックジャックとかあんまり読んでいないことになっていて、ピノコのこととかもあんまり知らないままアレを描いていて欲しいな、なんて思っていたりする。もしピノコを知っていて、そういうのが好きで漫画を描いてるなら、週刊少年ジャンプなんかで連載しないでもっと最短ルートで今の作風に行ってるんじゃねえかなとか思ってしまう。ただ自分の描きたいものと、それを描く方法を追求した結果、たまたまあのまるっこい絵で同性愛的なものを描く方向にシフトしていったと考えるとまぁまぁ合点がいく。もちろんその真偽はわからない。

サムライうさぎ』を読んでいた当時、僕はこの作者さんを「変化を希求する人」なのかな、と思っていた。既存の価値観を良しとせず、より自由でより純粋な関係性を作るために何かを壊したい人なのかなと思っていた。僕はこの人のそういうところが好きなのかなとも思っていた。けれども、この短編集を読んでみるにそれは、僕の、てんで的外れで、たぶんこの人は単に愛を美しいと思う人なのかなと思った。愛とは詰まる所、魂のベクトルであり、生まれや性別や環境や自分では選べない何もかもによって形作れられた「私」という器に収められた「私」、それが魂でありその魂がどこを向くかそれが他人に向けられた時、それはきっと平等に愛と呼ばれるのだろう。魂のベクトルが他者へと向かう限りにおいて、それはいつだって愛が愛であるということを示すために、様々な器を次々に提示する短編集、それがこの『スイミング』『アマリリス』だったのだろうなぁと自己完結に思えば思うほどに、この作者が描きたくて描いてきた軌跡が、今この短編集によって誰かと出会い結実するために必要不可欠な道程だったのではないかと思えて、なんだか読み返してグッとくるのであった。

まー読んだ直後にとりあえずtwitterでつぶやいたのは「変態だ逃げろ!」だったんですけど、これからも追いかけたい漫画家さんだなぁと思いました。以上です。