痴漢とか性犯罪とかの話がなんか盛り上がってまして、僕は結構そこらへん喋りたいことが多い人で、何せ僕はどう転んだっていつだって悪意が先手を取ってくるっていう構造上どうしようもないところが非常に鼻持ちならなくて理不尽すぎてちょっと考えただけでむかついてくるんですけど、だからと言って自分には関係ない、滅多な確率で起こるもんでもないと蔑ろにしたところでやってくる時はやってくるわけで、「あんまりだ」と嘆いたりその悪い奴をどうこうしたりってのは常にやられた後の話になってしまうのでそれじゃあ意味がなくてそれこそ「あんまりだ」なので、そういう馬鹿がやってくる前に、ダルいですけど日頃考えとかなきゃならん問題だよなぁと常々思っているものですので、嫁となんかそこらへんの防犯意識的な話をちょろっとしました。が、このエントリの本題はそこらへんの話ではなく、まぁそこらへんの話は自分の中でもうちょっとまとまったらそのうちするかもしれないんですけど、今日するのはその話をひと段落終えて嫁が布団に入ったところで「怖い気分になったので何か一つ楽しい話をしてほしい」と言い出したものですので、そこでした楽しい話を、します。
いきなり楽しい話と言われては僕も弱ってしまいましたが、まぁとりあえず動物だな、と思い「あるところにウサギが」と始めました。僕はきっと数が多いほうがさぞ楽しかろうと思い「ウサギが、5匹おりました」と言いました。とりあえずこのウサギたちに何かをさせないと物語が進まないなと僕は思いましたが、何をするにしてもとりあえずこのウサギ5匹に各々物語上の役割を与えるとなるとちょっと長丁場になりそうだなと思い、5匹はやっぱ多かったなと思いどうにかラクできないか考えた結果「ウサギさんたちはこれから遊ぶために2つのチームに分かれることにしました」と続けました。こうすれば最初に宣言したウサギの数をひっくり返すことなく物語構造を簡略化できます。しかしここで新たな問題が発生します。なんとなく5匹と宣言してしまった僕はなんと迂闊だったのでしょうか。奇数は2で割り切れません、「ウサギさんが1匹余ってしまいました」。ここでまず最初の楽しくないむしろ悲しい、というお叱りを受ける形となりました。1匹だけ余ってしまった悲しいウサギさんをどうにかしないことには僕はこの先を物語ることができません、困った僕はなんとなくカバを召還しました。「そこに1匹のカバが現れてかくしてカバウサギチームが結成されました」、ひとまずこれで仲間はずれの悲しいウサギはいなくなり3つのチームが出来上がりました。なぜカバをチョイスしたのかというとカバの頭の上にウサギがちょこんと乗ってる絵ヅラがかわいいかなと思ったからです。さて、カバを登場させたからにはカバがいて初めて成り立つ物語展開が望ましい。「3つのチームは隣の村に誰が一番速く辿り付けるのか駆けっこ競争をすることにしました、一等の賞品は山盛りのニンジンです」、さぁ盛り上がって参りました、しかも僕はこの段階でカバをうまいこと生かす算段を既につけていたのです、「よーいどんの掛け声とともに二組のウサギコンビチームは颯爽と駆け出し、そのあとをカバウサギチームがノシノシゆったりと駆け出しました。これはカバウサギチームどうにもならないかなと思いましたが、隣の村へ行く道は途中、大きな川で遮られておりました。この川を越えるためには直線ルートを大きく迂回して橋を渡る必要がありました。川を前に往生していたウサギコンビですが仕方が無いので遠くに見える橋を目指して今度は川沿いに駆け出しました。ここでやっと川の前まで辿りついたカバウサギコンビ、もうお分かりですね。カバはこの程度の深さの川などどうってことありません。悠々まっすぐに川を突っ切ったカバウサギコンビは見事一等賞になりました。めでたしめでたし。」、ほうらどうだ完璧じゃないか完璧に楽しく愉快な話じゃないかと思ったのも束の間、僕はここで新たな問題に気付きます。「あれ、カバってニンジン食うっけ? ごめん、カバはせっかく頑張ったのにリターンゼロだわ。」、僕は二度目の叱責を受けました。弱りました、カバって何食ってるのかとかあんまこれまでの人生で考えたことなかった。仕方が無いのでなんとなく続けました。「まぁでもカバは、家に帰ったら食べるものちゃんとあるので大丈夫だし、寂しそうにしてたウサギさんがニンジン抱えて嬉しそうにしてるのを見てよかったよかったみたいな顔をしました。めでたしめでたし。」、しかし嫁はこれに納得しません。カバが帰っちゃうとまた明日からこのウサギは仲間はずれになってしまいます。カバとしても、賞品がニンジンならもう次はいいかなって感じです。三度ハッピーエンドへの指針を失った僕ですが、なんとか起死回生の一手を思いつきます。「優しいウサギさんはやっとこさ遅れて村に到着した4匹のウサギとニンジンを分け与えることにしました。5匹でおなかいっぱいになるまでニンジンを食べたウサギたちは次の日からみんなで仲良く遊ぶようになりましたとさ、本当にめでたしめでたし。」、こうして僕はなんとか物語のすべてに落とし前をつけて嫁にも楽しい話としての太鼓判を頂くことができました、めでたしめでたし。「このあと家に帰るカバの話に続きがあるんだけど聴く?」、僕は尋ねましたがたぶん家に着くまでの間に何回かカバが不幸になって結構時間かかりそうな予感を察知した嫁は「もういい」と言って眠りにつきましたとさ、めでたしめでたし。
みたいな遊びを我が家は結構やるんですけど、毎回思いつきで話してそこそこ楽しく喋ってだいたい次の日忘れてるんで、自分でどうやってんのかなと思って一回書いてみました。書いてるの読んで面白いのかは不明です。自分でもよくわからんのですけど、こういう話をする時に(どういう話をする時なんだ)無意識にいつも使ってるパターンとして、ストーリーをストーリーとして完結させてしまうのではなくそのストーリーが語られる今・その瞬間においてそのストーリーがどういう目的でどこに向かって物語られるのか或いは聴かれるのかみたいなところを意識させることによって聴く側も参加してる気分になるというかなんかそういう作用が働いて語る/聴く当事者が楽しくなるみたいな構造があるような気がする。ずいぶん昔に思いついたやつなんですけど「面白い話して」という糞フリにどう対応すればいいか考えた時にとりあえず「最後、犬が死ぬ話なんだけどそれでもいい?」と前置きすると「いやそれ絶対面白くないじゃん、悲しいじゃん」という話になって、そのあと犬が出てくる話をテキトーに始めると何を言っても「でもこれ犬最後死ぬんでしょ」というのが振り幅になって面白かったり「いつ犬死ぬのかな」と身構えてることで話の端々を勝手に面白く受け取ってくれたりで喋る話自体が破綻してたりイマイチだったとしてもそれなりに楽しい時間を過ごせたりする。まぁもちろん「死ぬ」ってワードの重さが人それぞれだったりするので、何より「最後死ぬ」という設定だけで十分なので犬をいかに面白おかしく殺してやろうかと考える必要はないどころか悪手である可能性が高い。むしろグダグダっと最後まで死なずに終わってもそれはそれでいけるんじゃないだろうか。こういう会話のゴールを強く意識させることでそこに至るまでのキャッチボールがいちいち面白くなる感覚ってのは経験上こどもにも意外と通用するようで、小学校入るか入らないかぐらいの年齢のこどもなんかは自分の好きなものについて解説したり教えたりするのが好きだったりするわけですけどその説明を聞かされてる時にわざと理解が遅いフリをしたり勘違いをしたりして見せるとお前だいじょぶかってくらいテンション上がったりする。たぶん本人なりに喋りたかった地点までどうにかしていってやろうと思って燃えてるのかな、と思う。もちろんゴールしたいからゴール目指すのが楽しいのであってゴールに辿りつけないと楽しくないわけで、面白がって一向に理解しない態度を続けたり難癖をつけたりしたら泣くんだろうな、と思います。桃太郎なんかのこどもが既に知ってる話をする時なんかも、「桃太郎が歩いていると向こうからやってきたのが、なんだっけな。尻尾があって、尻尾がある、なんだっけ全然出てこない」とかやったらすげえ「犬!」って教えてくれそう。
とまぁ、極端な例ばかりになって「本当にそうか?」感もありそうですが、意外とここらへんの仕組みを僕らは普段の会話なんかでも思いのほか多様していて、「趣味は映画です」と言われるよりも何の気ない会話の端々であっと気付いて「もしかして映画とか結構観たりします?」って気付けてイエスを獲得するほうがきっと楽しい時間なわけで、自分自身の働きかけがあって物事が初めて思った方向に進む、みたいな参加してる感覚がやっぱ大事で、面白いんじゃねえかなと思うわけです。ああ、普段あんまり手を突っ込んで揺すってみたりとか試してないあたりをガサゴソと書けれたので楽しかった。これが読んで面白い文章なのかは知らん。以上です。