←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

マタニティヌード見せられても困るけど撮るという選択肢自体は割りとアリ

嫁がマタニティーヌードを撮りたがってる

http://anond.hatelabo.jp/20131031180156

これを読んでうおっとなっておもむろにメモ帳を開いた。

うおっと口の中で呻いた数秒の間に口の中に残ったいくつかの思いをグチュグチュペッと吐き出したいと思う。すごい雑に書く。

まず、これは「私はそうじゃないです」と言って憚らない人にはもう何も言えないようなことなんだけれど、自分を美しいと思おうが醜いと思おうが何だかんだ自分の外見に愛着がある人間っていうのは一定の割合でいるんだろうしこの奥さんはそうなのだろうと思った。そしてこれは完全に俺の想像なんだろうけど「なんだかんだ愛着がある」という感覚は別に自分自身だけが対象に留まらない。この増田の奥さんは増田の外見もそれなりに好きなんじゃねぇのかなとか思った。美醜の感覚というものは望む望まないを問わず常にそこにあり度々僕たちを苦しめるけれども、愛着というものはそれに勝ちうる素晴らしい価値観だ(ただし極めて主観的だ)。むしろ美醜を追い抜いて愛着がある一方で、あくまでそれは追い抜いただけで美醜の感覚は依然残ったままなので大手を振って愛着を肯定しにくいというような葛藤もまた世の中には普通にありうるように思う。

そこでマタニティだ。

ぶっちゃけこれ最強の盾だよね。腹に生命宿しててその有り様をぽっこり膨らまして一目瞭然に体現してたらそりゃあもう最強の盾だよ。そのヌードを醜いと言った奴を蜂の巣にするのも簡単だし、そのヌードを性的な目で解釈したやつを火達磨にするにもお手軽だ。そんな調子なので自分自身の葛藤をごまかして「オッケーオッケー」に針を振り切るのも実に容易い。それくらい生命というものはただひたすらに偉大なもんだという社会通念はまかり通って差し支えない或いは仕方ないものだと思う。美醜や性的消費みたいな価値観に背を向けながら自分の外見を保存するにあたってマタニティほど強力な虹はないだろう(クロノ・トリガー)。

そういうマタニティの免罪符的な機能に自覚的なうえであるならば、愛着を確かなものにするためにマタニティという状況を最大限利用してありのままの自分を写真に収めてみるというのは別に悪いことではないんじゃねぇかな。人に迷惑をかけない限りに自分自身に自信をもって元気にする術があるのならばどんどん実践するべきだとすら思う。さすがにその写真を他人に見せるだの将来子供に見せるだの言い出すと迷惑がられるケースは十二分にあるから要検討だけれども、マタニティという今だからこそ普段ならおいそれと肯定しきれない・だけれどそれなりに愛着はある二人の姿をおっぴろげなまま肯定的に残しておきたいって感覚自体は別にそんな否定してやらなくてもいいもんだろう。

カメラマンが気の毒だって話はわからないでもないので悩ましいけど、そうなると三脚持ち出してセルフタイマー?身重な奥さんにやらせるわけにもいかないので自分でセルフタイマーセットして急いで奥さんの横まで駆けていってはいポーズ?たぶんそれなりに駆け足になるだろうからたぶんはいポーズ時点でちんちん揺れてるよね。ブレちゃうよね。せっかく撮るんならちんちんも格好良く撮りたいのにブレちゃっては本末転倒だよね。そう考えるとカメラマンさんに頼むしかないのかなぁすげぇどうでもいいわ。さんざいけいけどんどんのノリですけど、別に「なんて素晴らしい案だ!俺もしかるべきタイミングでヌード写真を残そう!」とはいっさい思ってません。そういう考え方をする人がいても不快じゃないな、に留まります。

まーそんな感じでまとめますと、自分(また自分の配偶者)の外見が実のところ好きだ他人からしたら別に美しくなかったとしても、って感覚は愛着とコンプレックスの綱引きで割と美しいと思いました。そしてその綱引きのなかでマタニティヌードって結構いいカードなのかもなと思いました。それだけです。増田さんには「なぜ俺みたいなおっさんの裸を残したいんだ」みたいなことを素直に奥さんに聞いてみればいいんじゃないかなと思いました。意外と抱きしめたくなるようなキュートな回答が返ってくるかもしれません。僕はちょっと太った普通のおばさんと毛深い早漏のおじさんのヌード写真見たくないですけど、愛し合う二人が誰にも見せないヌード写真を実はこっそり隠し持っているのは割りと悪くないことだなぁと思いました。以上です。