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「ありのままの自分を受け入れてもらおうなんて甘すぎ」問題について

いつまでも"モテテク"の罠から抜け出せない"残念な女の子"たちへ

http://am-our.com/love/166/7427/

ファーレンさんっていうブログの人がいてなんかAMでコラムの連載が始まってるとのことでおめでとうございます!ここは一つファーレンさんの全奢りでケンタッキーパーティーでも催して全部出してくれるファーレンさんが酒を一滴も飲まない人なのですごい量のコーラも買ってきてくれたのでそこだけ自腹でビールを飲むのもなんだか申し訳ないのでみんなすごい微妙な感じでコーラ飲むみたいなのを企画しましょう。ほら帰りの運転もファーレンさんだし的な。そもそもなんでちょっと都会の喧騒を離れたログハウス的なところで俺たちシラフでケンタッキーなんか食べてるんだろういやファーレンさんが企画したからなんだけど的な。変なリベラリズムによるディスコミュニケーションをみんなで満喫しましょう。いや、ファーレンさん酒飲まないのか知らないけど。

さて、そんなファーレンさんがコラムの第一回云わば名刺代わりの一発にて定理のごとく無闇に持ち出したお題目「ありのままでは分かり合えない」がなかなかグッときて、グッときてというか僕もそれを真理と思っている節が常日頃ある人なのでなるほどねーとか思っていたのです。なので今日は僕もそこらへんの話をしてみようかなと思った次第です。

「ありのままでは分かり合えない」が果たして本当に真なんじゃらほい?となんじゃらほいおじさんが寄り目で問いかけてきた時、恐らく答えは「真である」だというのは僕もそうだなと思うんですよね。だってそんななんの努力もしないで受け入れておくれよとか虫が良すぎるわけですよ。向こうが僕のことどんだけ好いてくれてるかなんてそりゃ知りませんよ、俺のことすげぇ好きですごい尽くしてくれるかもしれない、確かにお前が俺のことすごい好きになったっていうのも聞かされてみれば納得がいく、確かに俺はお前の命の恩人だそんなお前が俺のこと好きだっていうのはすごい蓋然性がある、蓋然性あるけどそんな鶴の格好のまんまで玄関口立たれても絶対家になんてあげねぇよみたいな、そういうところがあるのは確かだなと思います。そこは人間の女の格好で来てくれよって思ってしまうのはそりゃ人情です。

このように考えると「ありのままじゃ駄目だよ」というのはなかなかどうして最もなように思えるのですが、じゃあ「分かり合えてる人たち」というものがそんなにありのままじゃないのかと考えるとそれはそれでどうなんですかという思いが指を突っ込めば突っ込んだだけ僕の口からえろえろと出てきます。例えばそれは、あーそうじゃないとこもあるようなので微妙な比喩だなと思いつつ持ち出してしまえば僕や貴方のお父さんとお母さんや、まぁ単に長年連れ添った夫婦という先行事例はそんなに「ありのままじゃない」のだろうかと考えるとどうもそうでもないように見えるのが時代の違いなのかそもそもお題目が間違っているのかとっても曖昧だなと思ってしまうわけです。そこで僕は飢えたパンサーが飢えて仕方ない時に自分の牙でインパラの喉笛をガブリといかなくてはやってられないのと同様に自分自身がどうだったのかに思いを馳せるほかないわけですが、ぶっちゃけそんなありのままを捨ててる気もしてないんですよね。確かに捨ててる捨ててないで言えば色々捨ててきたような気がします。例えばあのーバスタオルね、僕の実家の慣習で言えば風呂上りに体を拭いたバスタオルはそこらへんに引っ掛けて干しておけば翌日また体を拭くのに使ってもまったく問題なかったんですけど、嫁はそれを「ありえへん」と言い切りましたね。それで最初は「何おー!?」って思いましたけど、今は一回使ったら洗うようになりました。あとあの婚姻制度。結婚とか馬鹿かよとか思ってたんですけど、いや何だったら今でも思ってるんですけど、結婚基本的にはあんなもんするやつ馬鹿と今でも思ってますけどこと自分に限っては結婚しながらもストレスなく日々をやっているのでまぁ別にいいかと思ってたりします。つまり、僕が「ありのまま」であることについてバスタオルとか結婚とか割と関係なかったなぁなどと思って僕は今も割りと「ありのまま」です。

どうも八百長臭い結論のマストの天辺がなんだか水平線の向こうに見えてきました。今現在の僕が何となく拵えている結論として、「ありのままの自分は受け入れられないよ」みたいな問題ってのは結局「お前のありのままの自分はそんなに雁字搦めじゃないと成り立たないものなのか?」というものなのだと思います。なんかでかいフィールドで安易に用いられる「ありのまま」って言い回しは「自分らしさの担保先を求めてしまう浅ましさ」を意味しているだけに過ぎず、それを受け入れておくれよっていうのはやっぱり甘っちょろいんじゃないのと思いつつ、本来的な「ありのまま」や「自分らしさ」はなんだかんだ万人にとって愛しいものであって欲しいなぁという所感に相成りました。それを踏まえてファーレンハイトさんの連載を読んでみても、一発目がモテテクの陳腐さへの言及、二発目が女子回の陳腐さへの言及という流れで、初っ端に「ありのままじゃ駄目だよ」と言いながらも「ありのままだけじゃ駄目だからなんか足そうぜ」という話ではなくて「要らんもん外そうぜ」という話がメインになっていたりで、俺の頭の中で繰り広げられる学芸会ではシナプスAとシナプスBは「やっぱそういうことだよな」とひそひそ話をして変に尺を取っております(シナプスA役の子は中学校進学を気に学校行かなくなってめっちゃモンハンやってます)。

まーなんかすげー散らかってるんで名言で回収するというテクニックがあるらしいので、それを借りて何とか寝たいなと思っているんですが、甲本ヒロトというすげぇかっこいいおっさんが言うことには「ジョーに憧れました。ジョーのようになりたいと思いました。ジョーのようになる。それは彼の音楽やファッションを真似る事じゃなく、誰の真似もしないことでした。」とのことで、成功事例がわんやとあふれかえるこの現代、それはとっても大変なことでもあるのですけれども、要するにそういうことなのだなと思いつつ、視界に入る大好きな貴方にはそんなことばかり言っていたいなと僕は考えています。以上、俺が何か言うことによって俺がモテればいいなと思って書いてる結果がこのザマの俺でした。あ、あと最後に今回の話の発端になってたファーレンさんの元ブログとか一応貼っておきます。

ファーさんの今夜もブギー・バック

http://fahrenheitize.hateblo.jp/

以上です。