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サブカル糞野郎にすらなれない絶望の果てで、私はげんきです。

ファッションが苦手です。それはもう苦手です。

一番羨ましくて嫉妬で気が狂いそうになるのは自分の感性を頼りに「かわいい」や「かっこいい」を自分で判断してオシャレな自分を自分自身で心の底から楽しむことができる人種です。もう俺には宇宙人にしか見えません。そんな自分が楽しむなんて離れ業をやってのけることなど到底できない僕にとってファッションやオシャレとは一体何なのかと考えると、それは、「モテたさ」を「モテるように」開陳する振る舞いです。そんなもんますます出来るはずがない。過剰な自意識を学力偏差値に換算することがもし出来るのであればわずか二週間でMBAを取得して帰国する自信があります。ただでさえ自分の「モテたさ」を圧倒的に自覚しまくりの僕はそのうえオシャレセンスに全くの自信がない僕でもあり、その結果「モテたさ」をうまくオブラートに包んで「モテるような」チョイスをできるわけがないと僕はいつだって死にたくなるのです。自分の感受性の無さに絶望します、かっこ良さやかわいさや色の鮮やかさや空気のうまさ俺には何もわからないこんなに感受性に乏しい俺が四季彩豊かな美しい国ニッポンにいること自体がもはや大変におこがましいことだ神よ母よなぜわたくしめを砂漠に産み落としてくれなかったのですか。このような思考が標準となってしまった男はあらゆる自分を飾り立てる振る舞いが出来なくなってしまいます。自分のような人間が自分を飾ろうとするなんてモテたさを開陳する愚かで醜いことだ、だからそんなことやってはいけないのだと考えます。たとえばズボンの裾上げを普通に頼むことができません。ズボンの丈を自分サイズにフィットさせようとすること自体が自分を無理に良く見せようとしている振る舞いのような気がして気が気ではないのです。ふと思いたって帽子を買いに行こうとしても可能な限りになるはやでケリをつけなくてはなりません、帽子を買おう俺は帽子を買ってもいいんだという気分は一時的なものでありその気分が盛り上がっている間に決めてしまわないとすぐに自己嫌悪のおばけに追いつかれます。ある日の僕は帽子屋に出向いて2,3の帽子を試着したところで「もうこの世に俺に似合う帽子はない」と断言して店を後にしました。このようなコンプレックスを両手いっぱいに抱えた僕は上記のような過去に何回かしたような話を繰り返し何度でもしますし、中学生の時に金は持ってるけどレジのお姉さんにそんなん買うんだと思われるのが嫌だという理由でワックスを万引きして捕まった大林くんの話も死ぬまでにあと七千回くらいはしてやるつもりです。何を着ても「似合うと思って着てるんだろうな」と思われるのが辛い俺は死ぬまで学ランだけを着ていたいんだ。

人はこれを聞いて「考えすぎだ」と言うでしょう。「自意識過剰だ」と言うでしょう。現に僕はこれまで多くの人にそのようなことを言われ続けてきました。特に嫁には「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」と耳にタコができるほど言われてきました(なんで慰めてくれてんのに迷惑そうやねん)。しかし、そんな他人の言葉に一切の価値などありません俺の右目と左目にそう見えているのであればそれが俺にとっての真実なのです。俺は俺がオシャレでないことを真実だと確信するためだけにこの論理を採用し、その結果オカルトや放射脳疑似科学その他すべてすら肯定する所存です。結婚生活を満喫している今となっては一からまた恋愛するとかちょっと考えただけでめんどくさすぎるので俺は一生家族を大事にするぞと誓っているのと同様に今更俺は別にオシャレじゃないというほどでもなかったとなると前提が崩れて俺のアイデンティティをかなり抜本的に再構築する必要が出てきてそれは大変にめんどくさいことなので俺は死ぬまで俺はオシャレじゃないと信じぬくのです。なんだそれ死にたいな。

さて、僕のこういった考え方は何も服装だけに留まるものではありません。僕はこの理論を応用してお前らの何かを好きだという気持ちすべてが憎いのです(なんか魔王なりたての人みたいなこと言い出した)。

サブカルの終わり──渋谷直角がえぐり出した問題

http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20130904-00027832/

こんなんを読んだんです。内容としては、サブカルが人の内向性を肯定しながらファッションやコミュニケーションツールとして機能してくれる時代はぼちぼち終焉ですいかんせん流行りすぎてしまってモテたさが隠しきれなくてもう駄目です。であればかつて虐げられていたオタクがそうしたように、サブカルもサブカルを希求したその根源であるところの鬱屈をうまいこと昇華させて何かを生み出していかないとあかん時期ですよみたいな内容だと思います。

自分がオシャレな振る舞いをしてしまい恥をかくことを恐れまくる僕にとって、サブカルや音楽や漫画や小説やもう何もかもの趣味もその対象となります。趣味は好きなことを好きなようにすれば構わないという圧倒的な免罪符を兼ね備えているはずなのですが僕の場合は自分の中で「果たしてお前は本当に好きで本当にそれについての知識を深めたくてそれのために苦も無く時間を費やせるのか」と自問自答してしまったらその瞬間アウト、俺はモテたくてファッションとしてそれを趣味だと言い張っているんじゃないかという気持ちになってきて僕はもう何も言えなくなってしまいます。なので僕は趣味はなんですかと聞かれたら「無趣味です」としか答えられないのです。そんな僕にとってサブカルに対する印象が羨ましさと嫌悪感と軽蔑と素敵な何もかもが綯交ぜになるのなんて当たり前に決まってるじゃないですか。この世に俺に似合う帽子はねぇつって帽子屋を後にしたあと「俺はオシャレができないオシャレの恥ずかしさに自覚的にあるだけまだマシだみんな俺と同じで本当ならオシャレできないクズ野郎じゃないかなんだあいつはあんなオシャレな恰好をしてモテたさを開陳して恥ずかしくないのかよくそんな別にモテたくなんてないですけどみたいな顔でそんなに胸の開いた麻地の七分袖シャツなんて着れるな恥ずかしい野郎だ」と内心毒づきながら街を徘徊する俺がファッションサブカル野郎どもに何も思わないことなんてできるわけがない。あいつら俺がこんなに自分の好きなものがないことに苦しんでいるのに、自分に似合う自分らしさが見つからないと血反吐にまみれてのた打ち回ってるっていうのに何を安易にあっさりと好きを手に入れてるんだこの野郎。世界中の画面保護シールがナイトメアビフォアクリスマスのiPhoneいっせいに爆発しろ、好きな漫画の話をしている時に誰かがAKIRAを挙げるのはまだ許せる、ただその直後に溜息のように漏れる「AKIRAァ……」という感嘆の声を聴きたくないから誰か俺の耳を潰してくれ、いや、本当に好きなら好きで純粋に羨ましがり純粋に応援し純粋に尊敬するけどおまえは果たしてどうなんだ100万回生きたネコを200人ほどの観客の前でピンスポット浴びながら全力で朗読できるなら俺は何の文句もないけどお前に果たしてそれができるのか、いいや、そういうことではないのだ、右の目玉と左の目玉が力を合わせて覗いた世界が真実であるのであれば、糞サブカル野郎がサブカル好きを自認した瞬間から自認した限り、彼は俺と違って大好きなものがある幸せな人なのだ。そんなのずるい。俺がこんな有様なのにお前だけそんなのずるいよという思いだけが寄せては返し寄せては返して僕の足を濡らし、僕の足にはビレッジバンガードで打ってるお香みたいな匂いが染みついてしました。BGMはくるりでした。

まぁ言うてふざけて怒ってるだけなのでざまぁみろというほどでもないのですが、ファッションとしてのサブカルの価値が下がって本当にサブカルが好きでそれじゃないとダメな人たちが暴れ出してそうじゃない人たちが頭を抱えてウロウロしてしまうのであれば僕はそれはそれでいいんじゃないかと思うのです。むしろそれが正常な状態なんじゃないのかなと。あと勢いで書いてて気付いたのですが、世の中にあるレッテル貼りにはそういう恨みつらみみたいなニュアンスも含んでるんじゃねぇかなと思います。あれは駄目だというレッテル貼りをしていると見せかけて、それは単にニット帽につけたシャレオツな缶バッジを指さして「オシャレ狙いやがって似合ってねぇよダセぇよ」と詰襟をしっかり締めた学ランで野次を飛ばす俺なのかもしれません。そんなAV男優みたいな服装の感受性ゼロ人間をものともせず突き進んだ結果がネットでよく見かけるいつも楽しそうな俺からすると羨ましくて仕方ない連中であるところのオタクであり、そのAV男優たちに屈して「もしかして俺ってダサいんじゃないか」と気づいてしまったのがサブカルなのかもしれません。僕が思うのはただ「よしお前も来い。自分を肯定する好きなものが何もないこの荒野にお前も早く来い。意外と楽しいよ!」というただそれだけです。

まーこのイキイキした文章から分かる通り、そういうどうしようもなさ全体をもう面白がるしかねーんかなと思って毎日楽しくやってるんで、日々うげおああああああとなってるのが僕は楽しいんでもう何でもいいんですけど。あのーボンバーマンで一度死んで復活してからしばらく続く無敵状態の時にボム設置ボタンを連打しながら爆風に巻き込まれると自分を中心に爆風を撒き散らしながら移動できる最強兵器になれるんですけど、たまに無敵時間終わってもまだ連打しててまた死んだりするんですけど、あれが僕です。以上です。