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三谷幸喜という一流のおっさんと、そのおっさんが派手にやらかした駄作「ステキな金縛り」の感想

若い頃はなんか大衆ウケをくすぐるのがうまいセコいおっさんと思って好きじゃなかったものの大人になるにつけて「ここで驚いてもらうここで笑ってもらう」みたいな相手の感情のコントロールをすることがめちゃめちゃ難しいめちゃめちゃに難しすぎるという当たり前のことが分かってきて素直にその凄さを受け入れて以降は一定以上の面白さを担保してくれる良いおっさんとして僕が厚い信頼を寄せていた三谷幸喜でしたが、最新作「ステキな金縛り」が完全にやらかしてて、全然面白くなかったというかたぶんこれ人によっては不快だろ級だったので残念でした。

まず三谷幸喜分析をやりまして、その後ネタバレ感想をするので、ネタバレ回避したい人も一応途中まで読めるような構成にしました。とりあえずここから三段落は軽い言及はありつつも致命的なネタバレはゼロです。

まず三谷幸喜(以下このおっさん)の持ち味とかさんざん語られ尽くしてるんですが、まぁ、このおっさんの妙と言えばまず「状況」を持ってくるのがうまいってことがまず初めに言われますよね。細かく言うと舞台となる場所がすごく限られてる「密室モノ」がうまいだとか、何かリアルタイムで進む物事の裏側だったり時間軸的に明確なゴールに向かって進んでいくような「時間的制限」がある設定が得意だとか。例をあげるまでもないですけど前者密室モノだと「12人の優しい日本人」「笑の大学」「ラヂオの時間」、後者だとこれまた「ラヂオの時間」「みんなのいえ」「有頂天ホテル」なんかが映画になってる有名どころです。もちろんそれを見世物として成立させるためにはストーリーというものはもちろんあるのですが、基本的にこのおっさんは「物語」を書くのではなく「状況」を書くのが得意なおっさんであるということを今回の前提にしておきましょう。「ステキな金縛り」についても、法廷という限定的な空間でストーリーが大きく動く点や、判決という明確なゴール地点に向かって時間が流れているという点では自分の得意なフィールドでやっているようには見えないこともないです。

さて、「状況」を書く、ということですが「状況」って一口に言うけど定義が曖昧でよくわかんねぇよって話ですが、つまるところ「状況」っていうのは「人生のある瞬間からある瞬間までの日常だったり日常じゃなかったりする時間」のことを言うんだと思います。「物語ではなく状況」って言い方になるのはつまりはそういうことで、このおっさんの脚本に登場する人物たちというのは普段は別のメインの「物語」つまるところそれぞれの人生を生きているんだけれども、このおっさんの手によって自分のメインの「物語」の本筋から外れた自分の物語とは全然関係ない、しかし避けては通れない「状況」に立たされているキャラクターたちなのです。そして人間は個人的な生き物です。どんな状況に立たされようと人はそれぞれの自分の物語の文脈で行動することしかできません。それが状況を好転させる行動か好転させない行動かとかそんな合理性なんてかなぐり捨てて自分自身の個人的な事情を優先させてしまう馬鹿な生き物なわけです。結局このおっさんはそういう人間の業みたいなものを書くのが抜群にうまい。被告人が無罪か有罪かを話し合わなくてはならない状況であっても、脚本家の思い入れがたっぷりのラジオドラマを放送しなくてはならない状況であっても、家主からしたらまさに一世一代のマイホームを建てなくてはならない状況であっても、そんなことよりも大事なものというものが人間にはそれぞれ勝手にすげぇありまくるし、それは当人にとってはすげぇ大事なのかもしれませんが大体傍目から見るとそれはそれでどうでもいいことだったりするわけです。

そういう風に考えるとこのおっさん基本的に性格がめちゃめちゃ悪いんですよね。それはちっぽけなプライドかもしれませんし、ちっぽけなコンプレックスかもしれませんし、ちっぽけな偽善やちっぽけな正義感かもしれません。自分自身の人生という名の物語には立派な意味があるはずだ、という幻想を守るために僕や貴方がそっと守っている個人的な事情を限定的な状況下で剥き出しにしてそれを茶化して面白がる、というのがあのおっさんの基本戦略となります。それでもまぁまぁ見ていて面白がれるのは、最終的にはなんだかんだ知恵と寛容をみんなで少しづつ持ち寄って、それぞれのちっぽけな物語に傷をつけることなく状況を解決に導いて大団円で終わる、と一応はそういう人間の卑小さみたいなものを愛をもった視点で描かれているからではないでしょうか。実際のところおっさんが愛をもって人間を見ているかは不明です。

 

で、こっからネタバレを含むので読みたくない人は回れ右で。

 

さて、こういう風にあのおっさんのやり口を紐解いたうえで「ステキな金縛り」はどうだったのかというと、とりあえずもうどうしようもなく物語、しかもかなり筋悪の物語だったんですね。やめときゃいいのに、としか言いようがありません。そして、そんな「幽霊が法廷で証言する」という筋悪な物語をつつがなく進めるためにいろんな登場人物の個人的な物語を蔑ろにしすぎました。たぶんこれが本作をどえらい駄作にしてしまった要因のほとんどすべてです。もちろん個人の物語をちゃんと守ってもらえたキャラクターもそこそこいてます。しかし、一部の物語を守るために犠牲にされた個人の物語が多すぎました。

一番分かりやすいところでいうと阿部寛が死にますね。あれはいけません。少なくともあのおっさんのあの芸風のうえでやってはいけません。最後のシーンで深津絵里は幽霊が見えない状態に戻ってしまいますが、あれは結局あのおっさんにとって「幽霊がいるという概念」はやっぱり一時的な状況にすぎなかったということの証左であり、そうなると全てが終わった後キャラクターたちはそれぞれのメインの物語に帰っていかなくてはならないわけです。なのに彼はストーリーを進めるためだけにキャラクターを殺し、ストーリーが終わった後にキャラクターが帰るべきだった場所を奪ってしまっているわけです。極端な言い方をしてしまうと、あの映画の人の死というものは携帯小説でいきなり白血病になって死ぬ、みたいなものと機能としてはあんまり変わりがないしそれくらいの価値しかない。死後も再登場したりするので一見キャラクターは救済されているように見えがちですが、しょせんあのおっさんの中に個人個人が抱く既存の死生観をひっくり返すような思想など無くて、ストーリーが終わってしまえばみんなそれぞれのメインの物語*1に帰っていかざるをえないのです。じゃあやっぱ殺しちゃダメだろう。

もちろん、そういう全体の物語を成立させるためにキャラクターが各々に突き動かされ、その中で必然的に人死にが出たりする物語というものも、この世には多く存在しております。しかし、そういった物語を物語るためにはやっぱもっとでかい主語の大義名分が必要になってくるのです。大義名分がない癖にストーリーを進めるためだけにキャラクターが不当に翻弄されるような物語をもって、人はそれを自己満オナニーと呼ぶのです。そしてあのおっさんという作家はそのような大義名分など持ち合わせていなかった。少なくとも、あの映画にはなかった。彼は目の前にいる卑小な人間を書くことが得意な癖に、あの映画ではそんな卑小な人間への敬意をあまりに忘れすぎていたのではないでしょうか

なんか僕の中で変な定義付けされてる単語が飛び交ってめちゃ分かりにくくなっちゃったんですが、分かりやすく読めるよう推敲するのもめんどくさいのでまとめますと、三谷幸喜は一流の箸捌きで豆を運ばせたら一流なんですけど何か今回はスープを必死に箸で救おうとしててダメだった。そりゃ物語が登場人物を飲み込んで大丈夫か大丈夫じゃないかのさじ加減って実際めちゃめちゃ難しいんすけどねー、お前がミスんのかーい、みたいな*2。あと全編通して深津絵里ちゃんがめちゃめちゃかわいかった。めちゃめちゃかわいかった。以上です。

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*1:そして、その帰った後の物語はこれまでと変わらず「私は死にたくない。」という大前提のもとに進んでいくものでしょう。

*2:基本的にこれ全部、「ステキな金縛り」がダメだった話で、三谷幸喜という人自体はそれでも基本的にはめっちゃすごいです。オススメの作品だと、「コンフィダント・絆」っていう芝居がDVD出てるんですけどめちゃめちゃ面白いです。各々の登場人物の内面にしっかりと寄り添い、各人の物語を丁寧に丁寧に紡いで一本の骨太の物語を仕立て上げる正統派の傑作です。もし状況ではなく物語を立ち上らせたいならそれはそれでちゃんとやってくれる人なんです。それゆえに何故あんなポカをかましたのか残念でならない。