2022年の暫定賛歌は読み返してないまま書き始めてるけど、たぶん去年は苦しい苦しいと書いてたように記憶している。
2023年も概ね苦しい一年だったが、わかりやすく環境を変える形で好転に持っていって年を終えることができそうだ。2024年がどういう年になるかは俺の頑張りと俺の環境次第だが、去年の12月よりはだいぶ見通しが良く、雲は薄く遠くまで見渡せる。ワクワクできているってことはそういうことだ。
過去の自分に多く助けられたなと思う一年だった。
今年は、社会の価値観に照らし合わせて自分の価値が減っただの増えただのってのはよく考えていた一年だった。一喜一憂とか躁鬱が激しかった。その一方で、ズイショというよくわからないやつを頼もしく思ってくれる人たちとの交流は本当に俺の支えになった。俺の背骨になっていた。並んだ人みんなに頸椎一個ずつあげるわー、サイン入りで。
現実の俺が落ち込んでて、虚構としてのズイショを慕ってくれてるかわかんないけどまあズイショを認識してくれてる人の存在は本当にありがたくて、そういうのを俺は謙虚ぶって「俺は今、貯金を切り崩してるんだな」と考えていた。
けど、たぶんそれはおかしくて、別に切り崩しちゃいなかった。減った分を補ってもらえた感覚があるのでそんな言い方になるけど、俺がズイショとしてそこにいる時はただそこにいるだけで、増えても減ってもいなかった。そして、その感覚に俺は心底助けられた。
助けてくれた人たちを100だの1000だの数値をつけて感謝の意を伝えることは簡単なのだけど、俺は今の俺を1としようと思う。つまりみなさんの助けに支えられてる俺も含めてのニュートラルってことだ。まあ生活があって仕事があって、そこでは成果も求められるし何なりやっていく必要がある。一方でズイショとして或いはプライベートで人との付き合いがあって離れた人もいればそうでない人もいる。それ全部含めて俺なのだ、1なのだ。なんもなくなって1からやり直しだ!じゃなくて、たくさん受け取って今あるこの俺こそが1なのだ。37年生きておいて今更0なんだと言い張るのは無理があるし、100点満点だか1000点満点だか点数なんてつけれない、俺はただの1だけどその中に全部が入ってる。人に助けられていじめられて、俺という1がいる。その1に何が詰まってるかは俺だけが知っている。お前らなんざにわかってたまるか。それでいいんじゃないかと思ってる。
ドラえもんはのび太の孫の孫だかのセワシによって未来からやってきた。そしてのび太の人生は好転する。しかし、俺はそんなもの嘘っぱちだと思う。本当の助けは過去からやってくる。俺が昔言ってたことや、俺が昔何かを預けた人や、俺が昔から憧れていたものや、俺を昔のままだと思ってくれてる人や、そういうものたちのおかげで俺は立っていられる。ちょっとこの段落、中島みゆきの別れ歌っぽくない?
今最新のトレンドを取り入れた俺なんか嘘っぱちで、俺は過去の俺を支えにするしか寄る辺がない。そして、それを積み重ねとなんか呼びたくない。1なのだ、全部ひっくるめて所詮は1なのだ。クロマニヨンズの歌で「私の一部が恥部じゃない、私は全部恥部なんだ」って歌詞があるんですけど、もしかするとそれがちょっとわかったかもしれない。
どうせなら、自分を愛して、世界を愛したまま死にたい。あまりに道半ばだけど、なんだかできるような気がする。一人ではできない気がするし、結局最期は一人ぼっちな気もする、だけどできるような気だけしている。死ぬ間際、あなたの顔を思い出す準備はできている。
それではみなさん、良い年末を。
以上です。