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野生の外来種を侵略者みたいに子供に教えるのはやめようぜ

 

これを見て、まぁ、嫌な気持ちになった。

 

この前、ちょっと旅行してた先で、無料の水槽展示みたいなんやってるところが立ち寄った施設のなかにあって。そこに、アライグマに襲われてちょい捕食されて前足が欠けてる亀を展示してたんですよね。で、僕は5歳になる息子がいるんですけど、なんやこれ言うて見てて。端的にいうと「これアライグマにやられました」みたいな解説ポップもついてて。いや、ほんまに端的にいうとそんなビレバンの煽りみたいな雑な感じじゃなくてちゃんと背景解説も書いてましたよ、それを僕が読んだ上で噛み砕いて話すって流れでこのあとの僕の話が出てくるんで、その施設がちょけてるとかでは全然ないです。

ただ、読める文字も少ない5歳の息子からすると「アライグマにやられたん?亀かわいそう、アライグマめっちゃ悪っ!」みたいなことをどうしても思って言ってるので、雑ですけど僕はこんなような話を彼にしました。

 

アライグマはもともとここらへんに棲んでたわけじゃないんだけど、遠いところにでもともと暮らしてたんだけど、今日からお前を家族にしてお前が死ぬまで毎日ご飯をあげて楽しく一緒に暮らすからって言ってくれる人間がいたから、日本に来たんだよね。でも、そのずっと一緒にいるからねって約束してた人間が約束を破って、もう家には入れないしご飯もあげないってアライグマを追い出しちゃったんだよ。

そしたら息子は「なんで約束破ったん?」って聴いてきて

なんでやろな、もともと約束守る気なかったんかもしれんし、なんか大変になって約束をどうしても守れなくなったんかもしれん。けど、約束破られたアライグマは困るよなぁ。いうて。

息子は「そうやなぁ」言うて。

でもそうやって家にも入れてもらえなくてご飯ももらえなくなったらアライグマも大変やしお腹空くよなぁ。なんか食べなしゃあないし、だから亀のこと食べようとしたんやな、それがこの亀や。この亀も手がなくなってかわいそうやけど、別にアライグマが悪いわけじゃないんやで、約束破った人間がいるから家を放り出されてご飯を自分で探さなくちゃならなくなったから仕方ないんやで。

みたいなふうな話をしたら、息子は「そっかー」と言いながら、しばらく前足のない亀の前から動かなくて、心配そうなような見守るような顔つきでずっとその亀を見ていて、優しいやつだなぁと思った。

 

まぁ、このアライグマが誰かに捨てられたアライグマとは限らなくて、野生の繁殖にやって生まれたガチの野良アライグマなのかはわからんですけどそこらへんのディティールは5歳相手には別によいでしょう。勘弁してください。

別に自分の息子に限った話ではなく、それこそ子供に限らず大人も含む話で、傷ついた誰かを思いやることができる優しいやつほど、そいつが傷ついたのはあいつのせいだ!って激しく憎んだり攻撃的になることってあると思うんですよね。だからこそって言うとおかしいけど、噛み砕いてでも誰が悪い傷つける側が悪いって単純な話じゃなくてさ、って話はしたいなと思う。それこそ、ウクライナという国はロシアという国から理不尽な侵略を受けてるとしても、ウクライナがどっかで戦果をあげたロシア兵がたくさん死んだってニュースを「やったー!」ってなるのは少なくとも当事者国ではない日本人が思うのはおかしいでしょ、ロシア兵だって戦争なんかなければ死ぬこともなく生活していた人間なんだから。

 

だから、まー、やだなって話です。特に命に関しては、殺していい命とか守るべき命とかじゃなくて、雑でもいいからなんでこうなってるのかまで説明したいなとは常々思っていて心がけていて。少なくとも「命を奪って当然」「自分は命を奪う側で当然」みたいな考え方を子供でも大人でも内面化してるのはやだなーと思って。

そう言いながらも人間は肉を食うし、害虫害獣の命を奪うし、家畜や経済動物を飼ってみて使い捨てるし、そこは変わらないんだけど他人の命をどうこうしようとする仕組みがあることに何かは思っててほしくて、当たり前にするときっと人間にもそうなるし。「ありがとう」とか「ごめんね」とかそういうのも気持ち悪いけど、なんか思っといてほしいよなーと思う。

結局殺すんじゃん、結局食べるんじゃん、所詮偽善じゃん、なんていう人もいるんだろうけど、結局偽善ってスタート地点で、まずスタート地点に立たないと悩み考えることすらろくすっぽできないからなぁ。実際俺も「生態系の維持」とかで外来種をやんややんやしてるの、なんか人間偉そうだな、お前ら人間が死ねば一番維持されるよ、とかは全然思うしね。

 

なお、これを「くだらねえ」と思う大人を今更啓蒙するのは無理だしめんどくせえのでそういう人たちには呼びかけておらず、これを「たしかにな、もうちょいめんどくさがらず丁寧に説明してみるか」と思う人向けに書いているので、タイトルは「野生の外来集を侵略者みたいに考えるのやめようぜ」ではなくて「野生の外来集を侵略者みたいに子供に教えるのやめようぜ」になっています。

 

以上です。

バベル

p-shirokuma.hatenadiary.com

blog.tinect.jp

 

idコールというか言及時って今はてなは通知飛ぶんだっけ?どうだっけ。まあTwitterで報告すればいいか。

シロクマ先生の記事2つ読んで、明らかにだいたい同じ論点を違う語り口で話していて(まあシロクマさんがだいたい同じ話ばっかしてるのはいつものことだが)、なんか思ったことテキトーに書く。Twitterに連投しようかなと思って「あ、長くなりそうだしブログにしとくか」と思っただけで、構想は何もないです!!

 

まずなんか思ったのは、そうね、昔は今よりもっと腕っぷしや政治力やコミュ力やなんやらである種の暴力ないし権力を行使できる人とできない人の格差がものすごく大きかったよね。今でももちろんたくさんあるけど、それでも随分ましになった。ましになったというか、そういう力に頼って生きてる人は今も変わらずそのように生きてるんだが、それを持たざる者でも対抗してあわよくば仕留められる手段が育ってきたというか。みんなが平等に使える初期装備がちょっと強化されたみたいな(もちろんこの初期装備をうまく使いこなせないから相対的に変わらずしんどい人もたくさんいます)。

で、その初期装備ってのがいわゆる「正しさ」みたいなものと「正しさに従って機能する(しなくてはならない)前提の公的機関」みたいなものなんでしょうけど、ここまではまあシロクマ先生の言ってることをなぞってるだけなんですけど、乱暴に言えば「正しさ」を担保に保証される「権力」「暴力」を誰でも平等に使える社会って、それもう社会全体でミルグラム実験スタンフォード監獄実験をやってるってことなんだなと思って。えーまーわざわざこんなはてなの最果ての瑣末なズイショさんのブログ読んでる人間なんてどうせ厨二病でその手のwikipedia読み漁ってる人しかいないと思うので当然ご存知かと思いますが、どちらも「権力を行使する側」という役割を与えられた人間は、割と他人を抑圧することに積極的になるし罰を与えたり懲らしめたりを普通に行えちゃう残酷さが発露するみたいなそういう実験なんですけど。スタンフォード監獄実験の場合、あくまで演技というか設定という前提で、被験者を看守と囚人に分けてそれぞれのロールを任せると看守役はどんどん囚人に容赦ない看守になるし、そうなると囚人はどんどん看守に反抗的になるし、みたいななんかそんなやつなんですけど。まあ、日本社会の少なくとも一部は今まさにそんな状況ですよね。しかもみんな自分のことを看守側だと思ってるからタチが悪い。はてなブログTwitter始めて少なくとも10年以上のなんかそれくらいインターネットやってますけど、そこらへんの社会の変化の過渡期に割と前の方の席で立ち会えたのはラッキーだったと思う。違う立場の人間同士が話し合うみたいなことはちょっと難しくなって、「正しさの奪い合い」「単なるポリコレ陣取り合戦」の様相が色濃くなっていくのは、まあ10年そこらでの変化としてはあっという間と言って差し支えないだろう。自分が看守側であるために相手を囚人認定するために躍起になる、そういう風潮は確実に強くなったもんだなぁと感じる。もちろん躍起になってる人は声がでかくて目立つのでそんな人ばかりじゃないのは当たり前なんだけど。

で、やっぱ過渡期って言ったのは本当に過渡期だったから。何言ってんだこいつみたい人はインターネットを見ればなんぼでも見つかるけど、過渡期なら仕方ねえかぁとは思う。虐げられてきた当事者が反撃できる新しい武器が新たに登場したらそりゃ使うっしょ、て思うし。ただ、これが本当に過渡期に起こる混乱なのか今後のスタンダードになってくのかはちょっともう何十年か見てみないとわかんねえなとは思ってて。というのはみなさんご存知の通り、差別や憎しみというやつは伝播するし次世代への継承も積極的に行われるものだから。僕は北海道のそこそこ片田舎の出だから、親世代の和人とアイヌが憎しみあってる偏見しあってるのも子供の頃から見てきたし、自分の頭が今以上に足りない当時は大人の言うことを真に受けてアイヌのこと嫌いだったし。厄介なのは和人の俺の親が偏見を刷り込んでくるだけじゃなくて、アイヌの大人も虐げられたそれまでの人生があったうえでしかたないのかもしれないけど和人の子供への当たりはめちゃめちゃきつかったから、対立や差別の構造を保存しようとする点では双陣営一致しててめちゃめちゃ子供に刷り込んでたなと今となっては思うんだ。でもそれっておかしいな変だなって今は思えてるからラッキーだけど、大阪に住んでてもたまに在日とか同和の話を見聞きして「え、まだあるんだ」と思うんだけど、俺はたまたま一応「目の前の人間の属性とか考えず普通に話そう」と一応一応思えるようになっただけで、北海道を離れたから見えなくなっただけでアイヌ差別は今も普通にあるだろうし、俺が俺なりに普通に話そうとしても話せない人は同じ世代でもたくさんいるだろうし、その人にはその人の普通に話せなくなる人生がそれまでにあったのだろうと思う。

そういう風に、人間同士が仲良くなれない理由は実に容易く次世代に継承されて誰も得しない不毛な争いは続いていくのだろうが、その仲良くなれない理由が社会が漂白されていくことで更に増えて、さらに人々はバラバラになっていくんじゃねえのかなぁというのがシロクマ先生の一連のエントリを読んで感じた一番の危惧だ。

で、シロクマ先生が偉いのは「じゃあどうすりゃいいんだ」も一応考えてるところだ。それが「人間ってすごくないですか?」みたいな方のやつで、「あんまりわかりあえるところないのにナアナアでふんわりうまいこと一緒にやれてるのすごいすよね」みたいなことを言ってるんですが、なるほど、言語で揉めて人種で揉めて何度も何度もバベルの塔が木っ端微塵になってる我々人類にとって、最後の砦はそれしかないかもしれないと膝を打った。消去法だけどそれしかないかもしれない。

「正しさの奪い合い」「ポリコレ陣取り合戦」と今の社会の方向性を形容しましたが、このゲームをやるとなると、その人の属性とかあるべき社会のルールとかとにかく「定義」の奪い合いになるじゃないですか。で、「定義」ってのはみんなで一律に共有しなくちゃならないっていう定義がまずあるわけですけど、それは無理な領域に我々は今到達しているよと思って。そんなんできっこないからナアナアでやってたところをわざわざ主戦場にしちゃったらそりゃうまくいくわけないよね、ていう。確かに、たとえば同性婚の話題についてのコメントとかでもよく見るよね、「理解は要らないから権利だけくれ」みたいなの。一方で「どうして愛する人と一緒にいたいだけなのに理解してくれないの」もたくさん見る。声としてはどうしても後者の方がエモーショナルで強いので目立つ。そしてその後には理解できない人の強い反発が目立って「理解し合えない」という不協和音がメインストリームになってしまって断絶が深まる。断絶が深まれば、それを次世代に継承する機運が高まる。僕もこれまで別の属性の立場にいる当事者として、いろんな他の立場を理解しようと努めてきたけど、その中でなんとなく理解し合えたと思える人の方がもちろん圧倒的に少なくて、こちらの抱える悩みや苦しみを理解してもらえなかったら腹も立つし、頑張って自分なりに考えて理解しようとしたのに「まだまだ全然理解が足りない」とダメ出しされても腹が立つし、理解し合おうとすると大変なことの方がそりゃ多くて、だからこそある程度でも理解し合えて友情なり信頼が発生した時の喜びはひとしおだけどもしかしたらそれってパチンコで大当たりが出たら嬉しいのとそんなに変わらないのかもしれない。もちろん、そういう風に誰かと繋がれるのはかけがえのない経験になるし、少なからずともの理解者を得ることは人生の大きな財産になるけど。

ただ、同じ思想の人と簡単に繋がれる現代においては、大当たりが出るのが当たり前くらいのめちゃめちゃ出るパチンコをやりつつ、大当たりが出ないパチンコも一緒に打ってクソ台だって台パンするのが当たり前になってないかみたいなところがあって、下の世代に何を伝承したいのかとしたらそこかなーみたいな。パチンコはたまにしか出ないし、たまにしか出ないから面白いんだよみたいな。

いや、違うわ、めちゃめちゃ話が脱線してるから。なんだ、えーと、みんながみんなと分かりあうのはちょっとキツいけど、お互い「そうなんだ」くらいで済ませられたらいいよねって話なのかな。お互いの立場やなんやを定義し合って、どちらの言い分が正しいかを定義しようと言い合うのって、結局「争点を明らかにする」ってことじゃないですか。そしてお互いに譲れない争点を明らかにするって、全面的に相手をコテンパンにするまで戦い合うってことじゃないですか。理解し合おうとすることって、実は戦い合おうとすることと表裏一体なんだなと思って。じゃあ戦い合おうとすることって理解し合いたいことかっていうと、そんなのはジャンプとか少年漫画の中だけの話だし、対偶も取れてないし。

だからなんだろ、とりあえず一番嫌なのはこのお互いに裁き合うポジションを奪い合う戦いが色んなところで勃発してる現状は嫌だなってのと、これは俺が生きてる間に解決することはないだろうから(俺が生まれるずっと前から続いてる今もずっと続いてる争いがたくさんあるんだから当たり前)、じゃあ俺は何を喋ろうかなと思って、思ったことを喋っただけのやつでした。

あ、でもこれ厨二病こじらせて変なwikipedia読んでるようなやつしか読んでないんだった!ダメじゃん!もっと発信力がないと喋っても意味ないじゃん!?発信力を持つためにはえーと、なんだっけ、松ちゃん審査員やりすぎ!これ言ったら発信力高まるんだっけ!?

まあ、一人一人えっちらおっちら日常と隣人を大事にやっていくしかないですもんね。

以上です。

テレビ番組「ベスコングルメ」のコンセプトが完璧すぎる

みなさんは日曜日の夕方18時半サザエさんの裏で放送されている「ベスコングルメ」という番組をご存知だろうか。私は寡聞にして知らなかった。

伊集院光がゲスト出演するらしいとの情報が伊集院光ファンなので耳に入ってきて、どういう番組なのか全く知らないままTVerで視聴したのだが伊集院光回の面白さも去ることながら、番組企画のコンセプトデザインそれ自体が何より素晴らしくてちょっと感動してしまったので毎週日曜18時30分の録画設定を完了しながら書き記したいと思う。

ベスコングルメとは、ベストコンディショングルメの略らしい。グルメを楽しむベストコンディションを整えたうえで美味い飯を堪能する、つまりどういうことかというと目的地となる美味い店のそこそこ遠いところをスタート地点として、目的地まで歩く。東京の街並みをトークをしながら歩いてゲストの思い出の場所への寄り道も交えつつ只管に歩いて、目的地まで歩ききったらうまい飯を食う。ただそれだけのバラエティ番組。

出演者は毎回3名でMC1人とゲストが2人。僕が見た回はオードリー春日がMCでゲストが伊集院光と青森を拠点に活動する女性マルチタレント?王林(ごめんあんま詳しくない人です)、この3人で今は亡き伊集院光の師匠・六代目三遊亭円楽の愛したステーキ屋を目指して東京の下町をただ歩く。ただそれだけ。ちょっと調べてみたらMCはオードリー春日と麒麟川島の隔週らしい(ラヴィットやっててこんなレギュラーも持ってんの!?)。

ありがちなトークとグルメの番組なんだが、とにかくまずこの「歩く」というコンセプトが素晴らしい。いわゆる街ブラみたいな、飲食店が固まってる場所を通行人やお店の人と話しながら食べ歩きするのではなく、いくつかの街を横断縦断しながらひとつの目的地に向かってただ只管に歩く。この街を越えながら歩く感じが、歩くの好きな俺にはそれだけで愛おしい。東京は出張がてらでお邪魔するくらいにしか知らないのだが、そもそも今住んでる大阪だって大学に入学してから住み始めた街なので最初はよく知らなかった。地方の田舎者には伝わるんかなと思うんですが、修学旅行とか単なる旅行とか移住したての時の都会って、駅がワープゾーンに見えるんです。A地点からB地点に移動しようと思ったら、A地点の最寄駅から電車に乗って、B地点の最寄駅まで乗り継いでB地点に向かうのが普通みたいな感じになっちゃうんですが、そこに住むと色々わかってくる。これ全然電車賃払わなくても歩けるなーみたいな、むしろ電車乗り継ぐより歩いた方が早いじゃん、みたいな。歩いて移動することを覚えることで、街は良い意味で狭くなっていく。どこかへ行くのが億劫じゃなくなっていくという意味では広くなっていくとも言える。そして、歩いていると電車に乗っていたら知る由もなかった「ここにこんなとこあったんだ」が店でも神社仏閣でも何でも増えていって奥行きが増していく。それが街で生活するということなんだろう。僕は歩くのが好きなので、東京の街を歩きまくるこの番組コンセプトがすごく好きになってしまった。

そしてそこで展開されるトーク、これも3人という少人数編成でしかも歩きながらのトークなので、まず一言で言えばうるさくない。ふつうのトーク番組みたいなフリにうまく答えてそれを別のやつが広げてまた別のやつがうまく落としてみたいな雛壇がたくさんいるガツガツした感じとか、かっこいいこと言ってアテンションを集めて次にパスを出してまたかっこいいこと言ってみたいな対談系の洒落臭い感じとか、そういうのが全然感じられない。何せみんな一生懸命歩きながらだから、普段通りの感じで、いつも思ってるからいつでも話せることとか、いつでも思い出せるからいつでも話せることとか、テレビ番組なんだから簡単に「素朴」と言い切るのはテレビに騙されすぎだけど、学生時代の登下校の時に友達と交わす会話みたいな、そういうテンションで繰り広げられるトークはどうにも愛らしい。

そして何より、そうやって5kmとか歩いて辿り着いた目的地のお店で食べる美味い飯。それを食べる出演者、その飯が美味そうに見えないわけがない。だってそこそこに歩いて疲れて目的地に辿り着いてやっとありつく美味い飯、美味そうに見えないわけがない。しかもこの番組、アサヒビールの一社提供で、とりあえずみんな生ビールを飲む。美味そうに見えないわけがない。2015年くらいだったと思うんだけど、ビールのCMで「グビグビ」って喉越しの音を使うのが禁止だか自主規制だかになったと記憶していて、それはたしか断酒を頑張りたいアルコール依存症の人たちからすると刺激的すぎる音なので配慮しましょうみたいな流れだったと思うんだが、それ以降いかに「それなりに頑張って、それなりに達成感があって、心地いい疲れの中で飲むビールは最高だぜ」という感じをCMという短い尺の中で物語にするかという試行錯誤の歴史は加速してる感じがする。これは缶コーヒーのCMがいかに労働と労働の合間での心の清涼剤として見せるために労働者へのリスペクトを表現するかを模索してきた歴史に似ている。そう考えた時に、人生を振り返りながら自分が生きた街を歩き、語り、歩き歩きまた語り、歩いて疲れた自分の身体と自分の半生を労うように食う美味い飯と生ビール、見ていて気持ち良くならないわけがないだろう。

食傷気味のコンテンツであるグルメを出演者に歩かせることで美味そうに食わせて素直に「俺も食べてえな」と思わせて、テレビ用にコーティングされたタレントのキャラクターを歩きながら喋らせることで引っ剥がして素直に聴けるようにして、街を歩いて半生を見せることで視聴者である俺自身の半生や俺が過去に生きた街までも思い出させる、すごいバランスで全てが噛み合う企画コンセプトの思惑通りの良い気持ちにさせられてしまう番組、それがベスコングルメ。毎週録画はしたとして、これTVer課金したら過去放送分も見れるのかなぁ、後で調べよう。

唸ったよ、面白すぎて俺は唸った。東京以外を歩く回もあるのかな、見たい。見たすぎる。歩きたくなるし、美味いものを食べたくなるし、ビールを飲みたくなる、最高の番組。応援するぜ。

以上です。