←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

ロシアで犬と遊ぶアプリが沢山インストールされててロシアの人も戦争に苦しんでいる

まずはこちらをご覧いただきたい。僕がフォローしてるTwitterの人がまとめてくれてたロシアでどんなアプリがたくさんダウンロードされているかをデイリーごとにまとめて可視化した動画だ。

 

 

作成者の言うとおり本来の意図は、世界どこにいようが別の国の海外IPとしてインターネットにアクセスできるVPNというサービス?を使って(ここらへん俺もあんまわかってないけど)統制されたロシアからの情報ではなく海外の情報にアクセスしようと国民がVPNアプリをインストールしまくっている、という動画である。

なるほど、、と眉を顰めて見ていたわけだが、なんかひとつ浮いてるやつがいる。

なんか犬のアプリがある。なんだこれ?

リプライ欄でも「犬が強い」「犬が耐えてる」とあって、いやこれたしかにおかしい。

それで動画を見直してみると、実はこれ耐えてるのではなく最初から人気アプリだったわけではなくなぜだか急浮上している。

なんで?

気になったので早速インストールして遊んでみた。

f:id:zuiji_zuisho:20220310215847p:image

なんの変哲もない、タップしたら色んなリアクションを取ってくれるワンちゃんと遊ぶだけの子供向けのアプリだった。

なぜこれがVPN勢と並んで上位に食い込んでいる?

と、思案していると俺はそのからまだ2歳か3歳かなので全く記憶にないし真偽不明なのだが、何度も聞いたこともある、ある逸話を思い出した。

 

かつて昭和天皇崩御したとき、日本全体が喪に服すこととなり、テレビはまさにお通夜ムード、娯楽を求めた国民によって全国のレンタルビデオショップの在庫は空っぽになった。

 

つまり、このワンちゃんアプリは何か「そういうことか!」とわかりやすく驚けるような巧妙なカラクリでインストールされまくってるわけではなく、シンプルに子供向けの娯楽コンテンツとしてインストールされまくってるのではないか。

ここからは浅薄な想像でしゃべるので読んだ人が突っ込むだけ突っ込んでいただきたいのだが、調べてないので知らんがきっとロシアのテレビはウクライナ侵攻以降、プロパガンダである戦争報道一色であろう。そこからは娯楽コンテンツなんか一切に消え失せているのかもしれない。

しかし、ロシアにだって子供がたくさんいる。子供には戦争のことなんか深刻に向き合う義務なんてないし、もっと楽しいものを見て過ごす日常があるべきだ。もしそれがこの先無くなってしまうとすれば?いつまで無くなるんだ?いつ戦争は終わるんだ?ロシアの市井の子を持つ親にはそんなことわかるはずもない。

じゃあせめて、せめて何か子供が楽しめるコンテンツを今のうちに確保しなければ。

そういう風に多くの市井の子を持つロシア人が危惧したと考えるなら、このワンちゃんアプリがインストールランキングの上位に食い込み続けていることにも全く合点がいくわけである。

これが見えてくるとVPN以外のアプリ動向にも色々「なんでそうなってるのか」が見えてくる。

まず、telegramというのは名前からしてLINEのような通話アプリだと想像できるが、調べてみるとロシア産だった。

もともとのロシアの通話アプリのシェアはわからないが「何かあった時に連絡を取りたい相手と繋がるために一番信用できるのはやはり自国のアプリだ」ということなのだろう。

 

そして、辛い非日常の中においてもコンテンツに触れたいのはもちろん子供ばかりではない。

侵攻より前の日付のランキングがある動画の最初の部分ではInstagramYouTubetiktokなどのコンテンツアプリが上位に位置しているのだが、InstagramYouTubeは早々に圏外に落ちていきtiktokが今日まで辛くも生き残っている。

これもシンプルにFacebookGoogleも西欧側の企業であり、いつアクセス不可になるかもわからない。tiktokは中国なので、それなら一番最後まで残るコンテンツはtiktokなのではないかというロシア人の判断のように見えてくる。

ここまで考えてGoogleでニュースを調べてみると、ここ2日くらいの間で実際に、Netflixと Amazonprimeビデオは、ロシアへのサービスを停止するらしいことが簡単にわかった。情報があまりに多すぎるので恥ずかしながら自分から探さないと目に入ってこないニュースではあるが、探してみればすぐに出てきた。

ロシアの市井の人々はこうなることを予期して備えていたのかもなと思った。

 

VPNアプリだって、こうなってくるとなにも「国外の戦争に関するニュースに触れたい」という理由だけでインストールが増えたのではなく「早くクレカ使えるうちにとりあえずVPN経由でネトフリ一年契約し直して、とりあえず向こう一年はエンタメを享受できるようにしなくちゃ」みたいなそういう人もいるんじゃないかなと想像する(ここらへんは俺がVPNの仕組みあんまわかってないので申し訳ないんだが)。

 

ここまで考えて、やっぱ戦争はやめようよという話にしかならんのだけども。

 

三者の我々は、情勢はどうなんだとか戦況はどうなんだとか、核が飛んできたら嫌だなぁとか、ウクライナの人たちに死なないで欲しいなぁとか、もちろんみんな心を痛めているんだけど、コロナの時と違って(コロナは継続中だけど)トイレットペーパー買い占めたりなんだったりってのは起こっていない。

ロシアの人はロシアの人でまた事情が違う。

攻め込まれたらどうしようと思うのはもちろんとして、今すぐに攻め込まれるかはわからないとしても「私たちはこれから今までの生活を送れるかわからない」ということに恐怖しながら、何とかこれからもできる限り今と同じような、大変なこともあるけれどコンテンツに触れて楽しい気分になれる一瞬がある毎日を送りたいと思ってるんだろうし、これは「明日から食べ物が買えなくなったらどうしよう」とまったく地続きな思考の集合体によって起こってる動きでそれが可視化されたものなのかなと感じて、このアプリランキングの動画を見て、本当に多くの市井の人はまったく望んでいない、日常を穏やかに過ごしたい人たちばかりなのに起こっている戦争なんだなと改めて思った。

 

以上です。

息子が転んで、俺は笑う。

息子は今年の夏に5歳になる。もうそんなになるのかぁと時たまに思う。

そう思っているのは俺だけではなく彼自身もそうなようで、彼は今まだ自分にはできないことを見つけるにつけて、今はできないけど5歳になったらできるで、6歳になったらできるで、と自分の伸び代のアピールに余念がない。

少なくとも今のところ、ぼくたち両親と彼とのあいだには嫌だと思ったら嫌だと言える信頼関係があるらしく、ぼくは度々息子に怒られる。最近ぼくが一番多く怒られるのは彼が何かヘマをこいて痛い目を見た時に笑ってしまった時だ。

部屋中に折り紙をばら撒き遊んでいる。そんな折り紙だらけのフローリングの居間をしっちゃかめっちゃかに走り回る。折り紙に足を取られてすっ転ぶ。すってんころひんとひっくり返って頭をしなやかに床に叩きつけて、一瞬前まで満面の笑みではしゃぎ回っていたのが嘘だったかのように大きな泣き声をあげる。俺はそんな彼を見ると笑ってしまう。コマ送りみたいに早回しみたいにすってんころりんと24フレームですっ転ぶ息子の姿を見るとついついケタケタと笑ってしまう。

泣きながら息子は、自分の足元を疎かにさせた折り紙よりも俺に抗議の声をあげる。自分が失敗して悲しいのに笑わないでと抗議の声をあげる。

すまんすまんと謝りながら、俺は笑いがこみ上げる。まるで自分が全知全能のように自由気ままに振る舞うお前が、調子をこいて痛い目に遭うのが、俺には面白くて面白くて仕方がないのだ。

#8000と電話をかけると、とても大変なお仕事を担ってくださる方に電話がつながり「今、自分の子供がこんな風に転びまして、心配です。死なないか心配です。救急車を呼ぶべきか呼ばないべきかわかりません。こんなことで救急車を呼ぶのは御迷惑なのかもしれませんが、それでもどうしても心配なのですが、どうでしょうか?」という相談に文句ひとつ言わずに付き合ってくれる。何度かお世話になったことがある。

例えば息子が2歳の時に椅子からひっくり返って、フルリフォームしたての壁にしたたかに頭を打ちつけてそのまま壁をがっつりと凹ました時。彼は前代未聞のビッグエピソードに動転驚愕してそのまま項垂れて起き上がれなくなってしまった。この前代未聞の前代にあたるのは彼にとっての2年そこらの人生にしか過ぎないし、それは初めて授かった我が子が初めてそんな風になってしまった我々にとっても晴天の霹靂であったが、電話相談をしてみても「なんか吐くとかし出したら救急車」くらいしか言われるわけがないし、実際にもその後しばらくしたらケロッとしてまた何かしら飯を寄越せだのあれが見たい遊びたいだの言い始めるわけなので全く肝の冷やし損なのだが、そういうふうに子供というのは育っていくわけだ。

だから俺はやっぱり笑っちゃうなと思う。他所様に我が子の生死を気休めでも相談したくなることもなく、元気な子供が元気に転び元気に頭を打って元気に泣く。それを俺が笑って、それに彼が元気に抗議する。俺は痛い目に遭って悲しいのにそんな俺を笑うお前は駄目だぞと抗議する。

これがどうして笑えずにいれようか。

これが笑って済ませられることになるまでに月と日がどれだけ昇ったら沈んだりしただろうか。

そういうことを考えると俺はますます笑えてくる。息子はますます俺に抗議する。

息子はちょっと痛い目に遭ったってぐったりすることなく次の瞬間には跳ね起きて明日の自分の伸び代を語り、今痛い目を見て泣いている自分を笑う父親に意義を申し立て次の瞬間にはケロッとした顔で何かしらの遊びに打ち込む。

これを笑わないという方が俺にとっては無茶な話だ。

悲劇はスローモーションに見える。2歳の息子が転ぶときはスローモーションに見えたが、今の息子がすっ転ぶところは24フレームで見える。それは、彼が成長しているということだし、俺が彼を信頼していることだとも思う。だから俺は笑うし、彼は笑う俺に抗議する余裕があるのだろう。

何かあればすぐにでも手を差し伸べたかった我が子はいつの間にか手を差し伸べるまでもなく勝手に立ち上がるようになり笑ってさえおけばいいほどにたくましくなり、そしていずれ俺の笑い声さえ聴こえないところまで行ってしまえばいいと思う。

以上です。

むしろエビデンスも正しさもない「私はこう思う」のぶつけ合いが必要なのかもしれん

Twitterのタイムラインにこんなツイートが流れてきた。

 

 

で、まず初めに思ったのは、「エビデンスエビデンスくれよ!」であった。

そんな調査結果本当にあるの?その調査の仕方は本当に正しい調査の仕方だったの?と気になる。実際に調査があったとしても、それが例えば、「事故に遭った当事者の家族に『気をつけてね』って家を出る前にちゃんと言いましたか?」ていうアンケートをとった結果「言ってなかったかもしれません」「言えてませんでした」の方が多かったんですよ、みたいな話だったとしたら、それは別に「気をつけてね」と言った方が事故に遭わないという話には直結しないし、身内の不幸に対する「もっと何かできなかっただろうか」という気持ちがそれを言わせてるだけなのではとも思う。

ここ数年事故に遭ってないあらゆる人に「気をつけてね」って毎日言われてますか?と聞きまくった時に「言われてます」が明らかに大多数というアンケート結果があるのであれば「ふうむ、じゃあやっぱ言ったほうがいいのかな(まあ別にエビデンスなくても言うんだが)」くらいには思うのかもしれん。ただし、俺はこういう統計の専門家ではないので、そんなアンケート結果が存在していたとして、その結果を以て「気をつけてね」と声をかけると事故る確率が下がると断定していいのかはさっぱりわからん。

俺がここで悩ましく思うのは、たかだか「親愛する人を見送る時には『気をつけてね』と言う。なぜなら無事にまた再会したいからだ」というある種の当たり前のことにいちいち調査結果がどうだとか統計的にどうだとか、研究者によるとそれが最善だという話があるらしいとか、そんなものをいちいちくっつける必要があるのだろうかということだ。

 

何も俺は、こういうことを言いたいわけではない。

「それは本当にエビデンスはあるのか?不確かな情報に思い込みも手伝って踊らされてはいないか?もし本当にエビデンスを集めてみた結果、『気をつけてね』と言った方が『何を大袈裟な』と受け取られることが多くむしろ気が大きくなって事故に遭う確率は上がるという説が有力だったらどう責任を取るつもりだ。お前は誤った説を流布して、むしろ事故に遭う人を増やすことになるんだぞ。エビデンスもはっきりしてないのにそんなことを言うな」

こんなことを言いたいわけではない。

むしろ、そんな調査結果がかなりの信憑性がある内容で出てきたとしても、「だとしても大切な人を送り出す時に、無事にまた顔を合わせたいから『気をつけてね』と言ってしまうのは人情だから咎められないよな」と思うだろう。

何より、統計の結果がどうあろうともそのシチュエーションの細部は人それぞれだしね。これは偏見も含むが、今からバイクで峠を攻めに行く人に「気をつけてね」と言うのと、今からバスで出社する人に「気をつけてね」と言うのとでは全然話が違うだろうし。かと言って、それぞれのケースでどうだったかの統計を集めたいよねとも思わない。絶対めちゃくちゃめんどくさいだろうし。

 

「お前それエビデンスあんの?」と噛み付くところから始まった俺の思考であるが、結論としては「エビデンス出せよ」ではなくて、「そんなこと、エビデンス無くても普通に『自分はこう思うからただそうしてる』で十分すぎるのに」という思いだ。

件のツイートには「やっぱそうですよね、明日からも見送る時はそう言います」みたいなリアクションが溢れかえっていた。それ自体は別に悪いことでは全然ないと思う。大事な人に無事に帰って来てほしいと思うのは別に全然悪いことではないし、人間らしいどころか動物としてとても自然な愛らしい心の機微だと思うことに何の躊躇いもない。

ただ、その「やっぱそうですよね」がどこに掛かってるんだろうとは思うんだよな。「心配しちゃうし、心配だよって伝えたいですよね、それで『心配してくれてるのかぁ』と思ってもらえたらいいですよね」ならいいんだけど、それと「やっぱそういう調査結果があるんですね、なら明日からも言おう」との間にはものすごく違いがあるのかなと思っていて、前者であれば全然文句はないですし、後者に関しても文句は全然ないんですけどそこに「ああやっぱりこれでいいんだ、間違ってなかったんだ、よかったよかった」みたいなニュアンスがあったらそれはちょっと大丈夫?くらいにはやっぱり思ってしまうんだよな。

どんな視点から切り取ってもどこから切り取っても不安な時代なのは重々承知で、わかりやすいもの(というか、わからせてくれるもの)に飛びついてしまいたくなる気持ちはよくわかるし、理由もよくわかる。でも、わかりやすいものが自分を楽にしてくれるものとは限らない。

自分を楽にしてくれるのは結局、特定個人の「貴方」という誰かなんだろうと思う。「貴い方」と書いて「貴方」だ。インターネットやメディアを通して見聞きできる耳心地の良いことを言う「誰か」は果たして「貴方」だろうか。俺はいまいちそうは思えない。

 

最大公約数みたいな概念があるらしくて、いわゆるメディアにおける人気者ってのはそういう存在なのかなーと思うことが時たまある。最大公約数になること自体を悪いこととは思わないし一種の生き方なんだろうとは思うんだが、最大公約数で割り切れる数ってのはそりゃあ限られている。割り切れない数よりずっと少ないだろうと思う。最大公約数で割り切れる数になるために、割り切られた方が楽で楽しく仲間同士になれるがために、自分の「あれ?」とか「そうか?」とかを捨てて、自分に1や2を引いたり足したりしてしまう人がたくさんいるなぁっていうのがインターネットを歩いてて思うことだ。

人気者という人たちはすごく大きな最大公約数で、その人たちで割り切れるように自分をカスタマイズしてしまえばうんうんと頷けるのかもしれないけど、それを心地良く思ってしまった時に貴方の隣にいる人と割り切れる折り合いをつけれるのか?みたいなことを思ったりする。

もちろん、1とか2とかを足したり引いたりして、その都度の相手と割り切れるように調整できれば一番いいのだが(というか、人生ってたぶんそういうもん)、エビデンスとか正しさを理由にでかい公約数にすっかり迎合してしまって、引いたり足したりしながら目の前の人との割り切り方を諦めてしまってる人たちが世の中に溢れているんだとしたらそれはもうお手上げだなみたいな諦観と、そんなわけないだろみんな割り切ろうとしてるわみたいな青臭い観念と、両方を持ち続けたいなと考えている。

 

えーと、あとなんか最近考えたことあったかな。ピカチュウってあの大きさだと前歯で首元とか噛まれた時完全に致命傷だから全然肩に乗っけたくないよね。

 

以上です。