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悪い芝居vol.27『今日もしんでるあいしてる』配信用特別撮影版・感想文

あのー大学生の時かな、銀杏ボーイズっていうバンドのボーカルのなんか俺あんま詳しくないんだけど、山みたいな名前の人?尾瀬?はるかな尾瀬遠い空?尾瀬田かな?たぶん尾瀬田みたいな名前の人が主演してる『アイデン&ティティ』ってタイトルの映画を家で見ててさ、それがめちゃめちゃ面白くて、酒をがばがば飲みながら泣きながら見てたんだけど、それがあまりに面白いもんだから終盤で酒をガバガバに飲んでたからおしっこ行きたくなったんだけど、「これを一時停止してトイレなんか行ってしまったらそれはもうこの映画に失礼や!俺はこのまま最後まで見る!!」てなって、飲み干して空になった「白岳のしろ」っていう米焼酎の瓶にパソコンの前のデスクチェアに座ったままズボン脱いで、パソコンでDVDを再生してたから、パソコンの前のデスクチェアに座ったままズボン脱いで泣きながら「白岳のしろ」の瓶におしっこしながらエンディングを見届けたことがあって。で、それくらい、途中でトイレ行くのが躊躇われるから空き瓶におしっこするくらい面白い映画だったんだよって女友達に話してたら「瓶の口に入るの?」て言われて。お前待てよこの野郎!つって、別にちんぽ入れなくても尿道の出口の穴だけ瓶の口にちゃんと向いてたらおしっこできるんだよ!!あの、インデペンデンス・デイのUFOのちゅどーんって撃つビームみたいにさ、ちんぽのない女にはわからんかもしれんけど、尿道の出口、略して尿道口さえ瓶の口にちゃんと当たってたら、あの、インデペンデンス・デイのUFOのちゅどーんって撃つビームみたいな感じで、男は瓶におしっこできるんだよ!!て激昂してさ。もうそれを言うかその場でぽろんとちんぽ見せて「これが瓶に入ると思うか?」って言うかの二択だから、俺は言葉で説明することを選んだ。俺偉い。イエス尿道口一郎。新宝島

で、そんな尿道の話をしていたのと同じような頃に出会ったのが「悪い芝居」っていう京都の劇団。俺もその頃は学生劇団なんだけど芝居を作る側を一応ほんの一応はやっててさ、でもまーなんかうまくいかなくて。お客さんに来てもらうのも大変だし、来てくれたお客さんに届けたいものを届けるのも大変だし、まー屈託無い言い方でいうと絶望してた。面白いもん作ってるのに来てくれないお客さんにも腹を立ててたし、面白いもん作ってるのに来てくれたお客さんが僕の思ってることをちゃんと受け取って持って帰ってくれないことにも苛立ってて、もうダメになってた。つまりはどうしようもなくガキだったんだね。そんな俺を見兼ねた今の嫁さん当時は彼女が、「この劇団のチラシ見るたび面白そうって君は言ってたじゃない?せっかくだし一回観に行ってみない?」て誘ってくれて、当時の俺はまぁ馬鹿ほど金はなかったし、人に教わることなんかねえよって考えるくらいにはガキだったから、他の人が作る芝居を観に行くことにあまり消極的だったんだけど、今の嫁さんに連れ立たれてさ、観に行ったんだ、「悪い芝居」を。これがさ、馬鹿ほど面白くて、自由で、俺は本当にそうしてしまうと後ろのお客さんに迷惑がかかってしまうので、心の中でパイプ椅子からずってんころりんとひっくり返ってしまったんだ。表現はこんなに自由になれるんだ、表現はこんなに自由でいいんだ、って。心底救われたんだよね、

これがだいたい13年くらい前の話なんだけど、びっくりすることにこの「悪い芝居」という劇団、なんと2021年もまだやってる。まだやってんの?じゃあもう、ずっとやるんじゃない?ずっと舞台の上に在り続けるんじゃない?他人行儀にそう思うどころか願って希求する。俺は、「悪い芝居」がいない未来を望まない。

この文章は、そんな「悪い芝居」の最新公演、悪い芝居vol.27『今日もしんでるあいしてる』の感想文です。

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東京の劇場に足を運ぶことは残念ながらできなかったんだけど、こんな世の中なもんでして配信なんかもやっていて、しかもそれがWOWWOWでたまにやってるやつあるじゃん、実際のお客さんが入ってるなかでカメラ回しててみたいな、ああいうやつじゃなくて、休演日わざわざ一日作って、ドキュメンタリーみたいなカメラワークでシーンとシーンと物語をつないでつないで、遠くてもリアルじゃなくてもちゃんと届くように全力で作ってて、そんな配信用特別撮影番を、自宅で酒飲みながら観劇したんです。

今もチケット発売中、2021年3月末まで配信中。今からでも観れる。何回でも観れる。みんな観ろ。俺も観る。何回も観る。お前も観ろ。こんな素晴らしいものを観ないなんて、そんな馬鹿な話があるか。それくらい本当に面白かったんだからお前ら全員観ろ、こんな今しか観れないものが、配信されていて誰でもいつでもパソコンでもスマホでも観れるのやばいだろ、観ろ、全員観ろという話を今からします。

ザ・クロマニヨンズ甲本ヒロトのインタビューがほぼ日で連載されていて読んでたんだけど、そのなかに膝を打った言葉があって、ヒロトが「ライブと映像配信って何が違いますか?」みたいなことを聞かれて、それに対する答えが「家のテレビで体長50mのキングコングが暴れる映画を観るのと、家の部屋に体長2mのゴリラがいるの、どっちが怖いと思います?」だったんだよね。それはもう本当にそのとおり、どう考えても家帰って鍵開けて中に入ったら2mのゴリラがソファに座ってピリ辛キュウリつまみながら俺が録画してた千鳥の相席食堂見てる方が怖いし、ソファの前のちっちゃいテーブルに置いてある氷結の空き缶の本数が多ければ多いほど怖い。体長50mのキングコングが画面の向こうでストロングゼロを何十本を飲むよりもそっちの方がよっぽど怖い。ライブってそういうことなんだよ。演劇もそういうことだし、ZOOM飲み会も面白いけどやっぱり人と会って鳥貴族で二人で酒を飲みたいなって思うのは、完全にそういうことなんだよね。

それで言うと、今回の悪い芝居・配信用特別撮影番は完全に、画面の向こうで2mのゴリラたちがバンバンに暴れていて、生で見たかった、こいつらがどんなに恐ろしいかを、本当は目の前で見たかったという感情が沸き起こって、向こうも本当は俺の目の前で暴れたかったと思ってることが見るからに見てとれるから、会えないことが悲しくて悲しくて、でも、一年前なら想像もしなかったような形で、俺というゴリラとあなたというゴリラが確実に出会っている、つながっている、そう思わないことになんの意味があるんだと思わせてくれる、そんな芝居だったのだった。画面越しの50mのキングコングよりも、目の前にいる2mのゴリラの方が怖いけど、それ以上に画面越しに「会えなかった会いたかった」と叫ぶたった2mのゴリラは、ほとほとに愛おしかった。

でもやっぱ、最初に「悪い芝居」を見てから13年経って、年を取ったなーって思ったのは『アイデン&ティティ』の時と比べて、途中でちゃんとトイレ行ったもんね。配信だから自由に一時停止ができるから、途中2回くらいおしっこ行ったもんね。時の流れを感じた。やっぱ子供がいるからさ、家族が寝静まった後にオンライン配信を見始めてたんだけど、万が一子供が起きて見られるかもしれないじゃん。3歳の息子がいるからさ。万が一見られようもんなら、それくらいの子供って絶対大人のマネをするからさ。そしたらさ、入るじゃん。子どものちんぽは入るじゃん。「白岳のしろ」の瓶の口に子どものちんぽは余裕で入るから。で、一度、瓶の口に入ったちんぽは瓶の口に入るちんぽとして成長していくことになるから、それもまた良くないじゃん?ちんぽは大きく育つにこしたことはないじゃん?せごどんでもそんな話してなかったっけ?今のは完全にせごどんは西郷隆盛がでっかい男になる物語としか思ってないから出てきた言葉ですけど。

そういうふうに、目が離せない、本当に劇場で観ていたならそんなトイレに行ったりタバコを吸いに行ったりみたいな一時停止なんか問答無用の目の前で生きた人間が暴れまわってる芝居とはちょっと違って、ZOOM飲みの最中に対面の飲み会以上にフランクに「ちょっとトイレ行ってきまーす」ってビデオとマイクをミュートにするように、一時停止なんかもしながらも、最後まで最後まで見届けて素直に感動しているのであった。

この芝居、『今日もしんでるあいしてる』は、あからさまに新型コロナをモチーフにした設定のなかで繰り広げられる物語です。生きる人がいて、死ぬ人がいて、しなないために人々の行動は制限されて、会いたい人にも会えなくて、最後に会った「あの時のあなた」という最後の記憶が誰の頭のなかにも星の数ほどあって、その記憶を頼りに今の僕も昨日と同じようにあって、僕のそばにいるかけがえのない「あなた」は瓶の口におしっこしようがするまいがずっとずっと隣にいて、間違いなく隣にいるかけがえのないあなたは俺の独りよがりの何かかもしれない。そんな関係の虚しさを、やりきれなさを、心細さを、この1年半ほどのあいだ誰しもがずっとずっと感じていた。

けど、13年の付き合いの「悪い芝居」を見た俺は、そんなこと一切合切にどうでもよくなってしまったのだ。

年に一度にあるかないかの、劇場でつながる時間を共有するだけの、それ以外の364日はお互い好き勝手に生きる私達の関係は、つながる1日を除いては364日のあいだじゅうお互いの心配なんかしない私達の関係は、つながらない時間があまりに当たり前になってしまったこの世界において、誰よりあなたというゴリラと俺というゴリラになって、等身大の会えないゴリラになったのだ。

会えなかったことがどうしようもなく寂しいし、お互い灯台の下で「おーい」と叫び合うゴリラのように画面越しで出会えたことを堪らなく思う。

ひたすらに「もう逢えない」をテーマに描いた芝居だ。それはフィクションだけど、逢えない時間が「私」の輪郭をガリガリと明確にするし、逢えない時間がこんな気持ち悪い感想文を作る。逢えない時間は、逢えてた瞬間のその果てにあっての今だし、そんな時間がなかったら、こんな気持ち悪い感想文は生まれていない。

俺だけだったら何もできなかったんだよ、俺だけじゃなかったから、今の俺があるんだよ。

普遍的な感情だと思う。これは俺のためのものではない、みんなのためのものだから、この芝居、本当にたくさんの人に見てほしい。みんな大好きだよって、言いたくて叫びたくて囁きたい。そんなことを思う、思わない、すべての人に届いてほしい、悪い芝居vol.27『今日もしんでるあいしてる』、#dieloveyou

配信は2021年3月末まで観れるらしい。

 

 

以上です。

 

 

松井優征の作劇のクセを知ってると『逃げ上手の若君』怖いよー

あのー、松井優征のやり方ってすごくシンプルで、根っこは死ぬほどシンプルにテーゼvsアンチテーゼなんですよ。

もちろんその後にはジンテーゼで締め括る。これが松井優征が見つけた勝ちパターン。

 

魔神探偵脳噛ネウロは、「欲vs悪意」の物語でした。謎を食べたい魔神・ネウロと食欲旺盛な女子高生・弥子がタッグを組んで様々な殺人事件に立ち向かう作品で、中途に出てくる犯罪者たちはお前どうなのよという奴らもたくさんいましたけどネウロはその全てを「その人間がどうしても成し遂げたいと願って成し遂げる欲が一番うまい」と歓迎して、弥子はそれにわかんねーけどわかる部分もある、と悩む。最終的にはそういう弥子にとってもわかることはひとつもなくて、ネウロにとっても超つまんねぇ純然たる悪意・シックスと戦うことになって終幕を迎える。自分のことしか考えてなかったはずのネウロが、数多の人間の欲望に触れて、守るべき欲望と単なる悪意としか言えない欲望とを区別して、戦う相手を決めて、「人間の可能性」を守るために悪意相手に立ち塞がる。結果、「人間の可能性」は守られる。良くも悪くも欲望とは可能性だというジンテーゼのもとにフィナーレが訪れる。

 

暗殺教室も構図は同じなんだよね。「殺すぞ」という強い欲望、強い意欲、それ自体を否定しないところからスタートする。「殺す」という意欲自体はそんなことでは殺されない超生物からすると、意欲を引き出しているに過ぎない。その意欲を何に使うかはその人次第だし教える側次第殺される側次第。まず「意欲」がなければ何も始まらない。それが「殺す」であろうとなんだろうと、まず「意欲」を引き出すことで「可能性」は生まれる。

ネウロ暗殺教室って全く同じ構造から生まれてるんだろうなーと思う。

ジンテーゼとしての「教育」「殺意も受け止める」から逆出発したのが、暗殺教室だったんでしょうね。

「ここからが本当の暗殺教室です」と松井先生が巻末コメントに残したのはカエデが「死んで」と言った回だったでしょうか。それまでは「殺意」を「やる気」に矮小化する話ばかりで押し倒していたので、「本当に死んで欲しい」を持ち出して、「本当に死んで欲しい」と「殺したいほどやる気にさせてくれてありがおう」を対比にして、「本当に死んで欲しい」を「教育の失敗」に落とし込んで殺先生に反省までちゃんとさせるんですよね。作劇うまい。

まとめてみると、暗殺教室においても構図は馬鹿ほどわかりやすくて「殺す殺されの関係でも、可能性を開ける関係性であればよし」vs「殺すことに取り憑かれて人生を棒にしてもかまわない」の2択になってて、ネウロの時から何も変わらないんですよね。

ほんで、先日始まった『逃げ上手の若君』なんですけど、ここでも「殺す英雄vs逃げる英雄」というわかりやすすぎる提示を1話からぶちかましてて、これからどうするんだろうなーこれからどうするんだろうと、すんごく楽しみになってるわけです。

南北朝時代自体がすごく扱いにくい題材で、天皇制がアレだからアンタッチャブルみたいなところがあるんですけど、

繰り返すにテーゼとアンチテーゼをぶつけてカタルシスを産み出すのが芸風の松井先生ですから。すごく大変なんじゃないかなー、今まで以上に変なことやるんじゃないかなーと心配しちゃうんですけどめちゃめちゃ楽しみ。

楽しみー。

以上です。

 

命を賭けてでも正月に餅を食べたい勢なんなの!?

あのー、まあ例年通りね、今年の正月も餅食って年寄りが死んどりますわ。インフルエンザはコロナ対策を徹底した人類に完全に抑え込まれてますし、たしか帰省時期なんかの交通事故件数とか去年のお盆の水難死亡事故件数とかもがっつり減ってたみたいなニュースは見てたと思うんですけど、餅だけはね、そりゃ絶対数こそ多くないものの代打で出てくる玄人の送りバントくらい確実に今年も年寄り殺してるみたいでね。

いやしかし、こんだけ毎年毎年餅食って死んでる奴が出てるのに、なんで餅をみんなそんなに食うかねって俺はもともと餅が好きじゃないんで全然気持ちがわかんないんですけど。だってあれ、餅の味しかしねえじゃん!どう調理したところで味が全然染みなくて表面だけちょろっと味がついてるだけで一噛みした後はずっと餅の味じゃん。一寸先は餅じゃん。油でコーティングされた真っ白なキャンパスじゃん。何色にも染まらない最悪のキャンパスじゃん。キャンパスやめてまえ!

まあでもそれはあくまで餅がもともと好きじゃない俺みたいなやつの意見でね、実際には世の中には正月になったらもう発作みたいに餅を食いたくて食いたくて堪らなくなる人たちがたくさんいるから毎年毎年人が死んどるわけですよ。うちの嫁もそうですよ、今ね、3歳半くらいになる息子がいるんですけども、師走になって正月が近づいてくると、嫁がそろそろ息子も餅食べられるかな?言うてて。待て待て待てーぃ言うて。お年寄りと同じく小さい子供もそらぁあなた餅を喉に詰まらせがちですよ、「まあ、すごく小さくしたら大丈夫かな?」とか最初は俺もそんな嫁さんの餅の美味しさを我が子と共有したい欲を無碍にしたくもないから考えたけどさ、やっぱ餅危ないよ注意喚起ツイートみたいなんがタイムラインにたくさん流れてくるからさ、やっぱちょっと待てよ、と。そんなリスク負ってまでどうしても餅って食べなきゃいけないもんなのかな、て話して。で、嫁さんもまあそうだよねーと言いつつ、じゃあ三ヶ日は救急車とかすぐ来てくれるかもわかんないし成人式過ぎたくらいに食べさせる?みたいなことを言うから、いや待てって待てって待てぇって言うて。救急車がちゃんと来てくれるならセーフとかでもなくて救急車が来てくれるまでの数分呼吸が止まってしまったら死ぬかも分からんし脳に酸素が行かなかったら後遺症が残るかもしれないし、それをどうにかする方法はもう俺はジョジョ5部でやってたペンを喉元にブッ刺して口以外の呼吸経路を無理やり確保するやつしか知らんのよ。俺はいつでも息子の喉元にボールペン突き刺せる心構えで餅を食べる息子を見守ることになるんやけどもそこまでしてどうしても餅を食わんとあかんのかね、人間は。そう言う話になってくるんですよ。そこまでのリスクを負ってまでなぜ、人は餅を食べたがるのか。だってその、成人式以降くらいに食べさせようかみたいなのも完全にもうゾンビ映画のノリになってるからね。他のエリアを全部ゾンビに占拠されながら立て篭ってたんだけど仲間の一人が負傷して熱が出て膿んでやばくて破傷風かなんか知らんけどやばい!みたいな感じなっててさ、それで仲間を大事にする主人公が廊下にめっちゃゾンビいるけどそこを駆け抜けて階段ひとつ降りて下の階の一番端にある医務室まで行けばペニシリンあるかもしれないみたいな時にもともとは悪党だったけど割と理知的だからこの状況では協力し合うのが賢明だただし馴れ合いは無しだぜ的な奴が言うじゃん、「夜だ、アイツらは視力が極端に弱い。夜なら音を頼りにしか俺らを探すしかないからな。もし本当に医務室に行きたいなら夜だ」って。成人式以降なら餅食わせてもいいかなって完全にそれくらいのノリだと思うんだけど、そこまでして食わなくちゃならんの?餅って!?

あーわかった、全部わかった。もー全部わかった。エラリー・クイーンくらいわかったわ。結局な、このうちの嫁みたいな人間が年寄りになった時に餅を喉に詰まらせて死ぬんだわ。お前死ぬからやめとけと思うのにそれでもなお餅を毎年食いたがる親戚のジジイババアたちみんな、かつては餅なんかで死ぬわけがないし正月といえば餅の人類たちだったのだ。「正月と言えば餅!」これに取り憑かれた人間が当たり前のように毎年謹賀新年に餅を2,3個食べる人生を50年か60年か続けた末に死ぬんだわ。100個目で死ぬ餅だわ。いきものがかり今すぐ楽曲提供してくれ。習慣だとか慣習だとか、こんな恐ろしいものはない。正月は餅を食べるのが当たり前で、それはどれだけ高齢になっても変わらないよというメンタリティ、こんな恐ろしいことはないよ。例えばYouTuberが年寄り6人集めてロシアンシュークリームやらせて、当たりにカラシじゃなくて餅を入れてたらめちゃめちゃ怒られると思うんですけど、その餅を正月に食うのは万人に許される現状絶対おかしいって!もうさ、普通自動車免許と同じノリで年寄りは餅食べないのがスマートみたいな感じに持ってこうよ、杉良太郎今すぐ「今年は餅を食べませんでした」みたいなタイトルのアメブロ書け。

そんな感じでね、餅で毎年人が死ぬということについて考えてるわけですけど、話は変わるんですけど、年越し蕎麦が不味くてね!スーパーでそこそこええ値段の蕎麦と海老天買って、大晦日に食ったんですけど、これがまー、麺も全部小麦粉やんけ!みたいなやつで、海老天も7割がた衣やんけハンサムスーツやんけみたいなやつで、マジで最悪だったんで。関西はうどん派そば派で言うたらうどん派なんでね、店側も「なんでもええから蕎麦食えたらええんねやろ」みたいな感じで客舐めてんのかな?て思ったし、そら舐めるのはしゃあないからじゃあ来年はどうしたら美味い年越しそば食えるかなぁって俺は不味い蕎麦食いながら考えてたんですけど。

そこで、「そこまでして年越し蕎麦食わんとあかんの!?」てなって。俺の中で。俺は蕎麦が大好きなんですけど、結局餅好きと同じ思考回路なってるやんけ思って。ここに人間の業がある。ここに人間の業がある。って思ったよねー。俺も同じように囚われてるんだよ、何がなんでも年越し蕎麦を食べたい業に。蕎麦粉に致死率という概念があっても俺は年越し蕎麦を食べたがるかもしれない。いやそんなわけないやろ!そう言い切れるのは蕎麦粉に致死率という概念がない世界で蕎麦好きをやってるからに過ぎない。

人類は平等に誰しもが浅薄で愚かだと思います。あと、嵐の後には虹が出ると思います。

今年も人が憎しみ合うとか、人が愚かに自分らしくあり続けるとか、そんなものを面白がりながら生きていこうと思いまーす。あけましておめでとございまーす。

以上です。