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M-1グランプリ2017感想文

総じて、良い大会だったのではないかと思います。実力のあるものがそれなりに評価された、浮かれてない大会だったと感じます。個人的にはとろサーモンを応援したい気持ちが決勝進出者決定の段階からあり、それを踏まえると嬉しい結果ではありますが期待してなかったのでびっくりした。僕はM-1のなかで和牛とスーパーマラドーナが二大全然おもしろくないM-1常連だと思っているので、しかしこの二組は概ね人気者なのでまぁそんなもんだろうと思っていたので全然自分の推すとろサーモンが優勝するとは思ってなかったのでとても驚いた。

良い大会だったとは思うが、わりと小粒な大会だったとは思う。ネタはおのおの面白かったのだが、なんというか一年を総括するような空気はなく、ただ10組の漫才師のなかで1位を決めただけに過ぎないような物足りなさは終わってみても感じないでもない。少なくともM-1が再開した2015そのあと続く2016には明らかに劣る臨場感だったと思う。で、これは演者のせいなのだろうかと考えていたのだけど、シンプルにあの順番をおみくじで決める方式のせいなのではないか、と思った。

これまでは順番は本番のずっとまえに決まっていたはずなんだけど、今回はその場で都度くじを引いて次に漫才をやるやつを決める方式でやっていた。これが良くもあれば悪くもあったのではないかと思う。こんなんやられたら、ネタやる方からしたらやってられないよな。多くをやってはられないよ。「いつ出番がきてもいつもどおりやるだけだ」の気持ちで臨むしかないと思う。それが俺がこじんまりを感じた要因だと思う。例えば、去年カミナリが序盤に出てきてドツキ漫才で会場を沸かせた後にスーパーマラドーナが後半で「痛くないように叩いてます」とボケたやつ、アレってカミナリの存在を踏まえていたと思う。カミナリが決勝にいなくても同じ下りはやっていたのかもしれないが、順番が事前に決まっていて、自分の出番以前の空気があっての言い方ってあると思う。そういうの感じるけど、「いつ自分の出番が来るかわからない」ってなったら、そういうその場の空気を踏まえた動きをするのはまぁわりに危なっかしい。あんなもん、事前に相方と打ち合わせする時間もないように感じた。そうなると、もう、いつもどおりやるしかない。そういう状況でやらされたのが今回の大会だったと思う。

あのくじ引きで順番その場で決めるシステム、深刻にグルーヴ感を損なわせるので来年は絶対にやめるべきだと思う。いや、今回の結果に不満はまったくなくて、むしろみんな各々のありったけを出したネタができるのでむしろフェアだとは思う。けど、M-1ってそんなんなん?みたいなのはちょっと思ってしまうのであった。

あとはまぁだいたいTwitterで言ってる通りだったんだけど、さや香には頑張って欲しいなぁと思った。M-1の審査員ってなんだかんだ客席の笑いの量に引っ張られる傾向があるので、やっぱ今回のくじ引きルールの犠牲者だったなとも思う。あんなところにわざわざ行く客席の人ってそれなりのお笑い好きだと思うので、「目当て」はいると思うんだよね。で、普段だったらその「目当て」に照準を合わせてテンションを調整してるところを、思わぬところで全然知らない芸人が笑わせる、みたいな。そういうので笑わせるのがたぶんさや香の芸風だったと思うんだけど、あの形式だと客も毎回毎回集中して見なくちゃならないよね。その結果の変な客席のあったかさだったと思うんだよなー俺は。

ともあれ、和牛が優勝できなかったことに「そうかー」と思った。俺はとろサーモン応援してて、和牛は大嫌いなんだけど、決勝のネタを見て「ああ、これは優勝は和牛だな」と思った。さんま御殿とかには一回出れるけど、最終的に売れないタイプのチャンピオンおめでとう、と思ってた。だって「うまい」とか「笑いの量」で言えば、和牛の圧勝だったはずだもん。なのでとろサーモン勝ったのは驚いた。いや、票の内訳踏まえるとそんなに驚いてないんだけど。

以上、やっぱ書いてみたものの「これからのお笑いはこういう方向になるのかな」みたいなワクワクはあまり得られなくて、他のふつうの賞レースと変わらない感じの印象を受けた。この印象を払拭させるためにもとろサーモンにはめちゃめちゃ頑張って欲しい。やっとだったのでその点はめちゃめちゃ嬉しい。

本当にあんまり書くことがなかったので、良かったんだと思う。それは停滞に向かう良さなのかもしれない、とも思った。以上です。

俺が男として生きる辛さ

これ読んだ。

俺による要約は俺の目から見た要約なのでまぁみんな読んでって感じなんだけど、このタイトルにある「男が男として生きる辛さ」の根源は「男は選ぶ側なので選ばれる側に慣れていない」かららしい*1。俺はそれを見て「今まで胡座に慣れてきたので今更正座なんてできないので男は辛い」みたいな話なのかなと受け取った。そして「は?」と思ったのであった。

僕自身、足の付け根に男だけの飲み会で突然披露するとウケるナニを持ってるので、たぶん分類的には男なのだけど、そりゃあ「男として生きる辛さ」みたいなのって生きててある。思えば小学生の頃から足が速い男子ばかりモテてたことに足が遅い僕は歯がゆい思いをしたしもっと言えばそのモテたいという意識自体もよくよく考えるにずいぶん生きにくい。僕は顔がシュッとしていて脚が速そうでバスケ部じゃないのにレイアップシュートとか普通に決めれそうな顔をしていたので会話の中で実は運動は苦手なんですよと言うと「すごく意外ですね」と当たり前に言われたし、それに対して「そうでしょう、意外性のあるプレイはできないんですけど、意外性自体はあるんです」と返す私は無理をしていた、は言い過ぎかもしれないけれど、そんなにニュートラルな穏やかな気持ちではなかった。何より顔とか関係なく女の子は運動ができるのが意外だったが、男の場合は運動ができないことを意外とするのが当時の一般だったと僕の頭のなかではそういうことになっている。

手垢のついた言葉で「他人を変えることはできないが自分を変えることはできる」みたいなやつがある。あまりに手垢まみれなので舐めるのだって憚られるのだが、そのとおりだと思うので僕はこの言葉を口と舌と喉に通して臓腑に飲み込むより仕方ない。あなたの眺める世界はあなたの目玉から見える世界で、私の眺める世界は私の目玉から見える世界で、一生あなたと私が同じ景色を見ることはない。そのことはとても悲しいことではあるけど、他人を変えることはできないが自分を変えることはできる。ならば自分の目玉を取り替えることで世界は変わる。あなたも変わる。あなたと私の距離も変わる。少なくとも私にとっては。あなたと私が同じ景色を見ることはついぞできずに別れの瞬間が来てしまうのかもしれないが、私は私の目玉を取り替えることで、きっとあなたに近づくことができる。そう考える私にとって「男は選ぶ側なので選ばれる側に慣れていない」だから男は辛いだなんて話はどうにも納得がいかない。目玉を取り替えることができないのは男の上に胡座をかいて目玉を取り替えないあなたの問題で、男の問題ではないはずだ。「お前みたいな男らしくない男は男ではない」じゃなくて「男に生まれた咎は俺もお前も抱えているが、お前の言ってるそれについては男の咎ではなくお前の問題なのではないか」ということだ。

繰り返すに、男が男として生きる辛さってのはある。というか、俺の意思に関係なく、俺が男として生きようと思おうと思うまいと私は男と見做されて生きていくので、社会のなかで生きていきたい私はどうにも男に擬態せざるをえない。それはまぁホモソーシャルな男しかいない場所で下品な話に話を合わせたりとか、そういうのももちろんあるけれども、それ以上に、男であるというだけで男として立てられてしまうことがあるのだから、そこで向こうが好きでもなんでもない俺なんかでもまぁ仕方ないし立ててやってもいいかなと思ってもらえる程度には頑張らなくちゃならない、だとかそういうことはもちろんある。できない時は先述のとおりよくわからないごまかし方をして、気の毒に思うのも思われるのもだってみんな辛いから、そういうごまかし方をすることも男らしくできる時ばかりじゃないからするけれど、そういうことを辛いなと思うことはしょっちゅうだ。

そういう辛さなら分かるけど、でもやっぱ「選ぶ側の根性が染み付いてるから辛い」って言われると全然納得いかねえなぁ。でもやっぱっていうか、僕はそういう風にやってるんで、いわゆる男の側を演じることはあっても、俺は男だしとか男はこう扱われるべきだしなんて思ってやってねえし。人にビールを注ぐ時にラベルを上にしなくちゃならないみたいな窮屈さはあるけどね、自分もラベルを上にしてビールを注がれたいって思ってしまうことをどこまで他人や環境のせいにしていいものなのか僕にはよくわからないや。

件の文章は「僕は男の弱さに向き合う機会があったからわかったよ、でもそういう機会がない人もいるからそういう人たちの大変さもあるんだなって思うよ」って感じで書いてるんだと思いますが、男の弱さに向き合う機会なんていくらでもあったはずさ。ただ、それと同じくらい目を背ける言い訳も男にはたくさんあったんだろうなと思う。俺だってそういう言い訳使ったことなんて過去を振り返れば絶対あるわけで、ただそれを正当化したくはないな。また、「そういう人たちもいる」って言って「私はもうそういう人ではない」とかも言いたくないな。いつまたそういうことをするか分からないって思いながらやってきたいな、と思う。男という属性に属して自分を預けたくないように「そういう人たちではない」という属性にも属したくないし、っていうかどこにも属したくないし俺はゾフィーだ。シュワッ!

まぁここまですでにぐちゃぐちゃなのでテキトーにポエミーにまとめますけど、これ今回、男に文句言ってますけど、別に今回男に文句言ってるけど女にも文句言うし、それはもう性別とか関係なく、自分は性別に喋らされてる被害者だみたいな感じのやつには全部文句言うし、俺だよ。俺は、ただ俺になりたいだけなんだよ。ただそこには性別みたいなのがどうにもある。他にも年上とか年下とか肌の色とか色々あるんだけど、何にせよ性別はある。俺は俺の男という性別に行動を制限されたり支配されたりなんてことはないよあって堪るかと高楊枝に努めたいけれど、社会か神かは男と女を分けて、俺は男として生きるより仕方なくなった。本当はただあなたと会いたかった。男とか女とか関係なく、ただふつうにあなたと出会い、あなたが好きだとか嫌いだとか言いたかった。それができないこの世界をものすごく歯がゆく思う。ままならないなと思う。

ああそうか、冒頭の記事で言ってる男の辛さとか生きにくさと、俺の歯がゆさままならさは違うぞって、それを言いたくて俺は、こんな文章をキャンパスノートに鉛筆で殴り書き、それを筆ペンで清書したのをiPhoneで撮ってアップしようとしたけど文字が滲んでるので読みにくいなと思い、パソコンを立ち上げメモ帳に書き上げ、ランサーズに文章構成を頼み、こうしてブログにアップしようと思ったのだな。以上です。

*1:いやちゃんと読めよ、根源は「マジョリティゆえの弱さを見つめる機会の少なさ」だろ、読めば分かるだろうが。と言われるだろうが、せめて「マジョリティという立場を笠に着て自分の弱さから目を背けられる機会の多さ」とか書いてくれればよかったのになぁと思う。

末は悪魔か大臣か

まもなく生後四ヶ月を迎える子孫が家にいるのだが、どこの赤子もそうなのだろうか。こいつがとにかく寝ることを嫌がる。
赤子ってやつは眠くなるとぐずぐず泣き始めるらしいというのは予てから聞いてはいたものの、私はてっきりそれを寝たいから泣くものなのだと勝手に解釈していた。しかし実際に子孫と一緒に暮らすようになってみてわかってきたのだが、少なくともうちの子孫に限って言えば、どうやら彼は寝たいから泣くのではなく寝たくないから泣いているものと思われる。彼は我が身に襲いかかる睡魔に抗おうと泣くのである。
Google先生に御うかがいを立ててみるに出てきた眉唾な話なのだが、一説によれば赤子にとって睡眠という自身に降りかかる現象は「何故か俺の意識が途絶える」としか認識できていないらしい。言われてみればなるほど、赤子は一日の3分の2を寝て過ごすとは言うものの、彼が自覚的に16時間睡眠を心掛けて生活しているようにはどうにも到底思えない。我々大人の感覚からすると好きなだけ寝られて羨ましいようにも思える赤子の生活なのだが、彼らの認識からすると彼らは一日のあいだに気絶と覚醒を何度も繰り返す正月繁忙期のレギュラー西川くんさながらの状況に毎日晒されているわけだ。
そして更に厄介なことに彼らは意識が途絶えたあとにまた覚醒するであろうという確証をまだ得られてはいないらしい。つまり彼らにとって睡眠と死はほとんど同じことであり、「死」という概念なんぞまだ知らない彼らであるが漠然と「このまま意識を失ってしまったら【俺】はそこで終わるやもわからぬ」という危機感を抱いた結果として、彼は渾身の力で泣き叫び、睡魔に抗うのだ。
繰り返すにGoogle先生カイゼル髭を撫でながら教えてくれた眉唾な話なので真偽のほどは定かではないが、少なくともうちの子孫を観察するにこの説は成る程なかなかに合点がいく。
まず彼は眠気を感じるとかぶりを振ってふぎゃふぎゃとぐずり泣きを始める。私はなるほどそろそろ眠たいんだなと思い彼を抱え上げ立ち上がると、ゆらゆらと揺らして眠気を促進させてやる。この時、彼の眠気をx、ぐずり度をyとするとy=xの式が成り立ち、グラフは馬鹿の考えた売上拡大計画のようにまっすぐに右上がりの1次関数直線となる。
彼は泣く。眠くなればなるほど彼は泣く。
それもそうだろう、彼の認識からすると一度意識を失ったが最後、その後自分がどうなるか皆目検討つかないのだ。ここでどうしたって気を失うわけにはいかない。死んでも死にきれないとはまさにこのことだ。
しかし彼が睡魔に抗い続けるにはまだ何もかもが足りなかった。俺だって24時を回ってもまだなお起き続けることができるようになったのはトゥナイト2の存在を知ってからだ。お前ごときが自分の意思にもとづき覚醒状態を維持し続けるには10年早い。必死の抵抗を物ともせずにゆらゆら揺らし続けていると眠気がピークに達した瞬間、彼は突然に瞬く間に寝る。その刹那手前までギャーギャーと泣き喚いてたにも関わらず「決めてた?この時間になったら寝るって最初から決めてた?」と聞きたくなるほどにピタッと眠ってしまうのだ。こうして彼は今日も自らの意思に反して眠りに落ちる。10年早いわ。一昨日きやがれ。
そんないつもの彼の睡眠導入過程だが、ある日、彼のこの一連の仕草があるものに似ていることに気づいた。悪魔祓いである。彼が眠気に負けまいと意識を留めようとする様子は、十字架を向けられせっかく憑いた身体を追い出されそうになるのに必死に抵抗する悪魔さながらだ。一度それに気づいてしまうとぎゃんぎゃん泣きわめく声も寝かしつけようとする自分に「やめてくれ、話せばわかる、なあ頼むよ、それだけは勘弁してくれ」と懇願しているようにさえ思えてくる。もしかしたら私が育てているのは案外悪魔なのかもしれない。
とは流石に思わないが、睡眠に入ると共に自分が身体から追い出されることを恐れ断末魔のように泣き叫ぶ彼の姿を見ていると、人間が寝ている時の魂というやつは本当に身体の内に留まっているのかどうかが本気で怪しく思えてくる。魂の話に「本当に」も何もあったものではないはずなのだが、なるほど人間、こっちを騙すつもりでいる奴よりも本気で信じ込んでしまっている奴の方がよっぽど危ない。睡眠への不安をまっすぐに表明する彼を見ていると、僕は大人なんかよりよっぽど彼に騙されそうになる。
齢四ヶ月にして親に魂の所在を疑わせるんだからまったく子供は恐ろしい。今後も彼は幾べんも幾べんも繰り返し、大人になってすっかり忘れてしまったわけのわからん道理で私の価値観を揺るがそうとしてくるのであろう。子供のころに知りたかったこと、わからなかったこと、今ならもっと考えられるはずなのに大人になるとそれ自体をいつの間にか忘れてしまっている。彼はそんな忘れてしまった問いをまた私に投げかけてくるのだろう。xの高まりに伴いyも加速させて腕の中で暴れる小さな彼を見ながら私はそんなことを考え楽しみに思い、同時に「いいから寝ろや」とも思うのであった。


まれにベビーカーや布団の上で一切の抵抗を見せることなく安らかに穏やかに眠りにつく時があるのだが、それはそれで「わが生涯にいっぺんの悔いなし」と言っているように見えて「なんでだよ」と思う。以上です。