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虐待死の報道が出るたび思うこと

例えばそれがいじめやブラック企業や差別や性犯罪やハラスメントに関する話題であったのなら怒りにわななき握りしめた拳を振り上げることにも一定の意義があるのかもしれない。

その被害者と同じような境遇に今もいる人に「あなたがそんな非道い目にあっていい理由なんてない。私は怒っている。あなたがそんな目にあっていることは当たり前なんかじゃないと怒っている人は、社会に、ここに、いるんだ。だから当たり前だなんて思って諦めないで。SOSの声を発して欲しい」とメッセージを発することには一定の意義があるのかもしれない。

が、虐待に限って言えば、本当にただ怒りに任せて拳を振り上げるだけではまったく何の意味もないんだよ。

自分の親が世界のすべてである子供にあなたのメッセージは永遠に届かない。死ぬまで死んでなお届かない。死ぬ前から死んでなお、彼らは私たちの声など届かない小さな小さな世界にいるしかできなかったのだ。そして今なお、どこかに、そこらに、そこかしこに、私たちの声など届かない小さな小さな世界で身を丸めて震えて生きるいつまで生きられるかもわからない子供たちがきっといる。堪らない堪らない。

しかし、そうして私たちが堪らずに振り上げた拳は「これは絶対に人に知られてはいけない」と子供をそっと社会から隠し込んでしまおうという決意を促してしまうだけなのだ。

狡猾になりたい。老獪になりたい。心を殺したい。私たちは本当は拳を振り上げたかったのではない。その子供を抱きしめたかったはずなのだ。しかしそれは叶わなかった。また今回も叶わなかった。どうすれば生きたままの彼らを抱きしめることができただろうか。ただそれだけを考えたい。

狡猾になりたい。老獪になりたい。素直で健気な子供にそのままに生きて欲しかった。

子供の頃を素直に健気に生きれた大人は、これからも子供が素直に健気にしていても生きられるように、狡猾に老獪な大人になりませんか。

子供の頃を素直に健気に生きれなかった大人は、これからの子供が素直に健気にしていても生きられるように、狡猾に老獪な大人になりませんか。

素直に健気に真っ直ぐに拳を振り上げたところで、素直に健気に親に愛されたかった子供を救うことなんかできっこないことなんかもういい加減わかりきっていることじゃないか。

親は子供を大切にするはずだなんて素直に健気に信じるのはもうやめにしませんか。そして、子供を大切にできない親を素直に健気に憎しみ軽蔑することももうやめにしませんか。

彼らを赦したりなんかしなくていい。ただ狡猾に老獪に、彼らの子供を取り上げてでも抱きしめてあげるために、社会の一人一人に過ぎない私たちに何ができるのか。そういうふうに考えることは難しいでしょうか。

二度と抱きしめられなくなってから拳を振り上げるなんかより、その手で子供を抱きしめたかったはずなんだ。

そのためにできることをもう少し探しませんか。僕は探したいです。探します。

以上です。

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