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『ど根性ガエルの娘』15話、感想文

メモです(あの時どういう気持ちだったかを振り返るためのメモであって、つまりは今後気持ちが変わる可能性はあるかもなぁという予防線も兼ねてるやつですね)。

 

これ、一応これまでの流れも一通り読んで知ってて、そのうえで話題の最新話読んだんですけど。

まぁこういうやり方もあるだろう、とは思った。

けど、俺がこれを積極的に支持したいかって考えると(それは、大したこと無くって、またかけがえのない一票であるのだろう)、僕はちょっとこのやり方は支持出来ないと思った。

漫画から「わたしはこんなにひどいことされてたんだから、後ろから刺しても構わないですよね?」と言われてるような気がした。

それに対しては「後ろから刺すことはどうなんでしょうね、僕には断言できません。なのでごめんなさい、こっちを見ないで、自分の意思で一人で黙って、後ろから刺してください。一人で刺すぶんには、それはあなたの自由だ」と思った。そして、そうして黙って刺した後であれば「刺すのだって仕方ないよ、だって彼女はこんなに辛かったんだから」と僕だって言えたかもしれないのに。

刺す前に「せーので前に押してね、そしたら私が刺すから」とか「後で聞かれたら『ぶつかっただけです』って言ってね」と目配せされてしまうと、それにYESとは言えない。描いた本人は「そんなつもりじゃなかった」と言うかもしれない。本人がそう言うならたぶんそうなんだろう。しかし、僕がどう受け取ってどういう顔を向けるかは僕の自由だろう。ならばやっぱり僕は微妙な笑顔で、YESじゃない顔をする。

だって僕は、作者であるあなたに騙されたのだから。「騙されたくらい何だ。私はもっと辛かった。騙されたショックを私のしんどさに変換しろ」と言われてるようで、僕は「うっ」となってしまった。

こんなことしなくたって、大変な目に合ったんなら合ったと言ってくれれば、いくらでも「そうなんだそりゃ大変だったね」と思うことはできたのに。こういう同情票の最大化みたいなことをされると同情できるものもできなくなってしまう。この際、同情ってやつがいいもんなのか悪いもんなのかもよくわからないけれど、そのうえでどうしたって、僕は本当は同情したかった人にできなかった。

いつも思うのは、例えば今回で言えば毒親とかがキーワードになると思うのだけど、僕はそのキーワードを抱えて生きてる人間には属さないだろう。しかしだからって、聖人君子ではないのだ、当たり前だ。気に食わないもんは気に食わねえ。毒親持ちの人たちは、気に食わないもんを気に食わないと言えずに辛かったのかもしれない。だからって、そういう人の言うことやることを俺が全部許容して笑顔で「今まで大変だったね、よく自分の好きにできたね」なんて言わなくちゃならない義理はない。気に食わないもんは気に食わない。それをお互い言う。それが対等でしょ。

 

なんか、出版社が変わって、イッコ目の出版社では自由に描けなかったみたいなことはあったっぽいのかな、実際のところはよくわからないけれども。しかし、それはそっちの都合だし、読者と作者の関係においてはそんなの知ったこっちゃないはずだし、もうよくわからないんだよね。

なんか、こう、メタ的なトリックのアレでしょ? 前話までは「描かされてた」っていう、どんでん返しなわけでしょ? じゃあ、その「描かされてた」ってさ、誰が描かされてたの? 誰に描かされてたの? 描かされてた責任の所在は全部描かせた方にあるの? そこ考えるとよくわかんなくて気持ち悪りいんだよな。

「実は描かされてました」っていう15話を描くために14話まで描くのって、それって表現者としてほんとうに描かされてたのか? それを「描かされた」って断言してしまうのって、シンプルにずるくないか? 描こうと思って描いたものを「描くしかなかったんだ」っていうの、すごくずるくないか? 「描くしかなかった」という気持ちは本当なのかもしれない、本当なのだろう、けれど、その気持ちを信じるしかないように促される俺の心持ちって読者としてすごい窮屈に感じるのだけれどどうなんだ。

「これはあくまで漫画で、エンターテイメントなんで」と言われるとそうなのかなと思うのだけれど、これをエンターテイメントとして受け取ってしまった僕は、この物語の続きに思いを馳せる僕は、そごく醜い気がする。同情してるようでワクワクしてる第三者になるのも気持ち悪くてなんだか楽しめないのだ。ワクワクされるのが向こうの本位だとしてもだ。「形はどうあれ喜んでもらえるならば」みたいなのって、ともすれば投げやりな態度じゃんと思う。他人のそれを咎めることはできないけれど、それに両手をあげて賛同することもやっぱりできない。

 

毒親というキーワードをきっかけに「なんだこれ?なんだこれ?」って思うしかなかった生きにくさが解明されて解体されてみたいな最近の風潮は、俺はとても良いことだと思う。けどやっぱその一方で、「親のせいなもんで」で片付けられちゃこっちは堪んないよって考えたくなる機会はあったりするわけで、それの最上級に位置するのがこの漫画なのかなと思った。こんな漫画描くな、こんなやり方間違ってるとも言い切れないよ、言い切れないけれども。なんかこの15話を「描かされた」って言い切る感じ、なんか釈然としないなぁと思った。良い大人が、ましてや表現者が、親や圧力に描かされたことを、「仕方ないよね描かされたんだもの」って言うのはどうなの?(本人は「自分の意思で描いたんだ」って言うかもしれない、けど僕は勝手に「本当にそうか?」と思う。それが健全な書く人と読む人の関係で、それが家庭環境の違いによって「いや、そういう解釈はおかしい、彼女は大変だったんだから」とかなるのはそれもおかしいだろと思う)。悩ましいメタという題材としては素直に面白いと思ってるからこんなエントリが書けているのだけども。悩ましい。

ここらへんの話を考えるのはすごい難しい。もうなんかめんどくさいからタイムマシンで誰か俺の親父とおふくろに「息子をしこたま殴れ。色んなものをぬか漬けにして、そのうえでしこたま頭を殴れ」とか指示してくれと思う。そうすればよっぽどフェアだ。この世にフェアはないもんだから、何事も大変だ。以上です。